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貴婦人の知恵から誕生した アフタヌーン・ティー物語

●サバイバー●取材・執筆/山口 由香里・本誌編集部

様々な顔を持つ英国だが、アフタヌーン・ティーにはことさら上品でゆったりした貴族的なイメージがある。 英国の魅力がたっぷりつまっており、観光客に人気が高いのもうなずける。 だが、もともと茶葉の育たない英国で、アフタヌーン・ティーは、どのようにして始まったのだろう? 今号では、19世紀の英国上流階級のインフルエンサーともいえる、ひとりの貴婦人の知恵から生まれたこの優雅な習慣についてお届けすることにしたい。

お姫様が運んだ喫茶習慣

チャールズ2世の王妃、キャサリンCatherine of Braganza (1638~1705) 。

お茶を飲む習慣を英国で始めたのは、ポルトガル王女キャサリンと言われている。

1662年に英国王チャールズ2世に嫁いだキャサリンは、当時は貴重品だった砂糖と、中国のお茶を大量に持参。砂糖を入れてお茶を飲むという喫茶方法を英宮廷に紹介したのだった。

中国で数千年の昔から、不老長寿の薬とされたお茶は、英国でも、最初は東洋の秘薬として扱われた。それを日常的に、しかも、その頃やはり貴重品だった砂糖を入れて飲むのは大変贅沢なことだった。また、お茶をいれる行為そのものが目新しかった当時、今以上に優雅なものと感じられたに違いない。高価なポットにお湯を入れ、茶葉が蒸れるのを待って、繊細なデザインのカップに注ぐのは、いかにも王女らしい作法に見えたことだろう。

王族同士の結婚には、両国の政治的思惑が絡んだ。キャサリンの結婚も、スペインからの独立を目指して交戦状態にあったポルトガルが、英国との軍事協力を目論んでのことだった。勢いを強めていた英国に嫁がされたキャサリンが、引け目を感じていたとしても不思議ではなく、豪勢な持参品の数々をこれみよがしに披露しての喫茶で、溜飲(りゅういん)を下げていたのかもしれない。

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革命もお茶普及に一役

無血クーデターとして名高い1668年の名誉革命も、お茶の普及に一役買った。

前述のチャールズ2世より王位を継いだジェームズ2世だが、カトリックへの傾倒が大きな反発を招き、王の座から追放されてしまう。熱心なカトリック教徒で、スペイン王フェリペ2世と結婚したばかりか、イングランドのプロテスタント教徒を厳しく弾圧したメアリー1世の記憶がまだ生々しかったことから、英議会ではカトリック寄りの王が危険視されたのである。

そして、ジェームズ2世の跡を継いだ新統治者とともにもたらされたのが、オランダ式のお茶を飲む習慣だった。

新しく玉座に就いたのは、ジェームズ2世の娘メアリー(メアリー2世として即位)と、その夫でウィリアム3世を名乗ったオランダ出身のオレンジ公ウィリアムの2人。英国を共同統治することになったこの夫妻は、オランダでの喫茶習慣を、そのまま英国に持ち込んだ。オランダは当時、海上貿易が盛んで、お茶も英国より広く出回っていた。

チャールズ2世の妻キャサリンが初めて紹介したお茶は、こうしてメアリー2世とウィリアム3世によって英宮廷に定着するようになる。特に18世紀に王位についたアン女王はお茶好きで知られ、同女王は、朝食時、紅茶を飲むことを常とした。今となっては、朝食に紅茶は当たり前だが、その頃の朝食時に一般的な飲み物といえば、なんとビールだったという。


的中した東インド会社の予言

茶葉は葉の大きさで等級が決まる。葉が大きいほど高価で、また、ちぎれていないもの(ペコー)が最上級とされ、オレンジ色の芯芽が含まれる「オレンジ・ペコー」は珍重された。

宮廷で飲まれるようになったお茶が、英国で広く行き渡る基礎を作ったのが東インド会社だ。ヨーロッパから、はるか東方の国々を探検する大航海時代を経て、その東方の品々を輸入し始めた商業革命時代を力強く牽引したのが東インド会社だった。

時代を制したともいえるこの会社、先見の明もあった。お茶が商品として伸びる可能性について東インド会社が言及した1685年の手紙が記録に残っている。

東インド会社は茶の輸入を本格化。しかし当初は高い税金がかけられており、密輸の増加など問題も多発。なによりまた、税率が高いままでは商品も手頃な価格にすることができず、ビジネスとしての成長は望めない。それに対し、茶葉の取り扱い業者から再三の異議申し立てが政府に対して行われたのが1700年代半ばのことだ。ちなみに、その時代の取り扱い業者には、トワイニング紅茶の創始者トーマス・トワイニングもいた。

1784年にようやく税金が大幅に下げられ、お茶の価格もそれまでの約半額となり、いよいよ一般に広まる下地ができる。

紅茶を飲ませるコーヒーハウス

意外に思われるかもしれないが、英国でより早く浸透したのは紅茶ではなくコーヒーだった。コーヒーが輸入され始めて間もない1660年代に、オックスフォードやロンドンの街に、コーヒーハウスが出現した。

当時のコーヒーハウスでは、コーヒーやホットチョコレートを提供するほか、タバコなども置かれ、紳士の社交場として機能した。さらに、最初は貴族や文化人のものだったのが、次第に一般の人々も利用するようになっていった。

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場所により、学者が多い店、商人が集まる店といった具合に客層が分かれた。業界最新ニュースを仕入れるために、行きつけの店に毎日、顔を出す客もいたという。情報入手も社交も、実際に足を運んで集めるしかなかった時代のソーシャル・ネットワークとしての役目を果たしたといえる。

そのコーヒーハウスでも、紅茶を取り入れ始めた。中には、店で飲ませるだけでなく、茶葉を売り出すところも登場。そのため、コーヒーハウスで過ごすことのない女性たちの間にも紅茶を飲む習慣が徐々に広まっていった。

また、税金が引き下げられ、お茶の価格もあわせて下がっていった頃は、ちょうど、産業革命の時期と重なる。首都ロンドンは100年の間に人口が倍近くになるなど、世界でも最も勢いのある都市のひとつとなった。

国内における産業革命、国外ではインドをはじめとする領土支配により、英国が国力を最も強めたこの頃、国民の暮らしも目に見えて豊かになっていった。芝居やコンサートを楽しむ中産階級が多くなり、遊戯施設も増加。今に残る劇場にも、この時代に創設されたものが少なくない。ロンドンなどでは、コーヒーハウスも林立した。そしてお茶も、一般の人々にとって、ひと頃のように高嶺の花ではなくなり、喫茶文化が英国にいよいよ定着し始める。

ロンドンなどで大きなにぎわいを見せたコーヒーハウスの様子(17世紀のイングランド)。

空腹が生んだ アフタヌーン・ティー

第7代ベッドフォード公夫人アナ・マリア。右手には、ヴィクトリア女王の細密画をあしらったブレスレットを身につけている。
Reproduced by kind permission of His Grace the Duke of Bedford and the Trustees of the Bedford Estates © His Grace the Duke of Bedford and the Trustees of the Bedford Estates.

1800年代の中頃、アナ・マリアは空腹に悩まされていた。と言っても、食うに困る暮らしだったわけではない。それどころか、アナ・マリアは英国有数の貴族の夫人であり、華やかな暮らしを送っていた。

ところが当時の食事は、朝食と夕食の2回で、食間があまりに長く、アナ・マリアはこれに困り果てていた。朝食をどれだけたっぷりとっても、遅い時には9時頃になったという夕食までは、到底もたない。

「気持ちが落ち込んでしまいますわ」とアナ・マリアは夫に訴えたという。勝手に何か食べればいいのに、とお考えの方のために、それが簡単にはできなかった時代事情と、アナ・マリアがどういう人物であったのかをここでご紹介しよう。

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アナ・マリアは1783年、第3代ハリントン伯爵の長女として誕生。1808年、第7代ベッドフォード公爵となるフランシス・ラッセルと結婚、ウォーバン・アビーという豪邸で暮らすようになる。

ウォーバン・アビーは、その名の示す通り、もとは1145年に建てられた修道院だった。ヘンリー7世、8世に仕えたジョン・ラッセルに、1547年に与えられた。

ジョンには、その後、伯爵の位も与えられたが、そのラッセル家の爵位が、公爵に格上げされた背景には、痛ましい犠牲があった。ライハウス陰謀事件と呼ばれるものだ。国王暗殺を企てたとしてホイッグ党の主要党員だったウィリアム・ラッセルが処刑されるが、後にこれが冤罪であったと認められ、1694年、ウィリアムの父(名は息子と同じウィリアム)に公爵の位が与えられたのである。

ジョンの時代にコヴェント・ガーデン一帯の土地も与えられたラッセル家は、ロンドンに所有する地所を次第に広げ、開発を推進。その過程で作られたのがラッセル・スクエアだ。他にも、コヴェント・ガーデン近くのベッドフォード・ストリートなど、ラッセル家にちなんで名付けられた場所が一帯にはいくつも見られる。

そのラッセル家に嫁いだアナ・マリアは、べッドフォード公爵夫人としての務めを果たすだけでなく、1837年から1841年まで、ヴィクトリア女王の側近である女官も務めている。

生まれも育ちも良いアナ・マリアにとって、その頃の貴族社会の慣習を変えるのはきわめて難しいことだった。ヴィクトリア朝時代の貴族社会には様々なルールが存在し、みながんじがらめになっていた。それに反するには強い批判を覚悟しなければならなかったのだ。

アナ・マリアは社交的で、時には、たわいない噂話に花を咲かせるなど気さくな面もあったうえ、心優しく、ベッドフォード所領地に住む民からも慕われていた。

豊かな趣味人でもあり、ガーデニングを愛した。また、演劇は、見るばかりでなく演じることにも強い興味をもち、家族のメンバーによる劇を演出、クリスマス時などに美しく飾られた館内で披露することもあった。加えて手芸も好み、アナ・マリア自らが刺しゅうをほどこした品々が、客人たちにプレゼントされることもあったという。

そんな妻を愛した夫のフランシスも社交家だったようだ。夫妻は、ヴィクトリア女王はじめ、多くのゲストを館に迎え入れた。ある年など年間1万2000人をもてなしたという記録が残されている。招かれた人々のお付きの者も含めての数字だが、1日あたり30人のペースでなければこの数字は達成できない。これだけの人々に、くつろぐ場所や、お腹を満たすものを提供したのだから、その収容能力はホテル並みだ。

そんなホスピタリティの権化のようなアナ・マリアは、あることを思いつく。夕方頃に紅茶と軽いサンドイッチやお菓子を用意し、友人のご婦人方を招くことを始めた。

アフタヌーン・ティーの誕生である。

1日2食という習慣を変えることへの批判が聞かれなかったどころか、逆に上流社会で流行するようになったのも有力貴族の夫人、アナ・マリアが始めたことだったからだろう。アナ・マリアは当時のインフルエンサーだったといえる。

アフタヌーン・ティーが生まれた
ウォーバン・アビー Woburn Abbey

Photo: Reproduced by kind permission of His Grace the Duke of Bedford and the Trustees of the Bedford Estates
©His Grace the Duke of Bedford and the Trustees of the Bedford Estates.

●現在は第15代ベッドフォード公爵アンドリュー・ラッセルが所有するウォーバン・アビーとその一帯は、アンドリューの祖父が当主だった1953年から一般に公開されている。ただし、現在は大改修中で再オープンは2025年の予定。

●Woburn Park, Bedfordshire MK17 9WA  www.woburn.co.uk

●行き方:ロンドンから車なら1時間程度。M1のジャンクション12または13から「Woburn Abbey」の標識に従って進む。

進化を続ける、優雅なひととき

アナ・マリアが初めて試みたアフタヌーン・ティーは、シンプルな内容だった。紅茶のほか、バターを塗ったパンを2枚あわせただけのサンドイッチ、そして小さなケーキ程度だったという。現在では、サンドイッチ、クロテッド・クリームとジャム添えのスコーン、こぶりのケーキ数種と十分食事の代わりになるボリュームのものを「トラディショナル・アフタヌーン・ティー」として供するところが多いが、この発展に大きく貢献したのがホテルだ。

アフタヌーン・ティーはもともと、お腹の足しにすると同時に、ゆったりした社交の場として始まったのだから、まさにホテルにうってつけのサービスでもあった。

美しい調度品に囲まれ、給仕を受けながらサンドイッチと小さく可愛らしいケーキや、本格的にいれた紅茶を味わう―。アナ・マリアのように広い館に住み、使用人にかしずかれて高価な茶器でお茶の時間を楽しむという暮らしができなくても、アナ・マリアが知己の貴族夫人たちと過ごしたのと同様の優雅な時間が実現されるというわけだ。

1837年の創業時よりアフタヌーン・ティーを供しているというロンドンの老舗ホテル、ブラウンズ。ティールームは落ち着いた雰囲気。
© Victoria Metaxas/Brown's Hotel

長い歴史を持つホテルが多い英国だけあり、元祖アナ・マリアと同時代にアフタヌーン・ティーを始めたブラウンズ・ホテルのような老舗もある。

忙しい現代人が、英国ならではの貴族的習慣を忘れずに続けることができているのも、ホテルのアフタヌーン・ティーあってこそとも言えよう。

だが、その一方で飽きられないよう、それぞれのホテルで趣向を凝らし、時代にあわせる工夫もなされている。サンドイッチがうすく繊細な長方形になったり、スコーンが加わったり、それらを3段重ねのケーキ・スタンドに盛り付けたりと『進化』していったのは、競争の賜物と想像できる。従来のメニューにシャンパーニュを加えたシャンパーニュ・アフタヌーン・ティーというさらに贅沢なバージョンもその『進化』の一例。次は誰がどのような工夫を加えるか、楽しみでもある。

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通常、紅茶の入ったポットと熱い湯の入ったポットの両方が供される。紅茶が濃くなり、苦みが増してきたと思ったら、お湯で好みの濃さにできる仕組み。

かつては3時半になると全業務がストップし、お茶の時間をめぐって労使対決があったほどという英国。今日では、さすがにそれほど悠長なことはないが、流行がめまぐるしく変わる現代社会にあっても、アフタヌーン・ティーが英国から消滅することは当分ないと安心していいだろう。では、美味しいアフタヌーン・ティーを心ゆくまで召し上がれ!

ガッツリのハイ・ティー

アフタヌーン・ティーと同じようにお茶と食べ物がセットになったものに、英国では「ハイ・ティーhigh tea」がある。こちらはもっと『ガッツリ』食べるスタイルだ。

ハイ・ティーのハイ(高い)は、テーブルの高さを示すもの。アフタヌーン・ティーでお茶の友となるのが、手でつまめるサンドイッチやお菓子であるのに比べて、ハイ・ティーでは温かいパイ(ステーキパイ=写真=など、甘くないもの)をはじめ、ナイフとフォークを使わないと食べにくいものが供される。低いコーヒー・テーブルでは食べづらく、高さのあるダイニング・テーブルで食べるのが理にかなっているというわけだ。

上流階級で食間を埋めるためのものとして始まったアフタヌーン・ティーと違い、労働者階級がより実用的な目的で摂り始めたのがハイ・ティー。社交としての色合いを深めていったアフタヌーン・ティーに対し、お腹を満たすためのハイ・ティーは、まさに「食事」。今でも、「夕飯ができたわよ~」と家族に呼びかける際に、「Tea is ready !」という言い回しを使う家庭も見られる。スコットランド・ハイ・ティーという呼び方をすることもあり、スコットランドやイングランド北部が起源とされる。南北の経済事情の違いを反映しているともいえそうだ。

TIPの始まり

チップと言えば、その習慣のない日本人には、海外で頭を悩ますもののひとつ。渡すべきか、渡さざるべきか、渡すとしたら、いくらが適当か…。

そのチップという言葉の始まりが、『お茶する』場所の草分けとも言えるコーヒーハウスだった。

17世紀のコーヒーハウスで、”To Insure Promptness”(迅速なサービスを保証します)を表す「T.I.P.」と書かれた木箱が、ドア近くに置かれたのが最初。その木箱にコインを投げ入れると、その音を合図に、先にサーブしてもらえるという、急いでいる人にはあり難い仕組みだった。

写真は、お茶でお馴染みのトワイニングスの創設者トーマストワイニングが初めてお茶を売り出したコーヒーハウスに置かれていたという「T.I.P.」の木箱。コロナ禍前は、トワイニングス本店(216 The Strand, London WC2R 1AP)のミニ博物館で実物を見ることができていたが現在は閉鎖中(ホームページ上は開館となっているが、閉鎖したままなので注意)。

週刊ジャーニー No.1307(2023年9月7日)掲載