精製技術のたゆまぬ改善と、角砂糖の画期的な登場
時を遡ること二十年、一八三九年に二十歳で自らの名を冠した食料品店をオープンした時と同じように、一八五九年に四十歳で「テート」を戴く砂糖精製会社を設立したヘンリーは、現状に決してあぐらをかくことなく、常に問題点を的確に分析し、技術改善に努力を惜しまなかった。一八七二年、リバプールのラヴ・レーン(Love Lane)に新たに建設した大規模な精製工場では、低温でゆっくりと煮詰めて上質の砂糖を製造するという先進的な技術を開発。それまで、英国産は特徴的な味がない砂糖として世界的にあまり評判が良くなかったが、この新テクノロジーによりしっとりとした顆粒を作り出せるようになり、英国の砂糖の評価は飛躍的に高まった。
続いて一八七五年には、ドイツ人の発明家オイゲン・ランゲン(Eugen Langen)から角砂糖製造の特許を取得。一八七八年には、東ロンドンのテムズ川沿岸シルバータウン(Silvertown)に新たな工場を設立し、角砂糖製造のオペレーションラインを確立させていった。それまで、砂糖といえばシュガー・ローフ(sugar-loaf)とよばれる大きな塊が一般的で、それを食料品店の店頭で砕いた後に小売りし、食卓用にさらに各家庭で小さくしていたという。それだけに、当時「ヘンリー・テート&サンズ」が販売し始めた角砂糖の登場は、英国のキッチンに大きな旋風を巻き起こした。その後ヘンリーは、長年住んだリバプールの地を離れ、ロンドンに居を構える。
ジョン・エヴァレット・ミレーによる『オフィーリア』
ヘンリー・テートの慈善家としての功績
一八七〇年代の後半には、彼は英国を代表する事業家として、莫大な資産を保有していた。七つの海を制覇した「世界の工場」として、英国が偉大なる起業家たちを輩出し、中産階級が目覚ましい台頭を見せたヴィクトリア時代において、ヘンリーはまさにその頂点を極めた人物といっても過言ではないだろう。しかし彼の横顔は、ビジネスだけではとても語りきれない。牧師の父親の教育を受け、清貧な生活を過ごした少年時代を、彼は生涯決して忘れることがなかったという。恵まれない子供たちには、恵まれている人が何らかの支援をする――、この思いが彼を非凡な慈善家として行動を起こさせた。リバプール大学(Liverpool University) へ四万二千五百ポンド、女性のための大学ベッドフォード・カレッジ(Bedford College for Women)に三千五百ポンド、ストレッタムの図書館創設のために五千ポンド、リバプールの病院に二万ポンド、オックスフォード大学、マンチェスター大学、東ロンドンに設立したテート基金などなど、その寄付の額や項目を挙げだしたら枚挙に暇がないほどだ。ヘンリーはこれらの寄付を、思慮深く慎重に、そして時には匿名で行っていたという。しかし彼が、最も情熱を注いで種を蒔き、それが現代に大きく受け継がれて大輪の花を咲かせている慈善事業といえば、何と言っても「テート・ギャラリー」であろう。