リバプールの青年実業家、ヘンリー・テート

 

 一八一九年三月十一日、ヘンリー・テート(Henry Tate)は英国北西部ランカシャーのチョーリーChorleyで、ウィリアム・テート牧師(Rev. William Tate)の次男として生まれた。父ウィリアムは多くの人から尊敬される、プロテスタント教会の聖職者であり、かつ博学多才で寛大な人物だったという。地元の有力者から集めた寄付金でプライベート・スクールを創設し、恵まれない子供たちに学びの場を提供していた父直々の指導の下で、ヘンリー・テートは十三歳になるまで教育を受ける。
『三つ子の魂百までも』というが、この幼年期と少年期に父親から授かり受けた、類いまれなる探究心や、常に新しい発想を追求する、人生に対する強い姿勢が、後にヘンリーが多くの事業で成功を収める基盤を作ったといわれている。
一八三二年、十三歳になったヘンリーは、当時既にリバプールに食料品店を構えていた実兄ケイレブ・アッシュワース・テート(Caleb Ashworth Tate)の店に、見習いとして送られることになった。それから七年、ヘンリーは商品知識にはじまり、接客や会計の仕方など、様々な商売のノウハウを地道に、そして確実に身につけていく。後の一八三九年、彼は弱冠二十歳で、リバプールのオールド・ヘイマーケット(Old Haymarket)に自らの名「ヘンリー・テート」を冠した食料品店をオープン。その後にリバプール、いやヴィクトリア期を代表する英国の大事業家として成長していくヘンリーのキャリアの、輝かしい幕開けであった。
一八四七年には、オールドホール・ストリート(Oldhall Street)に二号店を出店、一八五五年までにはヘンリーの擁するチェーン店舗は六軒に達した。そして、小売りの食料品店から出発したビジネスであったが、十四年間でその規模を着実に拡張し続け、後には食品卸売業にいたるまで事業を発展させていった。
後にヘンリーから店舗を譲り受けたリバプールの商人チャールズ・ロウ(Charles Roe)氏は、「ヘンリーは誰もが認める、特別な才能の持ち主だった。彼は常に、商売に必要な道具をいかに改善するかを考えていたよ。その発想は、いつも時代の数年先をいっていた…」と語っている。六店舗全ての食料品店経営が軌道に乗り、ビジネス全般が順風満帆に運び、落ち着きを見せていた。が、当時三十六歳だった青年実業家ヘンリー・テートの心の中はもう既に、新しいビジネス・プランで一杯だったのだろう。彼の次なるステップは、その数年後、見事に開花し始める。

 

砂糖精製という、新たなビジネスに挑戦

 

 十七世紀から十八世紀にかけて、英国をはじめとするヨーロッパ諸国で喫茶の風習が広がり、中でも英国においては紅茶に砂糖を入れて飲むことが地位や権力の象徴となり、砂糖の需要が急激に高まった。特に一六五五年、英軍がカリブ海に浮かぶスペイン領ジャマイカを占領して以来、現地では大規模な砂糖プランテーション(大規模農園)が展開され、十七世紀末には本国英国に砂糖を供給するようになる。それと同時に西インド諸島では、砂糖を栽培・生産する圧倒的な数の労働力が必要となり、これが世界の歴史に大きな軋轢を生み、その是非が現在でも様々な国で論議される「三角貿易(*注1)」に拍車をかけることになった。
糖蜜を含む砂糖、北アメリカのバージニア植民地などからのタバコ、インドからの綿織物、生糸や絹織物、中国の茶など、当時の英国では世界各地からの輸入量が飛躍的に激増。特に砂糖の輸入量は、一六六〇年代に英国輸入量全体の一割近くだったが、一七〇〇年ごろまでに倍増し、一七七七年ごろまでにはさらに四倍になった。十八世紀中期にいたっては、英国人は平均するとフランス人の八―九倍の砂糖を消費するほどの、砂糖消費大国になっていたという(*注2)。そんな背景の中、一六七三年リバプールに初の砂糖製造会社が建設された。以来この地は、三角貿易の英国の拠点として中心的な役割を果たし、主に奴隷貿易で目覚ましい発展を遂げたという負の歴史を持つに至る。
そして、リバプールの食料品チェーン店ビジネスで名声を得たヘンリー・テートが目をつけた新事業というのが、この砂糖精製業であった。まず手始めに、ヘンリーは一八五九年、「ジョン・ライト&Co. (John Wright & Co.) 」とパートナー契約を結ぶ。当時リバプールに九社もひしめき合っていた精製会社の中で比較的小規模であった同社には、業界新参者であるヘンリーが入り込んでいける余地があったのだろう。ビジネスに関して慎重を極めて決断することが常であったこの若き事業家は、砂糖精製業に着手し始めた当初は、六軒の食料品チェーン店を継続して所有していた。しかし一八六一年、全ての店を彼の部下たちに売却または譲渡し、砂糖ビジネスの拡張に本腰を入れることを決意。一八六九年までにはジョン・ライト&Co.の経営権を全面的に取得し、会社名を「ヘンリー・テート&サンズ〈Henry Tate & Sons〉」(一九二一年にはライル社と合併し、「テート&ライル(Tate & Lyle)」に改称)とした。

(*注1)三角貿易 : 大航海時代以降、英国に巨大な富をもたらした三国間(三地域間)での貿易。特に、英国・西アフリカ・西インド諸島の三地域を結んで行われていた貿易では、英国から武器やラム酒、繊維製品が西アフリカに運ばれ、同じ船で、西アフリカから西インド諸島に奴隷が、西インド諸島から英国に、砂糖や綿花がもたらされた。
(*注2)『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書) 川北 稔著 より引用

 

砂糖のお話
ポルトガルの王女キャサリンによって持ち込まれた砂糖

 英国における砂糖の歴史を振り返ってみると、同国の砂糖需要が爆発的に拡大した背景には、砂糖と喫茶の流行、特に“紅茶”との親密な関係が明白に見えてくる。
1650年代の中頃、オックスフォードに英国最初のコーヒー・ハウスがオープンし、英国各地でコーヒーが大ブームとなった。コーヒー・ハウスは、主に上流階級など知識階層の成人男性の溜まり場となり、人々はコーヒーを飲みながら政治談義や経済取引にいそしんだといわれている。  その一方、華やかな英国宮廷においては、コーヒーではなく、紅茶を飲むことが流行した。この火付け役となったのが、1662年、ポルトガルからチャールズ2世のもとに嫁いだ、王女キャサリン=左肖像画=であった。大規模な香辛料貿易などで、当時世界屈指の貿易先進国となっていたポルトガルの王女は、結婚の持参金代わりとして、インドのボンベイ(現ムンバイ)と北アフリカのタンジールの領地と中国のお茶とお茶道具、そして船のバラスト(船体の安定を目的として船底に積む重量物)として積んできた銀塊代わりの“砂糖”をもたらしたといわれている。砂糖はサトウキビを栽培できないヨーロッパにとって、異国からの贅沢品であり、事実、銀と同等の価値があったという。その後、キャサリン王妃は自分のサロンで上流階級の人々を招いて一日に何度もお茶を飲み、加えてそのお茶に、砂糖を少しだけ溶かして飲むことを紹介した。これが社交界のステイタス・シンボルとして王侯貴族から上流階級、さらには中流階級へと流布していく。また、キャサリン王妃の英国王室輿入れの以前の1655年から、英国軍が東インド諸島のスペイン領であったジャマイカを占領し、ジャマイカでの砂糖プランテーションが英国に砂糖を供給し始めており、こうした様々な要因が、英国の砂糖製造業界の発展に大きな拍車をかけた。
 18世紀に入ると、女人禁制であった街のコーヒー・ハウスがかげりを見せ始め、1717年、紅茶商トーマス・トワイニングが英国最初のティー・ハウス「ゴールデン・ライオンズ」をオープン、コーヒーに代わる飲み物として紅茶が一般庶民に定着していくことになる。当時紅茶は相当な贅沢品であったが、トワイニングの4代目当主のリチャード・トワイニングは、紅茶輸入への高額な課税を撤廃するために尽力、そして1784年に減税が実現した。以後紅茶は、庶民にも手の届く存在となり、英国の紅茶文化の礎が築かれる。産業革命時には、短い時間で休息と栄養摂取が出来る砂糖がもてはやされ、労働者家庭でも砂糖入り紅茶が積極的に摂られるようになった。紅茶の需要の爆発的な増加は、まぎれもなく砂糖の需要の劇的な拡大を意味し、18世紀から19世紀にかけて英国内の砂糖消費量は8倍に膨れ上がったという。その後、紅茶貿易が英国の一大産業に成長していくにつれ、また砂糖貿易、砂糖精製業も英国経済の牽引役となっていった。  ヘンリー・テートが砂糖精製業で成功を収めたヴィクトリア朝時代には、遠心分離機なども発明され、精糖技術に近代化がもたらされた。前述のようにヘンリーは1875年、ドイツ人の発明家から角砂糖製造の特許を取得、78年には東ロンドンに角砂糖製造をメインにした新たな工場(現テート&ライル社Tate & Lyle)を建設。以来角砂糖は、英国家庭に大きな音を立てて入り込んでいった。現在では、生活のいたるとことで見られる、とるに足らない小さな白いキューブだが、その中には壮大な歴史が隠されているのだ。

Tate & Lyle PLC
Sugar Quay
Lower Thames Street
London EC3R 6DQ
www.tateandlyle.com