●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

■昨年のエリザベス2世の国葬、そしてチャールズ3世戴冠式。いずれも、ロンドンのウェストミンスター寺院で挙行された。チャールズ皇太子(当時)とダイアナ・スペンサーの婚儀は招待客の数が多すぎたためセント・ポール大聖堂で行われたものの、こうした例外をのぞき、英王室の冠婚葬祭は同寺院で行われるのが慣例。もともと修道院だったものを、エドワード懺悔王が11世紀初めに大規模に改築した。同王に男子の嫡子がいなかったことが、ヘイスティングの戦いの火種となる―。今号では、この戦いを制したウィリアム1世について、引き続きお届けすることにしたい。

前編はこちら

キングの座を手に入れた私生児―ウィリアム1世の生涯

5 約束破りのハロルド

1051年、20代半ばのウィリアムはイングランドを訪問する。時のイングランド王は信心深いことから「懺悔王」の異名をとったエドワード(Edward the Confessor/在位1042~66)。エドワードの母は、ウィリアムの祖父であるリシャール2世の妹という間柄だった。

イングランド訪問で、男子の嫡子を持たなかったエドワードから、ウィリアムは次のイングランド王としての地位を約束されたといわれている。

1063年には、今度はハロルドがノルマンディを訪問。懺悔王の使者として海を渡ったとする説もあるが、このノルマンディ滞在中にハロルドはウィリアムを次期イングランド王として認めるという誓いを神の名にかけて行い、ウィリアムの幼い娘と婚約までした。

ノルマンディの町、バイユー(Bayeux)には、ヘイスティングズの戦いとそれまでの経緯を刺繍で描いた、長さ約70メートルという見事なタペストリーが残されている。これはハロルド2世の戴冠のシーン。

ところが、1066年1月、懺悔王の逝去にともない、ハロルドはハロルド2世として間髪入れずにイングランド王として戴冠してしまう。ウィリアムはハロルド2世に、王冠を戴く資格があるのは自分であると抗議するも、ハロルド2世は応じなかった。

その裏切りに激怒したウィリアムはイングランド遠征を決意。船を急ピッチで建造するよう命じるとともに、神聖なる誓いを破ったハロルド2世を偽証の罪で教皇に提訴、ハロルド征伐を正当化することに成功する。イングランド遠征は聖戦として認められ、ウィリアムは教皇の旗を掲げることを許されたのだった。この時点ですでにウィリアムは戦略として一歩リードしていたといえるだろう。

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同年、夏。ハロルド2世にとっては長い夏になった。出航の準備が整ったという情報にあわせて、ウィリアムを迎えうつべく、ノルマンディからの上陸航路を想定しイングランドの海岸部に軍隊を派遣、警護にあたらせたのだが、約1ヵ月、待てど暮らせどノルマン軍の船影は見えない。

そうこうするうちに、ヴァイキングの大群がヨークの町を襲いつつあるという衝撃的なニュースがもたらされる。イングランド王位を狙う、ノルウェー王ハーラル3世の軍だった。ハロルド2世は軍隊を率いて北上。激戦の末、ヨーク近郊のスタンフォード・ブリッジで9月25日、ノルウェー軍を撃破したのだった。

6 待てば海路の日和あり

さて、この夏、ウィリアムはノルマンディで何をしていたか。

風を待っていたのである。

その頃の船は帆掛け舟とも呼ぶべきレベルのもので、風なくしては航行できなかった。ウィリアムは2000の騎兵のほか歩兵を含む約5000の人員、2000頭の馬を700隻に分乗させ、ひたすら風の向きがイングランドの方向へ変わるのを待っていたのだ。

ハロルド2世がスタンフォード・ブリッジの戦いで勝利をおさめ、一息ついていた9月27日。風向きが変わった。夜の闇をついて出航し同28日の朝、ノルマン軍はヘイスティングズ近郊のペヴェンシーの海岸に上陸した。

上陸時に戦闘になると予想していたウィリアムはじめ、ノルマン軍は自分たちの幸運に我が目を疑った。イングランド兵がただひとりとしていなかったからだ。ノルマンディではイライラしながら日を送ったであろうウィリアムだったが、我慢したかいがあったというもの。天は既に彼に味方していたのである。

ウィリアム上陸の報に、ハロルド2世は疲労の残る兵士らの尻をたたき、今度は400キロの道のりを南下。1日40キロという強行軍を敢行、ヘイスティングズからロンドンへ攻め入ろうとするノルマン軍を押し返すため、ヘイスティングズとロンドンを結ぶ幹線道へ向かった。

この時、ハロルド2世45歳、ウィリアム38歳(ともに推定)。両軍は、ヘイスティングズの北約11キロ、現在「バトル」と呼ばれている町にある、なだらかな丘陵地にそれぞれの布陣を敷いた。

ヘイスティングズの戦いが繰り広げられた場所。今はただの野原で何もない。この野原を見学するには、イングリッシュ・ヘリテージ所有のバトル・アビーに入場する必要あり。
7 天下分け目の戦いは1日で決着

1066年10月14日、午前9時。

丘の上に陣取るハロルド軍は数にして約7000。1年に2ヵ月の兵役を義務付けられていたため、彼らは軍事訓練を受けてはいたが大部分は民兵と呼ぶべき歩兵だった。

これに対し、中心にノルマン軍、左翼にブルターニュ軍、右翼にそれ以外の兵からなる軍を配したウィリアム軍は約6000。このうち2000が騎兵で、ハロルド軍にはなかった弓兵隊も擁していた。

戦いの詳細は下のコラムをご覧いただきたいが、勝敗の行方が決まったのは午後4時過ぎ。ハロルド軍の強固な「盾の壁」を越えるような角度で、ウィリアムは改めて弓兵隊に弓矢を放つよう指示。そのうちのひとつがハロルド2世の目を射抜き、この傷がもとでハロルド2世は絶命。指揮官を失ったアングロ(サクソン)・デーン軍は劣勢を強いられやがて敗走し、ヘイスティングズの戦いは幕を閉じたのだった。

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この後、ウィリアムはロンドンに向かい、12月25日のクリスマスの日、ウェストミンスター寺院で戴冠式を行った。以来、現在のチャールズ3世まで、イングランド国王は同寺院で戴冠するのが伝統となっている。

ヘイスティングスの戦い

丘の上に陣取ったハロルド軍のほうが、地理的には有利だったが、最終的には弓兵と騎兵を持つウィリアム軍に軍配があがった。

1 午前9時

戦闘開始。ウィリアム軍が弓でまずは攻撃。しかし、ハロルド軍の強固な「盾の壁」に阻まれあまり効果なし。その後、両軍の間で小競り合いが続くが、「盾の壁」はくずれず膠着状態に。

2 正午

ウィリアム軍の左翼にいたブルターニュ軍が退却を始め、ハロルド軍がこれを追い「盾の壁」がくずれる。深追いして本隊から離れたハロルド軍の一部を撃破したウィリアムは、これからアイディアを得、「擬似退却」でハロルド軍をおびきよせようとするが、期待したほどの効果はあげられなかった。

また、「ウィリアムが死んだ」といううわさが広まり、兵士が動揺したためウィリアムはヘルメットをはずして自分が生きていることを見せ、自軍の士気を高めるのに奔走した(下のシーン。バイユー・タペストリーより)。

3 夕刻

ウィリアム軍は、再度弓兵で攻撃。今度は、「盾の壁」の後ろに弓が届くよう角度を変えて弓を放ったという。その弓を盾で防いでいる間に、防御が解かれた胴体部分を狙って騎兵らが切り込み、ハロルド軍に大打撃を与えた。ハロルド2世は目を射抜かれたのち、惨殺され、指揮官を失ったハロルド軍は総崩れとなり、ウィリアム軍の勝利に終わった。

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8 「征服」がもたらした変化と成長
カンの男子修道院内にある、ウィリアム1世の墓。2度も墓荒らしにあい、残っているのは骨のごく一部のみという。

ウィリアム1世の性格については、相反する記述が見られることがある。厳格で怒りっぽく、抵抗者は容赦なく壊滅させ、城や要塞の着工を次々に行い、民が疲弊するのも構わなかった。が、それと同時に、高潔で信心深く、勇猛で、追従者からは尊敬されてもいた。

多くの統治者がそうであるように、優しいだけではもちろん勝てず、かといって残忍では敵ばかり増えて孤立する。バランスの問題といえよう。ウィリアム1世は、ハードな面が強い征服者だったが、ソフトな面ももちあわせていたと考えられる。

5年余り、イングランド各地の抵抗勢力と戦ったのち、1070年代前半にはイングランドをほぼ平定。他界するまでの約15年間は、もっぱらノルマンディを拠点に戦いに明け暮れたウィリアム1世だったが、1086年には、全国規模の土地台帳である「ドゥームズデイ・ブック」を完成させ、ソールズベリーでは有力諸侯を集めて王に忠誠を誓わせる(「ソールズベリーの誓約」)など、イングランド統治の強化を着実に進めた。

約60年。ウィリアム1世の生涯は中身の濃いものではあった。しかしながら、最期はあまり幸せなものではなかった。

長男ロベールとの仲はうまくいかず、ウィリアム1世と国境をめぐって争っていたフランス王フィリップの力を借りて、このロベールがウィリアム1世に対して反旗を翻し、父子で戦う状況に陥ったのだ。1087年7月、ウィリアム1世はマンテスの戦いにおいて、馬の鞍で腹部を激しく打ち、腸が破れるほどの重症を負う。約5週間、苦しんだ挙句、9月9日にこの世を去ったのだった。

ノルマン朝は、ウィリアム2世(在位1087~1100)、ヘンリー1世(在位1100~35)、スティーヴン(在位1135~54)とわずか100年弱で終わった。また、イングランドとフランスの間では領地問題が250年にもわたって争われるなど、ヘイスティングズの戦いにおけるウィリアム1世の勝利がイングランドにもたらしたものは、確かにプラスのものばかりではなかった。

しかし、11世紀のイングランドにウィリアム1世がもたらした変化は、ふりかえってみれば必要かつ重要なものだったと評価されるべきだろう。当時のイングランドは文化的に遅れた国とみなされていたのだ。それが、『征服』という名の外的刺激により、西ヨーロッパの進んだ文化圏の一員となる切符を得、やがて16世紀に大国スペインを破るまでに育つ。ヘイスティングズの戦いに際してウィリアム1世を助けた風は、イングランドに成長を促す風でもあったといえるだろう。(了)

Battle Abbey バトル・アビー

※情報は2023年6月12日現在のもの)

ヘイスティングズの戦いでの勝利を祝って、ウィリアム1世が建設。ハロルド2世が陣地を置いていたあたりに築かれたが、ヘンリー8世の時代に取り壊された部分は今も廃墟のまま遺されている。

【住所】 Battle, East Sussex TN33 0AE Tel: 01424 773792
【行き方】 ロンドンから約45マイル。車で行く場合はM25のジャンクション→A21
(Royal Tunbridge Wells経由、Hastings方面へ)→A2100→バトルの町へ。
【オープン時間】 4~10月は毎日、11~3月の週末オープン
10:00~17:00(冬季は16:00、7・8月は18:00まで)
※11~3月の平日、および1月1日、12月24~26日は休み。
【入場料】 大人14.50ポンド(イングリッシュ・ヘリテージ会員は無料 子供8.60ポンド)
www.english-heritage.org.uk/visit/places/1066-battle-of-hastings-abbey-and-battlefield

ヘイスティングスの戦い、再現!!

バトル・アビーでは、当時の格好で「武装」した多数のエキストラたちにより、例年10月にヘイスティングズの戦いが再現(re-enactment)されている。

■2023年は10月14日(土)・15日(日)10:00-16:00
■追加料金:大人7.5ポンド、子供4ポンド(要予約)
詳細および、この日以外のイベントについては、イングリッシュ・ヘリテージ(www.english-heritage.org.uk)または観光局(www.visit1066country.com)のウェブサイトでご確認を。

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ウィリアム1世がもたらしたもの

バイユー・タペストリーのワンシーンより。ウィリアムが海路、イングランドへと向かうところ。船の上には十字の入った旗が翻っており、教皇から「聖戦」のお墨付きをもらったことを示している。
ドゥームズデイ・ブック
ウィンチェスターにあるドゥームズデイ・ブックを「コピー」したもの。1987年9月9日、チャールズ皇太子とダイアナ妃(いずれも当時)がノルマンディのバイユー(Bayeux)を訪問した際に、バイユー市に贈った品。
  • ◆1085年から調査が始められ、翌年に完成した土地台帳。
  • ◆どこの誰がどの土地を所有しているか細かくラテン語で記してある。この調査のために1万3,418ヵ所を役人が訪れ、爵位などのタイトルもすべて明記され、以降、土地境の争いや、継承権の問題はこれをもとに判決がくだされるようになった。また、なにより、諸侯の財力が明らかになり、ひいては税金をかける際の判断材料にも用いられた。
  • ◆「ドゥームズデイ(Doomesday)」とは聖書に出てくる「審判の日」のこと。人は誰しも最後の瞬間に神の御前で厳しく審判され、天国へ行く者と地獄へ行く者に分けられる、という解釈がキリスト教では一般的だが、ウィリアム1世の命じた調査があまりに厳正だったため、こう呼ばれるようになったという。
中央集権封建制度
  • ◆アングロ・サクソン社会で発達した、県(shire)などの地方の行政・司法構造は利用しつつ、ウィリアム1世はフランス式の封建制度を導入。もともとアングロ・サクソン系貴族の所有していた土地をすべて没収し、ノルマン系貴族に分配した。
  • ◆ノルマン貴族らは、土地を与えられる(受封)かわりに忠誠を誓い、有事の際には軍力をもって報いる契約関係を結んだ。さらに各貴族は、自分の家臣と同様の契約を結んだが、あくまで頂点に君臨するのは国王であり、中央集権的度合いがきわめて強かった。
言語
  • ◆ノルマン朝の宮廷ではフランス語が使われたため、大量のフランス語の語彙が流入。また、上流階級ではフランス語、庶民はゲルマン系の英語を使うという、社会的に二重言語構造となった。
  • ◆食べ物に関する例を挙げると、食卓にのった状態の肉はbeef / pork / muttonですべてフランス語起源。これに対し、調理前の動物の名前はox / pig / sheepでこれらはすべて英語起源。育てるのは庶民で、食べるのはノルマン貴族だった、という構造が目に浮かぶ。
  • ◆英語は政治、裁判、文学など公的な分野ではしばらく使用されなくなり、英語が文学界で「復活」を果たすのは12世紀末、政治や司法の世界では14世紀後半まで待たねばならなかった。イングランド人のフランス文化への劣等感は、このころから既にあったのかもしれない。
大型建造物
  • ◆中心部のロンドン塔、ウィンザー城、北はダラム大聖堂から南はカンタベリー大聖堂、ヘイスティングズ城まで、ウィリアム1世は大規模建築を次々と建てた。
  • ◆少人数のノルマン人でイングランドを統治するため、城=要塞を、重要拠点とされる各所に設置。また、信仰心の篤いウィリアム1世は教会関連の建物の建築にもきわめて熱心だった。
  • ◆ノルマン朝のヘンリー1世(在位1100-35)の治世が終わるころには、数にしておよそ1000の城、要塞、聖堂が建てられたといい、イングランドのあちらこちらでノルマン様式の建造物に出会うのも不思議ではない。
ドーセットにある、コーフ城(Corfe Castle)。 Swanageから北西に5マイル行った場所(A351上)に建つノルマン様式の城で、現在はナショナル・トラスト所有となっている。1642年から始まった清教徒革命の際、この城が国王軍の手に落ちることを恐れた議会派軍により破壊され、廃墟となった。城のある丘の上からは英仏海峡も望める。

週刊ジャーニー No.1295(2023年6月15日)掲載