
●サバイバー●取材・執筆/名取由恵・本誌編集部
■18世紀ドイツのバロック作曲家、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(英語ではジョージ・フレデリック・ハンドル)と20世紀の米ロックギタリスト、ジミ・ヘンドリックス。「音楽家」である以外、一見何の共通点もなさそうな2人が、実は200年の年月を隔て、ロンドンで隣の家に住んでいたことをご存知だろうか。1年半にわたる改装期間を経て、2人の自宅を再現したミュージアム「ヘンデル・ヘンドリックス・ハウス」が5月に再オープンしたことを記念し、昨年生誕80年を迎えたジミヘンの活動に焦点をあててみたい。
先住民の血を受け継いで
「20世紀が生んだ最も偉大なギタリスト」「最も影響力があるミュージシャン」「1960年代のカルチャー・アイコン」――。日本では「ジミヘン」という親しみと愛着を込めた略称で知られる、米国出身の黒人ギタリストへの賛辞は枚挙にいとまがない。ファズ、フィードバック、ディストーションを融合した革新的なギターの音、ブルース、ロック、R&B、ジャズといったさまざまなスタイルを融合した新しい音楽スタイル、エレクトリックギターの持つ可能性への飽くなき追求等々、彼の楽曲は後世のミュージシャンに多大な影響を与えた。しかし驚くことに、彼の活動期間は1966年のデビューから1970年に不慮の死を迎えるまで、実質わずか4年足らずしかない。
ヘンドリックスが生まれたのは、1942年11月27日の米シアトル。出生時の名前はジョニー・アレン・ヘンドリックスだったが、後に父親によってジェームズ・マーシャル・ヘンドリックスへと改名されている。父方の祖父はアフリカ系、祖母は米国先住民チェロキー族の出身で、ヘンドリックスは祖母から先住民の昔話を聞かされて育った。やがて音楽に興味を持ち、BBキング、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、バディ・ホリー、ロバート・ジョンソンなどを好んで聴き、楽譜は読めなかったものの、聴いただけで音を再現できる能力に恵まれて独学でギターを学んでいった。
劣等兵からの脱皮

18歳で軍役のために米陸軍に入隊。第101空挺師団へ配属されると、駐屯中に出会ったベーシストのビリー・コックスとバンドを結成して、軍内のクラブハウスで演奏するようになった。ところが、軍では「薬物とギターにしか興味を示さない劣等兵」として知られ、規律を乱してばかり。パラシュートの降下訓練による負傷で除隊した後は、「ジミー・ジェームズ」の名前でセッション・ギタリストとして本格的に音楽活動を始めるようになる。
バックバンドのギタリストとして、アイク&ティナ・ターナー、サム・クック、アイズリー・ブラザーズ、リトル・リチャードらと共演して腕を磨いたヘンドリックスは、フロントで脚光を浴びるリードギタリストへ転身すべく、「ジミー・ジェームズ&ザ・ブルー・フレイムズ」を結成。左利きながら右利き用のギターを逆にして演奏する手法や卓越したテクニック、歪んだギターの大音響、類稀なインプロビゼーションで観客を圧倒させ、熱狂的なファンを獲得していった。
そうした卓越した才能が見逃されるはずがない。最初に接触してきたのは、英ロックバンド「アニマルズ」のベーシスト、チャス・チャンドラーだった。チャンドラーは、「ギタリストが3人くらい同時に演奏しているのかと思った」ほど彼の演奏に感心し、ロンドンへ行こうと誘ってきたのである。こうしてヘンドリックスは、故郷を離れて英国へ旅立つことになる。1966年7月、23歳のときのことだった。
スウィンギング・シックスティーズ

9月24日、ヘンドリックスはロンドンへと降り立つ。マネージャーになったチャンドラーのアイディアにより、「ジミー」から「ジミ」に改名。さらに、ドラマーにミッチ・ミッチェル、ベーシストにノエル・レディングを迎え、「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」のバンド名で英国デビューを飾った。
当時のロンドンは、マリー・クワントのミニスカート、ヴィダル・サスーンのショートボブ、カーナビー・ストリートから発信されるモッズ・ファッション、ビートルズやローリング・ストーンズの音楽に代表される、いわゆる「スウィンギング・ロンドン」の時代。これが追い風となり、デビュー・シングル「Hey Joe」は全英チャートに10週もランクイン。翌1967年5月にリリースされたファースト・アルバム「Are You Experienced」も、全英2位を記録した。「Purple Haze」「The Wind Cries Mary」「Foxey Lady」「Are You Experienced?」といった名曲を収録したこのアルバムは、ロック史に残る名盤となっている。
英国で圧倒的な成功をおさめたヘンドリックスが米国で注目されたのは、同年に米カリフォルニアで行われた「モンタレー・ポップ・フェスティバル」のステージだった。「Wild Thing」の演奏中にギターに火をつけるパフォーマンスを行ったことで、一夜のうちに世界的な人気バンドに変身したのだ。同12月には、セカンド・アルバム「Axis: Bold As Love」もリリースしている。
ロンドンでのラブロマンス
米国でも成功をおさめ、ヘンドリックスはニューヨークにレコーディング・スタジオ「Electric Lady Studios」を設立。音楽的方向性のコントロール権を握り、1968年にはサード・アルバム「Electric Ladyland」を発表した。しかしながら、ツアーの過密スケジュールとスタジオ作業のプレッシャーがバンドの不和をもらし、1969年にエクスペリエンスは解散してしまう。ヘンドリックスは米国を本拠地としながらも、英米を行ったり来たりしながら音楽活動を続けた。
さて、ロンドンでの彼の暮らしぶりを知ることができる場所が今もある。現在はミュージアムとなっている、メイフェアのブルック・ストリート23番地にあるフラットだ。ヘンドリックスは英国人の恋人キャシー・エッチンガムと、1968年7月から同所で同棲をスタート。当時20歳だったエッチンガムは、彼がロンドンで最初にライヴを行ったナイトクラブ「The Scotch of St. James」でDJをしており、そこで2人は出会った。近所にはライブハウス「Speakeasy」「Marquee」、レコード店「One Stop Records」「HMV」があり、まさにスウィンギング・ロンドンの中心地として、ヘンドリックスが生活するには好都合の場所だった。毎晩のように外出し、クラブやバーが閉店した後は、友人を引き連れてフラットで夜通しパーティー三昧。自分好みのインテリアに改装した部屋は、TVインタビューやフォトセッションが頻繁に行なわれ、フレンドリーな彼は誰にでも気さくに自身の電話番号を渡していたため、フラットの電話は1日中鳴りっぱなしであった。ヘンドリックスは1969年3月までの約8ヵ月間、ここで暮らしている(下記参照)。
不慮の死と残る謎

現在はミュージアムとして公開されている、メイフェアにある自宅フラットでインタビューを受けるヘンドリックス。
ブルック・ストリート23番地を離れた後のヘンドリックスの生活は、高低差が激しいものとなった。
良い面のハイライトとして有名なのは、同年8月にニューヨーク州で行われた伝説の野外フェス「ウッドストック・フェスティバル」だ。元エクスペリエンスのミッチ・ミッチェル、米軍時代の仲間ビリー・コックスに加え、ジュマ・サルタン、ジェリー・ヴェレスの5人から成る「ジプシー・サンズ&レインボウズ」は、ウッドストック最終日のヘッドライナーとしてステージに登場。フィードバックを多用して米国国歌を演奏し、空爆により人々が泣き叫び逃げまどう様子を音で再現するなど、泥だらけの観客をわかせた。
ところが、このバンドは即解散となり、あらためてビリー・コックス、バディ・マイルズと米国出身の黒人3人組「バンド・オブ・ジプシーズ」を結成するも、やはり数ヵ月という短命に終わってしまう。ミッチ・ミッチェルを再び呼び寄せ、ビリー・コックスと3人で活動を再開させたものの、多忙な世界ツアーのスケジュールの合間をぬっての新作のレコーディングはなかなか進まず、新アルバムの完成を見ることはなかった。また、空港で麻薬不法所持の疑いで逮捕されたり、ドラッグが原因とみられる体調不良に陥ったりと、トラブルは増え続けていった。
そして、終幕は突然やってくる。
1970年8月17日夜、ヘンドリックスは最後の恋人とされるドイツ出身のモニカ・ドンネマンと、彼女が滞在するロンドンのノッティングヒル・ゲートにあるサマーカンド・ホテルで過ごしていた。時計の針が深夜をまわり夜明けが近づきつつある頃、そこに1台の救急車が駆けつける。ヘンドリックスは病院へ運び込まれたが、残念ながら息を吹き返すことはなかった。享年27。アルコールと睡眠薬を過剰摂取した後、睡眠中に嘔吐物で窒息したのが死因とされているが、部屋にはドラッグがあったとの情報も伝えられており、死の真相は謎に包まれている。
10月1日に故郷の米シアトルで葬儀が行われ、現在はシアトル郊外のグリーンウッド墓地で眠っている。
4年間という短い活動期間で、彗星のごとくロック界に登場したヘンドリックス。珠玉の曲の数々を作り出し、超絶テクニックのギタープレイで世界を魅了したギタリストは、死後80年が過ぎた現在でも多くのミュージシャンに影響を与え続けており、今後もその影響力は変わらないのだろう。
ヘンデル・ヘンドリックス・ハウスを征く

ヘンデルのリハーサル・ルーム。
ドイツ出身のバロック作曲家のヘンデルと、米国出身のロックギタリストのジミ・ヘンドリックスという異色の組み合わせのミュージアムが、ジョージア朝時代のテラスハウスが並ぶメイフェアのブルック・ストリートにある。同所は2人がそれぞれかつて住んでいた家で、ブループラークも飾られている。ヘンデルは25番地(写真最下のレンガ造りの建物)に1723~59年まで、一方のヘンドリックスは隣接する23番地(写真最下の白い建物)の上階にあるフラットに、1968年7月~翌69年3月まで暮らしていた。

ヘンドリックスの部屋。
同館は2001年に「へンデル・ハウス・ミュージアム」としてオープン、2016年からはヘンドリックスのベッドルーム兼リビングルームも合わせて一般公開されていたが、2021年に改装のために休館。300万ポンドを費やして修復を終え、「ヘンデル・ヘンドリックス・ハウス」として今年5月18日に再オープンした。

23番地の自宅フラットにいるヘンドリックス。当時のままの部屋が再現されている。
25番地は、4フロアにわたってヘンデルのリハーサル・ルーム、寝室、ダイニングルームなどが再現されており、23番地のトップフロアにヘンドリックスのフラットがある。ヘンドリックスの音楽活動を紹介する常設エキシビションは、1960年代後期のロンドンの音楽シーンを検証する意味でも見応えがある。時代も音楽ジャンルもまったく異なる2人の偉大な音楽家の足跡をダブルでたどることができる、お得なミュージアムだ。ライブ演奏やトーク、子ども向けアクティビティなどのイベントも定期的に開催中。ショップのおみやげグッズも充実している。

Handel Hendrix House
25 Brook Street, London W1K 4HB
Tel: 020 7495 1685
https://handelhendrix.org
最寄り駅:Bond Street
水〜日:10:00~17:00
入館料:£14
週刊ジャーニー No.1299(2023年7月13日)掲載