「テート・ギャラリー」設立の舞台裏
リパブールにビジネスの拠点を構えるこの実業家は、一八七〇年代後半、ロンドンに工場を建てるべく用地を物色し始めた頃から、次第にロンドンの生活を楽しむようになっていたのだろう。東ロンドンの工場が本格的に稼働開始すると、ヘンリー・テートはストレッタム・コモン(Streatham Common)に住むようになり、街の中心部ピカデリーにあるロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院Royal Academy of Arts) によく足を運ぶようになったという。特にこの芸術院が開催する恒例の夏の展示会「サマー・エキシビション」では常連客となり、当時の現代美術に関する知識を収集し、美術作品に対する審美眼を彼なりに磨いていった。そして最終的には自ら、絵画をはじめ彫刻など、当時の新進作家たちの作品を蒐集するようになっていく。中でも、ラファエル前派に属する英国を代表する画家ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)とは親友として、また彼の創作活動を支援するパトロンとして深い交友関係を築いた。こうしてヘンリーの現代美術のプライベート・コレクションは徐々に増え続けていき、自宅の一部を改造して小さな私設ギャラリーを設え、日曜日には一般の人々に開放するまでになったという。
今までも、新しい分野に足を踏み入れると、たゆまぬ向上心でその最高峰まで登り詰めてきたヘンリー。そんな彼にとって、自宅の小さなギャラリーは、あまりにも器が小さすぎた。質の高い美術品が彼の手元に集まるにつれ、ヘンリーはそれらの作品は然るべきところに所蔵される必要があり、もっとたくさんの人に鑑賞されるべきだと考え始める。そしてその思いは、自身の英国同時代絵画のコレクションを「ナショナル・ギャラリー」に寄贈することにつながっていく。
ヘンリーは一八八九年、ジョン・エヴァレット・ミレーの代表作『オフィーリア』などを含む六十五点の作品を「ナショナル・ギャラリー」に無償で提供することを提案した。しかし「ナショナル・ギャラリー」側は所蔵するスペースがないというきわめて単純な理由でこれを退ける。確かに一八九〇年代初頭における「ナショナル・ギャラリー」では、英国出身の芸術家の作品を展示する場所が十分に確保できないという、スペース不足の問題に悩まされていたのは事実だった。
ヘンリー・テートの文化的慈善プロジェクトは、無念にも暗礁に乗り上げるかのように見えた。しかしこの出来事を迅速に取り上げ、社会的な運動にまで発展させたのが、英「タイムズ」紙であった。時を同じくして、パリに現代美術作品を展示するリュクサンブール美術館(Muse du Luxembourg)がオープンしたことも追い風となり、「英国も隣国のフランス同様、自国の現代美術を一堂に展示することのできる美術館の創設が必要である」と声高々に訴えた同紙のキャンペーンによって、世論も大きな盛り上がりをみせていった。ヘンリーはこれらの動きに呼応するように、新美術館設立のために八万ポンドという巨額の寄付をすることを確約、その後英国政府はやっと重い腰を上げ、新しい英国現代美術のためのスペースをロンドン内に探すことを発表したのだ。これが後世の英国美術史を変える、まさに『歴史が動いた』瞬間であった。
こうして一八九二年、時の大蔵大臣の主導の下に、テムズ川畔ミルバンクの元刑務所であった建物を大改装して「ナショナル・ギャラリー」の分館「ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート」を開設するプロジェクトが、加速度を上げて動き出した。建築デザインを担当したのは、シドニー・RJ ・スミス(Sidney Robert James Smith)。翌年に建設が着工され、四年の歳月をかけてヘンリーの寄贈する絵画たちの新しい永住先が完成した。英国の美術品を集めた美術館であることの象徴として、柱の上にライオンとユニコーンを率いるブリタニア(英国を擬人化した女神)の彫刻が威風堂々と置かれた。一八九七年八月、「ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート」としてオープンしたロンドンの新名所は、三十五年後の一九三二年には、同美術館の礎を築いた類まれな現代美術のパトロン、ヘンリー・テートの名を冠した「テート・ギャラリー」と改称され、「ナショナル・ギャラリー」から独立した組織として新たな出発を果たした。
Sidney Robert James Smith
Project for the Facade of the Tate Gallery circa 1893
© Tate
ヘンリーは七人の息子と三人の娘の父親であり、また晩年には再婚しているが、彼の私生活はほとんど公にされていない。大のメディア嫌いとしても有名で、数々のスピーチはすべて代理人に任せていたという。しかし一八九七年、時のエドワード皇太子を招いて行われた念願の新美術館のオープン・セレモニーでは、彼自ら公の場に顔を見せ、短いスピーチを行ったと記されている。以前から何度もナイトの称号の授与を打診されていたがその度辞退し、一八九六年に八十歳でビジネスを引退した後の九八年にようやくヴィクトリア女王から准男爵の位を授かる決心をしたという。美術史家であり美術評論家であるフランシス・スポールディング女史は『テート・ギャラリーの歴史』(テート刊)の中で、「ヘンリー・テートは常に『人々』に投資を続けてきた慈善家で、億万長者であることをほとんど感じさせない、人間味に溢れる人物」と語っている。
奇しくも、英国の黄金時代に君臨したヴィクトリア女王と同じ年、一八一九年この世に生を受けて、女王が即位した二年後の一八三九年に独立、若くして自らビジネスを起こしたヘンリー・テート卿。まさに、飛ぶ鳥を落とす勢いであったヴィクトリア朝の全パワーを背負って時代を生き抜いたような、天性の起業家であり、希有な慈善家であった。一八九九年十二月五日、テート卿は新世紀の到来を祝うことなく、静かに神のもとに召されていった。