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静かなる守り神 ロンドンの洪水を防げ!テムズ・バリア 前編

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

1953年1月31日夜半。北海に面する海岸線を高潮が襲った。
テムズ河口のカンヴィ・アイランドでは58名が落命。英国全体で犠牲者は300名を超える大災害となり、英国民に大きな衝撃を与えた。
このレベルの高潮がロンドン中心部まで押し寄せたら…。
その悪夢から首都を守るべく、8年の工期をかけて建設され、82年に完成したのがテムズ・バリアだ。
今号と来週号の2回にわたり、ロンドンの守り神ともいえる、この防御システムについてお届けすることにしたい。

繁栄をもたらす河の別の顔

命の源といわれる水。
水なくして生きてはいけぬ人類は、自然と水のまわりに集まり、やがて文明が大河に沿って誕生した。

母なる河―。しかし、その河は人に恵みを与えるばかりではなく時には残虐に牙を向いた。洪水は肥沃な土を下流にもたらし豊かな実りを約束する一方で、まるでいけにえを求めるかのように多くの犠牲者をのみこんだのだ。有史において、いったいどれほどの人々が暴れる水の中でこときれたことだろう。河は、人類にとって常に諸刃のつるぎだったといえよう。

四大文明を生んだ黄河、インダス河、チグリス・ユーフラテス河、ナイル河ほどの規模ではないものの、英国の首都ロンドンをうるおすテムズ河も、古くから発展をもたらすと同時に、しばしば洪水という形で人々に打撃を与えてきた。その氾濫のたびに、愛する者を、あるいは築き上げた富や安定した生活を奪われた人々の涙が、おびただしく流された。

約2000年前、ローマ人がグレート・ブリテン島を侵略した際、中心となる都市を築くのに選んだ「シティ」のあたりはやや高台にあった。ローマ人も洪水の脅威を十分すぎるほど知っていたのである。

歴史をひもとけば、ローマ人がグレート・ブリテン島への侵攻を開始してから64年後の紀元九年、史実上、初めて洪水の記録が登場する。さらに、その29年後に起きた洪水では、一万もの人が溺死したと伝えられている。

1236年の洪水では、多くの人命と家畜が失われ、ウェストミンスター宮殿(1512年の火災でほぼ焼失。跡地には国会議事堂が建てられた)の中を往来するのにボートが使われたという。また、当時の様子をいきいきと描写した日記の作者としても知られるサミュエル・ピープスは、1663年12月7日のページの中で、「昨夜、今までイングランドで記録された中でも最悪レベルの高潮にロンドンは見舞われ、ホワイトホール一帯は完全に浸水した」と記している。

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この後も、定期的に洪水は発生し、例えば1774年にはヘンリー・ブリッジが流され、1848年、52年、75年、94年にもテムズ河が氾濫したとされている。仮に25年に1度のペースで洪水が起こったとすると、記録が残されるようになったここ2000の間だけでも80回、ロンドンは被害にあっている計算になる。

ロンドン中心部で大きな被害が出た最後の記録は1928年。この時には14人が亡くなった。

さらに、近年、テムズ河で起きた洪水の中でも、大規模災害として人々の記憶に残っているのが1947年、そして53年の洪水である。

1953 年、大洪水に見舞われたカンヴィ・アイランド(写真は米軍がヘリコプターから撮影)。©Agency for International Development

まず、47年の洪水からみてみよう。
この年の冬、英国は大寒波に見舞われ、各地は大雪に埋もれた。第二次世界大戦で戦争には勝ったものの、財政的に疲弊しきり、戦後2年たってもまだ立ち直ることができずにいた英国を襲った大寒波は、人々を心底苦しめたという。
47年3月、雪が解けると同時に大雨が降り、117ミリの雨量に相当する水がテムズ河に一気に流れ込んだ。メイドンヘッドでは1・80メートルも浸水した地域があるなど被害は深刻で、経済損失は当時の金額で1200万ポンド(2013年に行われた調査で、近年の3億ポンドに相当すると報告された)といわれている。

しかし、この47年の洪水をはるかにしのぐ惨事が、わずか六年後に起ころうとは誰にも予想できるはずがなかった。


テムズ・バリアを生んだ1953年の悲劇

テムズ河流域で起こる水害の最大の原因は、集中豪雨ではない。最も恐れるべき敵は、北海上空で発達した低気圧により、グレート・ブリテン島の東沿岸で生じる高潮である。

また、テムズ河は干潮・満潮の影響を受けて日常的に七メートルも水位が上下する。しかも、月に2度は「大潮(spring tide)」と呼ばれる、干満の差が最大となる時期があるが、その大潮と高潮、さらに強い風雨が重なった1953年1月31日の夜半から、翌2月1日未明にかけて、悲劇は起こった。

3メートル近い高潮に襲われたテムズ河口一帯では、2万4000家屋が倒壊した。東沿岸では、4万6000頭の家畜が流され、計307人もの住人が死亡。強風により電話線が切断され、事実上、警報は一切出されなかったことも被害を大きくした。特に犠牲者数が多かった、カンヴィ・アイランドCanvey Islandという村では58人が亡くなり、1万1000人が避難した。また、この同じ嵐で、オランダでは1800人が命を奪われた。
まさに悪夢のごとき一夜だった。

この夜をきっかけに、英国政府・議会はより根本的、より効果的な洪水対策を探り始める。53年の洪水で払われた犠牲は大きく、その痛みは深刻な懸念となり、やがて国家規模のプロジェクトへとつながっていくのである。

洪水を防がなければならない。
しかし、どうやって?

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洪水を防ぐ手立てとして、もっとも一般的なのは河川沿いの堤防をより高く、より堅固にすることだ。実際、1879年に成立した「the Thames River Prevention of Floods Act」(テムズ河洪水予防条例)により、堤防の強化が進められてはいた。しかし、ロンドンの西に設けられたテディントン・ロック(Teddington Lock※=水門)から、テムズ河口までだけでも62マイル(約100キロ)。堤防の強化に努めるといっても限度がある。また、堤防が高くなればなるほど、テムズ河沿いの景観が損なわれるという問題点もあった。

1966年、ハーマン・ボンディ卿指揮のもと、まとめられたレポートが発表され、堤防の強化は進めつつ、これと並行して開閉式「バリア(Barrier)」を設けることが提案された。これにより、テムズ・バリア建設に向けて、本格的に政府が動き出すことになる。
さらに1972年には「the Thames Barrier and Flood Protection Act」(テムズ・バリアおよび洪水対策条例)が定められ、「テムズ・バリア」の名前が正式に登場。いよいよ大工事開始へのゴーサインが出たのだった。
後編へ続く

※テディントン・ロックを境として、その東側(下流側)は干満の影響を受け、北海からの海水がまざる部分(tidal section)となる。テディントン・ロックから西(上流側)は真水で、水源までの距離は約150マイル(240キロ)。

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洪水を引き起こす最大の敵、高潮

1953年の大洪水の様子。© BBC

■発達した低気圧(台風を含む)が海岸部を通過する際に、海面が上昇し、大きな波となって押し寄せることを高潮(storm surge)と呼ぶ。気圧の低下による海面の高まりに加え、岸に向かって吹く強風によって海水が吹き寄せられることで生じる。2005年、米ニューオリンズなどに甚大な被害をもたらした、ハリケーン・カトリーナでは、約6メートルという高潮が観測されている。

■海面は、気圧と海水の圧力のバランスによって変動する。1気圧(約1013hPa、ヘクトパスカル=ミリバールとほぼ同じ)の時、海抜は0メートルだが、気圧が1hPa下がるごとに海面は約1センチ上昇。例えば、1000hPaの低気圧が近づくと、海水は13センチ程度上昇する計算になる。

■日本では台風の季節は秋だが、ヨーロッパで低気圧が発達しやすいのは秋から春にかけて。テムズ河沿いで洪水が起こるのも、この時期が多い。47年の洪水は3月、53年の洪水は1月末だった。しかも、遠浅の海のほうが、低気圧発生時の海面の上昇が顕著であることも分かっており、英国東部(テムズ河口を含む)沿岸に広がる北海の遠浅が、高潮被害をさらに拡大させているという。グレート・ブリテン島東沿岸に吹き付ける強風には警戒が必要だ。

テムズ河あれこれ

■産業革命で一大発展を遂げた英国だったが、都市部での環境汚染はきわめて深刻だった。テムズ河には、工場廃水、家庭からの汚水が化学処理されることなくそのまま流れ込み、従来は庶民のタンパク源として好んで釣られていたサーモンも1833年を最後に、まったく見られなくなってしまった。サーモンが『復活』するのはそれから150年後、奇しくもテムズ・バリアの工事が始まった1974年のこと。

■ゴミにまざってイヌの死骸までがプカプカと浮かび、それが潮の満ち引きにあわせて移動するという状況になっていたテムズ河は、悪臭もひどかった。特に1858年の夏は暑く、「the Great Stink」(大いなる悪臭)と名付けられたほど、悪臭が大きな社会問題と化した。あまりにひどいため、国会は議場の移転を真剣に討議したという。

■悪臭だけでなく、テムズ河の衛生状態の悪さも限界にきていた。1853年から54年にかけてコレラが発生。10,738人の犠牲者が出た。1665年の「the Great Plague」(黒死病=ペスト)流行で、ロンドンの人口の2割にあたる10万人が亡くなったといわれており、それには及ばないまでも、テムズ河をなんとかしなければ、という機運がますます高まっていった。

■1852年、後に「ロンドン下水道の父」と呼ばれるジョゼフ・バザルジェット(Joseph Bazalgette 1819-1891)=右写真=が、33歳の若さで「メトロポリタン・コミッション」のチーフ・エンジニアに就任。1856年から「メトロポリタン・ボード・オブ・ワークス」と名称を変えたこの組織は、ロンドンにおける下水道、道路、橋、トンネルなど多岐に渡る分野の整備を目指し、いばらの道を進む。バザルジェットの気の遠くなるような献身的努力が実り、1875年、ついにロンドンの下水道網が完成。これは現在も主要下水道として使用されている。

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週刊ジャーニー No.1311(2023年10月5日)掲載