●サバイバー●取材・執筆・写真/本誌編集部

■コルシカ島出身の陸軍砲兵士官からフランス皇帝にまでのぼりつめたナポレオンの甥で、大統領当選を経て、クーデターで皇帝の座に就いたナポレオン3世。実は、彼は故国フランスではなく、英国でその生涯を終えて永遠の眠りについていることをご存じだろうか。今回は最後のフランス皇帝の波乱の生涯と、彼を影で献身的に支え続けた英国人女性の悲恋、そして埋葬地ファーンボローのセント・マイケル寺院についてお届けする。

帝政復古を目指す男

ナポレオン3世ことルイ・ナポレオン・ボナパルトは1808年、皇帝ナポレオン・ボナパルトの権力全盛期のパリで誕生した。父親はオランダ王となっていたナポレオンの弟、母親はナポレオンの妻ジョゼフィーヌの娘(前夫との子)オルタンスで、ボナパルト一族の両親のもとに生まれた「期待の星」だった。

しかし両親は結婚当初から不仲で、ルイ・ナポレオンが2歳を迎える頃に離婚。母オルタンスは幼い息子を連れてオランダから華やかなパリへ戻っている。彼が6歳になる時に偉大なる伯父ナポレオンが失脚。以降、フランスはブルボン王朝の復活と廃止、ナポレオンの復権と再廃位などを繰り返す激動の時代へと突入するが、それらの火の粉を避けて母とともにスイスやドイツを中心にヨーロッパを転々とする亡命生活を送った。とはいえ、それは決して苦しく慎ましい生活を強いられるものではなかった。母の兄がバイエルン王女と結婚していたため、資金には困らなかったのだ。

退位文書に署名した頃の疲れ切った表情を浮かべるナポレオン。

22歳でスイス陸軍の砲兵隊に入隊。砲兵隊を選んだのは、当然ながら伯父の影響である。やがてフランスで七月革命が勃発し、王政復古していたブルボン朝が倒されると、ボナパルト家の復興を画策するも挫折。これ以来、ルイ・ナポレオンは一族の帝政復古を目指して、幾度も挫けずに武装蜂起することになる。

遺産でロンドン贅沢三昧

1836年、ストラスブールで蜂起した反乱が鎮圧され、スイスへ避難したルイ・ナポレオンの引き渡しを求めて、フランスはスイスとの国境に軍隊を配置するが、彼はいち早くスイスを脱出。ヨーロッパ大陸に潜伏するのは危険だと感じ、海を挟んだ国――英国への逃亡を選んだ。ここからルイ・ナポレオンと英国の関係が始まり、それは人生の終焉まで続いていく。28歳での初渡英で、産業革命の波が押し寄せるロンドンを気に入ったものの、この時は長居せずに国を発っている。

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母親の死で莫大な遺産を受け継ぐと、英国を亡命生活の拠点に定め、意気揚々と入国。当時の英国は、18歳の若きヴィクトリア女王が即位したばかり。女好きで華やかなことが大好きな放蕩児でもあったルイ・ナポレオンは、ロンドンで贅沢三昧の生活に浸り、一方で「来たる日」のために武器を金に糸目なく買い集めながら、わずか3年ほどで遺産を使い切ってしまっている。

数多の女性たちのもとをフラフラと渡り歩き、機会をうかがっていたところに、ビッグニュースが飛び込んでくる。流刑となっていたセント・ヘレナ島で死去し、同地に一旦埋葬されていた伯父の遺体が、凱旋門を通ってパリに戻ってきたのだ。遺体はアンヴァリッド(廃兵院)へ正式に埋葬されたが、ナポレオンの死後20年近くが過ぎ、美化されはじめていた「英雄」の帰還にフランス中は大きく沸き立った。

それを「チャンス」と見たルイ・ナポレオンは、こっそりとフランスへ帰国してクーデターを試みるも、またもや失敗。国外へ亡命できないように投獄されてしまう。だが、監視の目は非常に緩く、下働きの侍女がそばに控えているような優遇された囚人生活で、この収監中に侍女に私生児を2人生ませている。

監獄生活が6年目に入った1846年、幼い頃に別れた父親が世を去る。再び豊富な遺産を相続した彼は、看守を買収して脱獄し、またロンドンへ向かった。


ナポレオン2世 って誰?

1804年に戴冠した皇帝ナポレオンを「ナポレオン1世」、その甥で1852年から第二帝政時代を築いたルイ・ナポレオンを「ナポレオン3世」と呼ぶが、その間の「ナポレオン2世」はどういう人物だったのか?

ナポレオン2世は、ナポレオン1世が再婚した神聖ローマ帝国のマリー・ルイーズ皇女との間に生まれた、唯一の嫡子だ(絵右上)。ナポレオンは3歳の息子への譲位を条件に退位したため、共和制政府が確立するまでの約2週間、名目上とはいえナポレオン2世として即位している。廃位後は母とともにオーストリアへ渡ったが、母はのちに再婚。12歳で結核を発病し、父に憧れて軍人になったものの病床に伏せることが多くなり、21歳で死去した。ウィーンの皇族霊廟に埋葬されたが、
父と再会することを願っていた彼の遺志をくみ、1940年にアドルフ・ヒトラーがパリのアンヴァリッド(廃兵院)に安置されたナポレオンの棺の向かいに再埋葬させている(写真右下)。

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支え続けた英国人女性

さて、ロンドンへ舞い戻ったルイ・ナポレオンは、夜ごとパーティー三昧の日々を再スタートさせる。そして、ある夜会で人生を大きく左右する「運命の女性」と出会う。

ハリエット・ハワードはブライトンにある有名ホテルのオーナー一族の娘で、15歳で人気騎手と駆け落ちしてロンドンにやって来ていた。騎手とはまもなく破局したものの、その後は富豪たちの「愛人」業で稼ぎ、23歳にしてかなりの財産を築いていることでも知られていた。2人のあいだに言葉や時間はいらなかったのか、ハリエットとルイ・ナポレオンは出会ったその夜から同棲を開始。ハリエットは彼と住むために一等地のセント・ジェームズ地区に高級フラットを用意し、また自身の人脈と「技」を駆使して帝政復活の志を同じくする仲間集めにも奔走。さらに、彼が相変わらず瞬く間に遺産を使い果たしてしまった後は資金も援助するなど、ルイ・ナポレオンにとってなくてはならない重要な女性になっていった。

1848年、ついに時節到来。フランスで二月革命が勃発して王政が完全崩壊したとの報を受け、ルイ・ナポレオンはパリへ向けて発つ。ただ、今回は武装蜂起はせずに慎重に行動することにした。その傍らにはハリエットの姿があった。

ルイ・ナポレオンとハリエットが暮らしたセント・ジェームズ地区の部屋(1c King Street, London SW1Y 6QG)。右端の絵はハリエットの肖像画。2人が出会った時、ハリエットは23歳、ルイ・ナポレオンは38歳だった。

ついにクーデター成功

ルイ・ナポレオンはまず議員選挙に立候補し、国会議員に就任することで足場を固めることに決めた。彼の名は貴族なら知らぬ者はいなかったが、市民にはあまり認識されていなかったため、「英雄」の甥であることを強調して街頭演説を繰り返し、市民に名前と顔を精力的に売った結果、共和制による初の国民投票であっけないほど簡単に大統領に選出されたのだった。なんと得票率は約75%に達していたという。

だが、誕生したばかりの初代大統領の権力は大きくなく、また貴族の多い国会議員たちからの圧力も強く、何より大統領には「任期」がある。しかも大統領の再選は禁止されていたのだ。

頂点の座を維持していくためには、やはり帝政しかない…。

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これまでとは異なり、内務大臣らを計画に引き込むなど用意周到に準備を重ねたルイ・ナポレオンは、大統領就任から3年、任期が残すところ1年となった1851年、議会解散を突然宣告し、敵となりえる大物議員をさまざまな罪で軒並み逮捕させる。抵抗する議員には警察が容赦なく発砲して武力で抑え込み、見事クーデターを成功させた。ついに伯父に追いつき、夢にまで見た第二帝政の幕開けである。

翌1852年、皇帝ナポレオン3世として戴冠したルイ・ナポレオンはすでに44歳になっていた。

皇帝と釣り合う者

皇帝となったルイ・ナポレオンが最初にしたことは、妻となる皇后探しだ。庶子は数人いたものの、まだ未婚だった彼は、ボナパルト家の横に並び立つのに遜色ない血筋の女性を求めた。しかし、政権の危うさから嫁いでくれるヨーロッパの王族は見つからず、妥協の末にスペインの伯爵令嬢ウジェニー(英語読みではユージェニー)に白羽の矢を立てる。婚約発表の日には、ハリエットに仕事を与えてパリから遠ざけた。

新聞で婚約を知ったハリエットはショックを受け、ルイ・ナポレオンに抗議するも取り次いでさえもらえない。しかも伯爵夫人の称号と屋敷を一方的に与えられて、パリ郊外へ追い払らわれてしまう。途方に暮れる彼女だったが、多情な彼は結婚後すぐに女性遊びを再開させ、ハリエットは再び宮廷に呼び戻された。

皇后ウジェニーは嫡子を生んだ後、皇帝不在時の摂政を任されるなど政治に大きく介入。貴族女性から庶民まで女性関係が派手だったルイ・ナポレオンは、彼女の機嫌をとるために、さまざまな点で譲歩することが多かった。

一方、これに激怒したのがウジェニーである。皇位を継ぐ嫡子を得るためにもウジェニーの機嫌を損ねるわけにはいかなかったルイ・ナポレオンは、結局ハリエットを英国へ強制送還。以降、彼女がフランスの地を踏むことはなかった。やがて待望の嫡子ナポレオン・ウジェーヌが誕生するも、息子に皇位が引き継がれることはなく、20年に満たずして帝政は終焉を迎える。

英国で没す、その影には

フランスの度重なる革命の影響でヨーロッパ各国の利害関係が複雑化し、クリミア戦争、イタリア統一戦争、普墺戦争、普仏戦争…と欧州に戦火の時代が到来。その中で肝臓病、膀胱炎、性病などを患って体調が優れなかったルイ・ナポレオンは1870年、英雄の伯父のように戦場へ出て指揮をとった普仏戦争で捕虜となり、廃位された。ウジェニーは息子を連れて英国へ亡命。ケントの町、チズルハーストにある邸宅「カムデン・プレイス」で暮らしはじめる。ルイ・ナポレオンは翌年にプロイセン軍から釈放され、英国で妻子に再会した。

現在はゴルフコースのクラブハウスとなっているカムデン・プレイス© Ian Capper(写真上)と、同邸宅で暮らしていた頃のナポレオン3世一家。

ところで、このカムデン・プレイスはウジェニーが交友のあった英国人銀行家から借りた屋敷だが、彼はかつてハリエットの管財人をしていた人物だ。ハリエットは英国へ戻された後、大統領選で提供した支援金をルイ・ナポレオンから分割で返済されていたが、その借金が完済した時に「きっと彼がいつか必要とするだろうから」と、返済金でカムデン・プレイスを管財人に購入するよう頼んでいたのである。管財人名義になっていたため、ルイ・ナポレオンもウジェニーもその事実に気づかなかったが、裏切られたにもかかわらず、ハリエットは最後まで彼を支え続けたのだった。ちなみに、かつて収監中に下働きの侍女が生んだ私生児2人も、彼女が英国で育て上げている。ハリエットは皇帝の凋落を知ることなく、1865年に42歳で世を去った。

さて、ルイ・ナポレオンは復位を諦めずに再びクーデターを起こす計画を立てるも、年々健康が悪化し、2年後の1873年に64歳で息を引き取った。ナポレオン親派らは、息子のナポレオン・ウジェーヌを「ナポレオン4世」と呼び、皇位復活の望みをかけたものの、英国兵として従軍した南アフリカのズールー戦争にて、23歳で落命。それから140年以上経った今でも、フランスでは共和制が続いている。

ナポレオン3世一家が眠る
セント・マイケル寺院
喪に服すウジェニー。

ナポレオン3世父子は、カムデン・プレイスの近くに建つカトリック系の小さなセント・メアリー教会(St Mary's Church)に埋葬されたが、ウジェニーは一家が眠る霊廟の建造を決断。親しかったヴィクトリア女王の協力を得て、ハンプシャーのファーンボローにある小高い山の頂上に、ナポレオン3世が埋葬されることを望んだサン=ドニ大聖堂(パリ郊外)を模したセント・マイケル寺院を建てた。ここの地下安置所に夫と息子の棺を移そうとしたが、元フランス皇帝が英国に眠ることを地元住民が反対。仕方なく政治的に中立とされるスイスから土を運んで地下一帯を埋め、そこに棺を埋葬することで「ここは英国ではない」と主張した。

地下安置所では正面上段にウジェニー、その右に夫、左に息子が眠る。右写真がセント・マイケル寺院外観。
© Lewis Hulbert
ファーンボロー・ヒルは現在、カトリック系の女子高となっている(非公開)。

ウジェニーは寺院が見える邸宅「ファーンボロー・ヒル」で94歳まで生き、1920年に死去した後は、夫と息子よりも一段高い祭壇に棺が安置されている。 同寺院では、毎週土曜の午後3時からガイドツアーが催されている。

St Michael's Abbey
280 Farnborough Rd,
Farnborough, Hampshire GU14 7NQ
https://farnboroughabbey.org

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週刊ジャーニー No.1281(2023年3月9日)掲載