献立に困ったらCook Buzz
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●サバイバー●取材・執筆/手島 功

1975年2月28日金曜午前8時46分、モーゲート駅9番ホーム。通勤客を満載した地下鉄ノーザン・シティ・ラインが非常停止用トンネル先のコンクリート壁に猛スピードで激突した。大地を揺るがす轟音が駅構内に響いた後は、水を打ったかのような静寂が辺りを支配していた。ロンドン地下鉄史上前例のない大事故が発生した。
© Japan Journals Ltd

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消えた先頭2車両

ホームから激突の様子を目撃していた人たちは呆然と立ち尽くした。事故発生から2分後の午前8時48分、重大事故発生を告げる最初の通報がなされた。ロンドン市警はフィンズベリーサーカスにあったBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)本社医療部門に協力を要請。医師3名と看護師2名が現場に急行した。

1人の医師が途中、十分な鎮痛剤がないことに気づき、ブーツ(薬局)に駆け込んだ。薬剤師はありったけのモルヒネと鎮痛剤を医師に渡した。事故発生から6分後の8時54分には最初の救急車がモーゲート駅に到着。その後、消防車が現場に到着し始めた。この時点では誰も事故の規模を把握できていなかった。

レスキュー隊を乗せた消防車両がモーゲート駅に到着した。事故があった9番ホームはモーゲート駅の中でも地下21メートルと最深部にあった。救助に必要な重い工具類を肩に担いでレスキュー隊員らは地下に向かった。途中、持参した無線ではコンクリートに遮蔽され地上と交信できないことが分かった。後に地下深くでも交信可能な無線機「フィガロ」を装備した別動隊が到着するが、それまでは伝令が何度も現場と地上を往復した。

隊員らが9番ホームに辿り着くと非常停止用トンネルに突っ込んで停止している客車3両が見えた。損傷の少なかった車両からは既に乗客が自力で脱出していた。電車は6両編成でトンネルの中に3車両がめり込んでいるという。トンネルは全長20メートル。それに対し1車両の長さは16メートル。中に3車両が閉じ込められているという。「先頭の2車両は一体どこにいるのか」。レスキュー隊員はしばし呆然と立ち尽くした。

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折り重なる人々

先頭車両に乗っていて奇跡的に助かった男性は後に衝突の瞬間を次のように述懐した。

「異変を感じて顔を上げ、読んでいた新聞の向こう側に座っていた女性と目があったその時、照明が落ちて真っ暗になった。次の瞬間、とてつもない轟音と共に凄まじい衝撃に襲われた。金属片やガラスが飛散した。誰一人、叫ぶ人はいなかった。全ては一瞬の出来事だった。女性は亡くなった。今も彼女のその時の表情が頭から離れない」。

別の男性は「衝突の衝撃で、立っていた乗客はみな前方に飛ばされて何層にもうず高く折り重なった。座席12個分のスペースが一瞬で2席分に押し潰された」。「真っ暗な中、人々は声を掛け合った。『助けてくれ』という声も聞こえた。やがて誰かが『冷静になろう(Don't panic.)』と叫んだ。パニックになる者はいなかった」と話した。

午前9時頃までに後方車両の負傷者を降ろし終えた。先頭2両の損傷が激しく、中には50人ほどが閉じ込められているようだった。現場の消防隊員は「長期戦になる」と本部に告げた。

後で分かることだが、先頭車両は非常停止用トンネルの手前にあったバッファー・ストップ緩衝器に激突したはずみで大きく跳ね上がり、トンネル天井を削るように進んで突き当りのコンクリート壁に激突。車体は蛇腹のように圧縮された。2両目は跳ね上がった先頭車両の下に潜り込み、車体が潰されV字型になって止まった。上下に重なった先の2車両を3両目がさらに激しく押し潰していた。

救出作業は困難を極めた。レスキュー隊員は瓦礫を一つ一つ取り除き、金属カッターで鉄を切り裂きながら隊員が侵入できるルートを確保し、少しずつ前進した。午前10時、新たに到着した医療チームがホーム上に簡易手術スペースを組み立て、救出のために乗客の手足を切断するケースに備えた。彼らはすぐに多忙となった。


今もモーゲート駅地下に残る、事故を起こした9番ホーム先の非常停止用トンネルと同型、同サイズのトンネル。手前、白赤の物体がバッファー・ストップ(緩衝器)と呼ばれる緩衝器。
© Japan Journals Ltd

灼熱地獄の救出作業

事故発生以来、事故現場の温度が異常なほど上昇していた。この当時、地下鉄の換気はトンネル内を電車が走りまわることで空気を動かす「ピストン・エフェクト方式」が採用されていた。全ての電車が止まったことで空気の動きが完全に停止した。さらに現場を照らすランプと金属カッターが発する熱により、現場の温度は50℃近くに上昇した。レスキュー隊員の二次災害が危惧され始めた。

トンネル内の気温はたちまち50℃近くにまで上昇。レスキュー隊員たちを苦しめた。
© London Fire Brigade

事故発生から3時間が経過した正午、車内に閉じ込められた乗客のうち生存者は5名とされ、午後10時までに5人全員が救出された。うち一人の女性は左足を切断。救出された5人のうち、数人が後日、入院先の病院で息を引き取った。レスキュー隊は全ての機器のスイッチを切り、生存者がいないか何度も叫んで確認した。トンネル内から一切の生体反応が消えた。医療チームは取り残されている乗客全員の死亡を宣言。救出作業は遺体回収作業に切り替えられた。

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事故当時、地下鉄を運転していたレズリー・ニューソン。
© PA Images / Alamy Stock Photo
日付が変わった3月1日以降も休まず遺体の回収作業が続けられた。最終的に3月4日の午後3時20分、運転士レズリー・ニューソンを残し全員の遺体が収容された。ニューソンの遺体は事故原因の究明にとって重要であるため、誰よりも時間がかけられたが同日午後8時5分に回収された。死者数はニューソンを含めて43名。74人が重軽傷を負った。

 

ノーザン・シティ・ラインは事故からおよそ10日後の3月10日、全面復旧した。

原因は今もミステリー

 

事故現場となったモーゲート駅9番ホーム。
© London Fire Brigade
すぐに事故原因の調査が始まった。ブレーキの不具合と運転士の過失、2方面での調査が行われた。車体からブレーキ等が取り外され、テストが何度も繰り返されたが問題は見つからなかった。ニューソンの法医解剖が行われたが事故に繋がる要因は見つからなかった。飲酒運転が疑われたがニューソンは日頃からアルコールは嗜む程度で業務に障害が出るほどの大酒家ではなかった。血中からアルコールが検出されたが腐敗の進行過程で生じる自然のものと判断された。
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事故当時、ホームで電車の到着を待っていた乗客が奇妙な証言をした。電車がホームに侵入して来た時、運転席のニューソンは目を大きく見開いて真っすぐ前を見詰めた状態だったというのだ。さらにニューソンはデッドマンズ・ハンドル(Deadman's Handle=死者のハンドル)と呼ばれる運転レバーを握りしめた状態で死亡していた。

 

ニューソンが激突の瞬間も握りしめていたデッドマンズ・ハンドル。手を離せば電流が遮断され、自動的にブレーキがかかる仕組みだ。
© Japan Journals Ltd
デッドマンズ・ハンドルとはバネ式のレバーを押し下げて回転させる仕組みのアクセルで、仮に運転士が意識を失ったり、卒倒してレバーから手を離せば電流が遮断され、自動的にブレーキがかかる。つまりニューソンは衝突のその瞬間までしっかりと運転レバーを握りしめていたことになる。衝突の瞬間、手で顔を覆うこともしていなかった。

 

俄かにニューソンの自殺説が持ち上がり、メディアでも大きく取り扱われた。ところがニューソンの同僚たちは事故当日の朝、ニューソンの様子にいつもと変わった様子はなく、シフト開始直前に「あとでもう一杯紅茶を飲みたいから砂糖を少し残しておいてくれ」と言い残して控室を出ていったことなどを証言した。さらにニューソンのジャケットからは270ポンドの現金が見つかった。娘のために購入する予定だった車の代金の差額だった。ニューソンはこの日のシフト明け、この現金を持って中古車を受け取りに行くことになっていた。そんな日に、人は自殺するものだろうか。

結局、事故調査委は「事故の原因は運転士ニューソンにあったと帰結せざるを得ない。彼の行動が意図的なものだったか、突然の体調不良の結果か、遺体を解剖しても十分な証拠は得られなかった。一方でニューソン以外の人物や電車、線路、そして信号機には何ら事故との因果関係を見いだせなかった」とし、事故原因はニューソンを襲った「突発性の意識障害」という当時耳慣れない病名を用いてミステリーに終止符を打った。

 

事故後、モーゲート駅に設置された自動ブレーキシステム、通称『モーゲート・プロテクション』。
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モーゲート駅での大惨事以降、9番プラットホームには異常を察知して自動でブレーキをかけるシステムが導入された。このシステムは「モーゲート・プロテクション」「モーゲート・コントロール」と呼ばれ、行き止まり(dead-end)路線を持つ全てのターミナル駅に装備された。その後、様々なハイテク技術が導入され、安全性を運転士の経験や五感、心身の健康状態に依存する時代は終わりを告げた。事故発生の可能性がゼロになった訳ではないが、地下鉄運行の安全性は飛躍的に向上した。

 

2013年7月、遺族の要望によりモーゲート駅の北410メートル、フィンズベリースクエアの一角に、事故で亡くなった43人の名前を刻んだモニュメントが建立された。そこには他の乗客と分け隔てなく運転士レズリー・ニューソンの名も刻まれている。(了)

フィンズベリースクエアの片隅に建てられたモニュメント。最近は気に留める人も少ない。
©Japan Journals Ltd

 

参考資料
Essex News: London Underground: What happened in the horror Stratford tube crash / Mirror: Forgotten tragedy of the Stratford Tube crash / London Fire Brigade: The 1975 Moorgate tube crash / Rail Magazine: Moorgate…the unresolved tragedy 他
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週刊ジャーニー No.1279(2023年2月23日)掲載