●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

■5月6日、英国で約70年ぶりに戴冠式が行われた。前年の9月8日に、母であり、英王室史上最長の在位期間を記録したエリザベス2世の逝去を受けて即位したチャールズ3世が、英国内外に向けて、英国君主であることを広く知らしめるための一大イベントだった。この壮麗な儀式の舞台となったのが、ロンドンのウェストミンスター寺院だ。チャールズ3世はここで戴冠した40人目の君主となったのだが、同寺院は、ウィリアム1世が戴冠した場所でもある。今号と次号では、現在の英王室の祖とされるウィリアム1世についてお届けすることにしたい。

もとをたどれば親類縁者

1066年、ヘイスティングズの戦いで勝利をおさめ、イングランドを『征服』したことから、「征服王ウィリアムWilliam the Conqueror」と呼ばれるウィリアム1世。今回、同王の生涯、そして彼が果たした役割を振り返るにあたり、ひとつの疑問が筆者の頭から離れなかった。

「当時のイングランドから見ると、(ノルマン人という)よそ者であったはずのウィリアムによる『征服』が、屈辱的な出来事としてとらえられていないようであるのは、なぜか」

まず、理由のひとつとして考えられるのは、ノルマン人と、その頃のイングランドの大部分を掌握していたアングロ・サクソン人の「血縁関係」だ。現在のブリテン島は、名前から見てもわかるように、もともとケルト系ブリトン人が約3分の2を占有。北部はケルト系ピクト人、後には同じくケルト系のスコット人の勢力下にはいっていた。5世紀前半にはローマ帝国の弱体化にともない、約500年にわたる植民地支配を放棄し、ローマ人が撤退。また、このころ、ヨーロッパ大陸ではゲルマン民族の大移動が始まった。

西北ドイツが原住地とされるゲルマン民族は、金髪碧眼、白い肌、長身などの身体的特徴をそなえ、アングル族、サクソン族、ジュート族などからなった。スカンジナビアにわたり、デーン人と呼ばれるようになるヴァイキングたちもゲルマン系。そして、ヴァイキングとしてフランス北部に渡り、「Normannorum=the men from the north=ノルマン人」と名づけられた人々もやはりゲルマン系だったのだ。

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5~6世紀にかけ、大挙してブリテン島に押し寄せて先住ブリトン人を駆逐、「アングル人の地=イングランド」の地名を定着させるに至ったアングロ・サクソン人たちと、ノルマン人たちはもとをたどれば「親戚」ということになり、身体的特徴にも似たところが多かったのだ。

1066年当時のイングランドおよびノルマンディの地図。青い航路は、ウィリアム1世の遠征路を示す。

ヘイスティングズの戦いの後、ノルマン人とアングロ・サクソン人の混血が進み、わずか百年ほどの間には、誰がノルマン人の子孫で誰がアングロ・サクソン人の子孫かわからないほどになっていたとされるが、混血が猛スピードで進んだというのも納得がいく。アングロ・サクソン人、およびノルマン人からの支配に抵抗し、数百年を経た今でもできれば独立したいという夢を抱いている、ともにケルト系のウェールズ人、スコットランド人の反応とは対照的だったといえる。

考え方も似たもの同士?

ウィリアム1世は大規模建築を次々と建てた。ロンドン塔のホワイト・タワー=写真=もそのひとつ。ウィリアム1世が着工を命じ、彼が逝去してから約10年後に完成したといわれている。イングランドに教会建築以外の大型建造物が造られたのは、ローマ人が去ってから実に約600年ぶりのことだったという。

ウィリアム1世も、もちろん無血でイングランド支配を可能にしたわけではなく、10数年にわたってアングロ・サクソン系有力者らによる抵抗を武力でもって鎮めねばならなかった。しかし、世界史全般を見れば、10数年など、「超」がつくぐらい短い。それほどの短期間で、ノルマン人によるイングランド支配がかなりのレベルまで到達したもうひとつの理由に、ウィリアム1世、アングロ・サクソン社会の双方に、合理性重視の柔軟さがあった点を加えても良いのではないだろうか。

異民族が侵入してきた場合、異なる宗教、異なる言語、異なる生活習慣、異なる身体的特徴など、「異なる」部分に拒否反応が起こるのが一般的。しかし、ノルマン人とアングロ・サクソン人の場合、まずは前述のように身体的特徴にそこまでの差異はなかったと思われる。

また、宗教面でも、双方ともにカトリックで、この点でも摩擦は少なかったと考えていいだろう。もともと自然崇拝的多神教を奉じていたアングロ・サクソン人たちだが、6世紀ごろより大陸やアイルランドから修道士らが渡英して布教、9世紀初めごろまでにはカトリックが広く浸透するに至っていた。一方、ヴァイキングの一派が10世紀初めにフランス北部に渡来した際の指導者、ロロ(Rollo)のひ孫であるリシャール(Richard)2世の代に、ノルマン人もキリスト教に改宗していた。ウィリアム1世はこのリシャール2世の孫にあたる。

さらに、リシャール2世時代に「ノルマンディ公爵」のタイトルが認められるようになったのを受け、ノルマン人たちはフランス語を話し、フランス式作法を熱心に取り入れたという。一方、イングランドを支配下に置いたウィリアム1世は英語を習得しようと試みたほどで、ノルマン人はもともとかなり柔軟な人々だったと見える。

柔軟性といえば、英王室そのものもデンマーク、オランダ、ドイツ、ロシア、ギリシャなどヨーロッパ各国の王室と婚姻関係を結ぶだけでなく、必要とあらば、オレンジ公ウィリアム(オランダ)、ハノーヴァー選帝侯(ドイツ)といった、血縁関係にあった外国人を、国王レベルのポジションに「投入」するなど、したたかな対応ぶりをしばしば示している。

加えて、ノルマン人はアングロ・サクソン世界で築かれた、統治上の優れた仕組みや構造を進んで採用。アングロ・サクソン人もフランス仕込みの洗練された文化から得るところは大きく、お互いに相手の文化を否定するどころか、長所は吸収するという姿勢で臨んだところも両者の共通点といえる。

人種、宗教、言語、思考方法、生活習慣などを含む「相違点」が国同士、あるいは民族間の紛争の原因となっている現在の国際社会を思うにつけ、『征服』がノルマン人によって行われたことは、その後の英国史を方向づけるうえで極めて大きな意味を持っていたといえよう。

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マップ

キングの座を手に入れた私生児ーウィリアム1世の生涯

1 洗濯場で生まれた恋
ウィリアム1世の生まれ故郷、ファレーズにある城への門。ファレーズはノルマンディの中心的都市のひとつ、カン(Caen)からバスで1時間ほど。このファレーズ城と、ウィリアム1世像があるほかは、とりたてて見所のない普通の町だ。

ウィリアムは1027年(または1028年)に生まれた。父はノルマンディ公爵ロベール1世(Robert/1000~35)で、母親は皮なめし職人の娘アーレット(Arletteは通称、本名はHerleveまたはHerleva)。通説によると、2人の出会いの舞台はノルマンディの小さな村ファレーズ(Falaise)。2人がまだ10代だったころ、馬に乗ってこの村を訪れたロベール1世が、川で洗濯をしていた美しいアーレットに一目ぼれ。すぐさま城にあがるよう使いをよこし、アーレットも、日陰者の身として暮らすのではなく、2人の仲を公けのものとするなら、との条件を出して、公爵の側室になることを承諾した。

情熱的な出会いから1年、ウィリアム(フランス語名『ギヨム』Guillaume)が生まれたが、アーレットの身分は低すぎ、結婚は叶わなかった。ウィリアムが後に「William the Bastard=私生児」と政敵から呼ばれたのはこのためだ。

アーレットは後にある子爵と結婚。3人の子をもうける。このうちのひとり、オド(Odo)は、バイユー司教となり、ウィリアムの側近として活躍する。

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2 暗殺計画から必死で避難

ウィリアムが8歳の時、大きな試練が彼を襲った。父、ロベール1世が、エルサレム巡礼の旅の途中で急逝してしまったのである。ロベール1世は出発前に臣下を集め、留守中はウィリアムに忠義を尽くすよう誓わせていたが、いざ同公が亡くなると、ウィリアムを抹殺しようとする動きが即座に始まった。

ウィリアムの後ろ盾ともいえる有力貴族が次々と殺され、ウィリアムも暗殺の危機に常にさらされるようになった。側近が、熟睡中のウィリアムを抱きかかえ、夜中に居どころを変えることもあったという。

当時、私生児(庶子)が爵位をつぐことが禁じられていたわけではないが、正妻の子(嫡子)ではないとして、その立場は当然ながら弱かった。ウィリアムは精神的にも肉体的にも強くならざるを得なかった。しかし、何より強運が、この過酷な少年期を乗り越えさせたのだった。

3 ののしられたが結婚

15歳の折にナイトに叙され、武人としてタイトル上一人前となったウィリアムは、その数年後、初陣を飾る。相手は、ノルマンディ公領をねらう、いとこのバーガンディ公だった。フランス王アンリ1世の助けを借りて勝利をおさめたウィリアムは、その後の40年間、常に戦いに明け暮れることになる。

20代前半に、フランダース伯の娘マチルダに求婚。マチルダは、あるイングランド人に想いを寄せていたといい、「(ウィリアムのような)私生児のもとに嫁ぐくらいなら、尼になるわ!」と宣言。激怒したウィリアムは無理やりマチルダと結婚。2人の門出は決して穏やかなものではなかった。しかしながら大男の夫に小柄な妻という、この凹凸カップルの結婚生活は比較的うまくいったとされ、少なくとも4人の息子と5人の娘が生まれた。

なお、マチルダとウィリアムは遠縁にあたり、その頃、カトリックで許されていた範疇より、2人の血のつながりはわずかに濃かったため教皇から破門されてしまう。ノルマンディの都市カン(Caen)に男子修道院と女子修道院を建てることにより、ようやく2人は教皇の許しを得るのだが、それは結婚から10年近くも経ってからのことだった。

ノルマンディの都市、カンにはウィリアム1世がマチルダとの結婚を教皇に許してもらうために建てた、男子修道院(写真左)と女子修道院(同右)がある。

マチルダが絶世の美女だったというような記述は、史実に見当たらないようだが、マチルダにののしられても、教皇に反対されても、結婚の意志を曲げなかったウィリアム。障害が多いほどパワーを発揮するタイプだったと見受けられる。この長所は、ヘイスティングズの戦いでも存分に発揮される。

4 たちはだかる懺悔王の義弟

1051年、20代半ばのウィリアムはイングランドを訪問。時のイングランド王は信心深いことから「懺悔王」の異名をとったエドワードであった(Edward the Confessor/在位1042~66)。

エドワードの母は、ノルマンディ公爵家出身で、リシャール2世の妹、エマ。余談ながら、このエマも実に波乱に富んだ人生を送った。

エマは、アングロ・サクソン王の中で最も名高いアルフレッド大王(Alfred the Great/在位871~99)の子孫エゼルレッド2世(Ethelred II/在位979~1013、および1014~16)に最初は嫁いだのだが、同王が、デンマークからイングランドに攻め入ってきたクヌート(Canute/イングランド王としては在位1016~35。デンマーク、ノルウェー王も兼任)に破れたため、今度はクヌートの妻になり1男1女までもうけたという女性だ。

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さらに、懺悔王エドワードは、ノルウェー王家の血を引き、クヌートとも縁戚にあたる女性と結婚。この複雑な婚姻関係が、ヘイスティングズの戦いの火種となる。懺悔王エドワードの妻の弟で、デンマーク・ノルウェー王家の血を引くハロルド(Harold)が、王座を狙うようになったからだった。

バイユーのタペストリー(フランス語では「Tapisserie de Bayeux」)に登場する、懺悔王エドワードの葬儀の場面。左に見えている建物は、懺悔王が建てたウェストミンスター寺院。このタペストリー(正確には亜麻で作った布に刺繍をほどこした刺繍画)は、ウィリアム1世のイングランド征服の物語を伝える貴重な資料となっている。ウィリアム1世の異父弟であったバイユー司教のオドが作らせたという説が近年は有力という。

懺悔王の後継者となることを目指すウィリアムとハロルド。2人の対立は深まり、やがて直接対決は回避できない状況へと進んでいく。

後編に続く

週刊ジャーニー No.1294(2023年6月8日)掲載