
●サバイバー●取材・執筆・写真/内園香奈枝・本誌編集部
■ パンデミックの影響で、ペットを飼う人が一時期急増したが、ほぼ日常生活に戻った現在、今度は「ペットの飼育放棄」が問題となりつつある。英国を代表する動物保護施設のひとつ「バタシー・ドッグズ&キャッツ・ホーム」が誕生したのは、「動物愛護」という考え方がまだ一般的ではなかった、19世紀のヴィクトリア朝時代。今号では、逆風の中でロンドンの迷い犬たちのために立ち上がった、ある1人の女性についてお届けする。
英国民の娯楽「動物たちの決闘」
16~19世紀の英国では、ドッグ・ファイティングや鶏によるコック・ファイティングなど、猿、牛、熊といった動物同士、あるいは動物と人間が死闘を繰り広げる様子を歓声をあげながら鑑賞する「娯楽」が、ギャンブルの一種として広く普及していた。1835年に禁止令が出されたものの、実際には1850年代に入ってもなお、密かに開催され続けていたのである。
19世紀における犬を取り巻く環境は、とくに苛酷だった。1872年に刊行された「フランダースの犬」からもわかるように、飢えた野良犬がそこかしこをうろつき、高級な馬の代わりに犬が重い荷車をひいた。迷い犬が餓死したり、撃ち殺されたりすることも珍しくはなかった。動物保護のための法律や団体がつくられたということは、そうせざるを得ない残酷な動物虐待の過去があったという裏返しでもある。
当時、犬をペットとして飼えたのは一部の富裕層のみ。そして、動物たちへのひどい扱い方を見かねた彼らが中心となって、1824年に英国で設立されたのが、世界初の動物保護チャリティ団体「RSPCA(The Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals)」だ。しかし、英国で奴隷制度が廃止されたのは、それよりも遅い1833年。人間よりも動物を保護する法律を先に可決する時代において、多くの市民は「動物愛護」の考え方を鼻で笑っていた。

キッチンの一角からのスタート
そうした時代に、「不遇な暮らしを強いられた犬たちを救う『犬の保護施設』をつくりたい」と立ち上がった人物がいた――。その女性、メアリー・ティールビーは資産家というわけではなく、むしろ夫と決別して実家へ戻り、父親と弟の年金で暮らす60歳を目前にした女性だった。
メアリーは1801年、ケンブリッジシャーにあるハンティングドンの中流家庭に生まれた。ヨークシャーの木材取引会社の一人息子ロバートと結婚するも、嫁いだティールビー家は複雑な家庭事情を抱えていた。実はロバートが11歳の頃、父親はそれまでの婚姻関係を「無効」とし、母親を追い出していたのだ。その理由は「結婚時に妻は21歳に達しておらず、父親の許可なしに結婚した」という、いわば言いがかり。離婚制度自体はあったものの、世間的には歓迎されない行為であったことから、婚姻を無効とした上で、別の女性と結婚したのである。父が新たに迎えた30歳も年下の女性とロバートが親しくなることはなく、父親が死去すると彼女が会社の会計を握り、やがて経営権をロバートから奪った。ギスギス、ドロドロとした家庭環境の中で夫婦の愛も冷め、メアリーはティールビー家を出て、北ロンドンに引っ越していた実家へと戻り、両親や弟と暮らしはじめた。
そんなときに出会ったのが、ある一匹の捨て犬だった。道端で見つけた衰弱した犬をどうしてもそのまま放置できずに引き取り、獣医からアドバイスを受けながら徹夜で献身的な世話を続けるも、犬は3日目の夜に死んでしまう。やりきれない思いと深い悲しみは、彼女の中に大きな使命感を呼び起こした――この犬のように、不遇な暮らしを強いられた犬たちを救う『犬の保護施設』をつくろう。そして、キッチン横の食器部屋がそのスタート地点となったのであった。
メアリーは、当時住んでいたイズリントン周辺の野良犬や虐待を受けた犬たちを連れてきては、元気になるまで自宅で世話をするようになる。だが、問題は山積みだった。食器部屋では数匹の犬ですぐに手狭になり、近所の住民たちからは「犬の鳴き声がうるさい」と苦情が寄せられるようになった。きちんとした「保護施設」を設けようと場所を探した結果、目に留まったのが自宅の近くにあった小さな建物(Mews)。日当たりは悪いし、湿気も多く、治安の悪さでもよく知られた地域だったが、持ち主が犬たちのために場所を貸すことに同意してくれたため、そこで保護施設「Home for Dogs」をスタートさせた。
ただ、どれほど犬への愛情や情熱があったとしても、世話をするには施設の維持費(家賃)、えさ代、薬代など、多くの資金が必要不可欠。また、見つけた犬を施設に運ぶための運搬費もかさんだ。収入が得られるわけでもないので、誰かの援助がなければ到底継続できない事業だ。ところが幸いなことに、彼女の思い切った試みは時代の風に乗りつつあった。
前述したRSPCAの創設により動物愛護の動きが盛んになりはじめていたこと、1859年に発行されたチャールズ・ダーウィンの「種の起源」の中で、ダーウィンの飼い犬が、彼が5年間帰らずとも彼のことを覚えていたエピソードが発端となり、忠犬をテーマにした小説や詩が人気を博していたこと、さらに1853年に勃発したクリミア戦争で多くの兵士たちを救ったフローレンス・ナイチンゲールの存在によって、人道的チャリティ活動を行う女性が注目を集めていたことなどが追い風となったのである。貴族、聖職者、退役軍人、女性資産家らがメアリーの大志や熱意に心動かされ、徐々に寄付金が集まるようになっていく。RSPCAも寄付受付の窓口となり、必要があれば助言を与えてくれた。

救世主 ディケンズの後押し
1860年には「Home for Lost and Starving Dogs」という名称で、ついに保護施設の運営を正式にビジネスとしてスタート。しかし、新しい施設でも再び犬の収容スペースが足りなくなってしまい、「14日以内に引き取り手の現れない犬は、委員会によって売りに出すか、処分を行う(※のちに40匹以上に達した場合という条件が加わる)」という苦渋の新ルールをつくらざるを得ない状況に陥った。それに追い討ちをかけるように、家主から建物を買い取れなければ立ち退くよう言い渡されたメアリーは、飼い主が家を留守する間にその犬の世話をする「ペットホテル」のような有料サービスをはじめるなど、ありとあらゆる手段で資金集めに奔走する。
そうした存続の危機が差し迫る状況を救ったのが、文豪チャールズ・ディケンズである。愛犬家として知られるディケンズが噂で耳にした施設を訪れ、彼が発行する雑誌に施設存続の意義を称える記事を掲載したのだ。記事は大きな反響を呼び、「得体の知れない奇妙な施設」と嫌悪感を滲ませていた人々の認識が、「ディケンズが認めるのだから、きっと価値あるものに違いない」という風潮に一変。これを機に、滞っていた水がどっと流れ出すように、施設の経営が軌道に乗りはじめた。1863年には、立ち退きを迫られていた建物の買い取りに成功。翌年には1年に2066匹を引き取れるまでに成長し、ウエストミンスター、チェルシー、べスナル・グリーンの3ヵ所に犬の引取り所も建設された。
施設の安定を見届けて安心したのか、がんを患っていたメアリーの健康状態は一気に悪化。1865年に64歳で死去したが、保護施設はその後も順調に発展していき、1871年に現在のテムズ河南岸のバタシーに移転している。1883年には猫の受け入れも開始され、ヴィクトリア女王やエリザベス女王、そして今はカミラ王妃が同施設のパトロンとなって、英国最大級の犬猫保護施設として「バタシー・ドッグズ&キャッツ・ホーム」の名で運営が続けられている。
ごく普通の老年にさしかかった女性が、キッチンの一角からはじめた小さな取り組みは、わずか5年ほどで大きく実を成し、今や世界各地で理想的な動物保護施設のモデルとされている。ここまでの成長を遂げるとは、彼女自身も想像していなかったに違いない。

バタシー・ドッグズ&キャッツ・ホーム訪問記
バタシー・ドッグズ&キャッツ・ホームでは、野良犬や迷い犬(全体の40%)、諸事情により飼い主とともに暮らすことが難しい犬、猫(全体の60%)を収容している。新たな飼い主が見つかるまで、または元の飼い主が引き取りにくるまで保護する「一時預かり所」で、バタシーのほか、ロンドン郊外のケントとオールド・ウィンザーにも施設があり、バタシーだけで現在犬300匹、猫100匹を保護中。開業した1860年から受け入れた犬猫の合計は、300万匹を超えている。
バタシー出身の犬猫たちはセレブリティにも人気で、ダウニング街10番地にいるラリーもここの出身。飼い主候補者のチェックは非常に厳しく、十分なスペースがあるか、家を空けがちではないか、上階に住んでいないか、持ち家で庭があるか、経済的に面倒を見られるかなどが細かく調べられ、抜き打ちで家庭訪問を行うこともあり、同施設出身の犬猫を飼えることは1つのステータスとなっている。
パンデミック以降、一般見学は月1回のガイドツアーのみ。参加当日は受付(①)へ行って名前を申告した後、ショップを兼ねた待合場所(②)でツアーが始まるのを待とう。犬舎や猫舎の見学のほか、トレーニングルームでは職員の指示のもと、犬と触れ合うこともできる(③)。また、敷地内には1907年に英国で初めて建設された猫専用の保護施設が資料館として残されている(④ 写真中央)。






Battersea Dogs & Cats Home
4 Battersea Park Road, London SW8 4AA
Tel: 020 7622 3626
最寄り駅: Battersea Power Station/ Battersea Park
※一般見学は月1回のガイドツアーのみ(60分/£12.22)。次の開催は5月18日(木)、6月29日(木)。要オンライン予約。

週刊ジャーニー No.1287(2023年4月20日)掲載