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●サバイバー●取材・執筆/手島 功

■昨年5月にエリザベスライン(クロスレイル)が開通し、ロンドンの地下鉄網はさらに便利になった。地上の渋滞を気にする必要もなく乗り換えも便利。遅延は日常のことながら大きな事故もなく、比較的安心できる交通機関といった印象がある。しかしロンドンの地下鉄はかつて2度、多数の死者を出す大惨事に見舞われた。その2つの事故を振り返る。

世界初の地下鉄

今から160年前の1863年1月10日、ロンドンで世界初となる地下鉄が運行を開始した。日本ではその4ヵ月ほど前に薩摩藩士が大名行列を横切った英国人らを惨殺する、いわゆる生麦事件が発生した。大名たちが籠や徒歩で移動している時、ロンドンでは既に鉄道が地下にも進出しようとしていた。

開削工法で地下トンネルが掘り進められる1862年頃のキングスクロス駅付近。

最初の地下鉄はパディントン駅とファリンドン駅を繋いだもので、この路線は現在サークルラインやディストリクトライン等に引き継がれている。初期の地下鉄は地上を掘り返してレールを敷いた後に上部を塞ぐ開削工法(cut and cover)が採用されたため、地上から数メートル下の地下を走行していた。

木製の客車を牽引するのは蒸気機関車で、換気のための煙突状換気口が地上あちらこちらに顔を出していた。それでも換気は不十分で地下は機関車が排出する煤煙によって駅も乗客も煤だらけとなった。客車内や駅構内の照明にはガス灯が使われており、各駅のホームが木造だったこともありボヤ騒ぎは日常茶飯的に起きていたとされる。

シールド工法の口径が小さかった頃の車輛(右)。現在のもの(左)と比べると驚くほど小さい。

19世紀末には電気動力式の電車が導入され、煤煙やボヤの問題は一気に解消されて行った。その後、シールド工法が開発されたことで地下鉄はより深い部分に敷設されることになっていく。シールド工法の開発で地下の深い部分を掘り進めるようになり、地上の土地所有者の権利が及ばなくなった。地下鉄発展への最大の障害がなくなった。ただ、マイナス要素もあった。当初はシールドマシンの口径が技術的に大きく出来なかったため蒸気機関車が乗り入れていた開削工法時代に比べてトンネルの口径も小さくなった。当然、電車も小型化を余儀なくされた。

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20世紀に入ると地下鉄建設ブームが起こり、6社が路線拡大にしのぎを削った。しかし協力よりも競争が優先され、それぞれの路線の連絡・連結による利便性は無視。そのため例え近場に駅があっても運営会社が異なれば客は一度、地上に出て再び地下深く潜って別の路線に乗り換えなくてはならなかった。1933年以降は公共機関としてロンドン旅客輸送委員会が創設され、各地下鉄会社はその傘下に入り、以降は公共交通機関への道のりを歩んで行く。

死者を伴う英国初の地下鉄事故は1953年に起きた。「コンピューター」どころか「自動」と呼ばれるシステムがほぼなかった時代に始まった割に以降90年間、大規模な死亡事故が起きなかったのはむしろ特筆に値するかもしれない。

ストラトフォード衝突事故

ストラトフォード駅をレイトン方面に向かって出発すると電車はすぐに地下に消えていく。衝突事故はこの先の地下深い部分で発生した。

地下鉄セントラルライン。リバプールストリート駅から東に3駅目にストラトフォードという駅がある。

2012年に開催されたロンドン五輪のために再開発された町だ。オリンピックパークが建設され、駅前にはウエストフィールドやマークス&スペンサーなどの巨大な商業ビルが建ち並び、バスターミナルには数えきれないほどのバスが行き交うが、かつては東ロンドンに多い寂れた町だった。


1953年4月8日午後6時50分頃。エッピング(Epping)行きイーストバウンドの電車番号「59号」は地上にあるストラトフォード駅を出発。駅を出て間もなくトンネルへと侵入し、その後は急勾配を下って行った。隣のレイトン(Leyton)駅との中間地点手前まで来ると「59号」は赤信号に従って停止した。

この先の信号機が数日前に走行中の電車が接触して破壊され、機能しなくなっていた。そのため各電車は手前の赤信号で一時停止。1分待機した後に時速10マイル(16キロ)という低速で注意深く走行と停止を繰り返す「ストップ&プロシード(Stop and Proceed)」の励行が義務付けられていた。

ロンドン五輪のホームとなり、大発展を遂げたストラトフォードの駅。

午後6時56分。「59号」はトンネル前方で停止していた「71号」の後部におよそ時速20マイル(36キロ)で激突した。追突した「59号」は「テレスコーピング現象」を起こし先頭車両の前部数メートルが「71号」最後尾にめり込んだ。「テレスコーピング現象」とは列車の衝突や追突時に慣性の法則によって車両同士がめり込んだり、食い込んだりする現象のことで、望遠鏡の筒同士がスライドして収納されることからつけられた名称だ。「59号」「71号」いずれも8両編成だったが、損傷が大きかったのは「71号」後部に追突した「59号」の方だった。ちょうど帰宅のラッシュアワー時と重なったため、どちらもシティでの勤務を終えて家路を急ぐ400~500人の乗客を運んでいた。

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運転士の過失

衝突事故から20分ほど経った午後7時15分、ウエストハム消防署のレスキュー隊が現場に駆け付けた。また、近隣の病院から大勢の医師や看護師らも急行した。遠方の消防署から応援の消防車が何台も駆け付け、周囲は騒然とした空気に包まれた。狭くて暗い地下のトンネル内で起きた事故のため救出作業は困難を極めた。

誰もが経験したことのない現場。最終的にこの事故で「59号」の先頭車両に乗っていた12人の乗客が死亡した。子ども一人を含む9人は事故現場で。残りの3人は後に病院で息を引き取った。「59号」の運転士を含む5人が重傷を負った。重傷者は「59号」の先頭車両に乗り合わせていた乗客に集中しており、「71号」の負傷者は41人だったがいずれも軽症だった。

英国民が初めて経験する地下深い真っ暗なトンネル内での列車衝突事故。遺体やけが人の収容が終わり、現場検証が終わると直ちに地下鉄の復旧作業が始まった。全線再開に漕ぎつけたのは事故から2日後、4月10日の午前10時。その間の乗客輸送にはバスが活用された。

直ちに事故調査委が立ち上げられた。「59号」を運転していたのはベスリー(下の名前は不明)という43歳の男だった。運転経験は93日で事故の2ヵ月前に3日間の復習コースを履修したばかりだった。セントラルライン専属の運転士で当日は15時間の休憩の後、午後3時40分から勤務していた。

調べに対しベスリー氏は「事故当時、トンネル内の粉塵が濃く視界は2メートル程度だった。『71号』のテールランプは見えず、『71号』の存在に気付いたのは2メートル手前だった。すぐに急ブレーキをかけたがほぼ同時に衝突した」と証言した。自動停止装置も監視カメラも何もない時代。あるのは信号機程度で、他はほとんど運転士個人の判断や力量に委ねられていた。事故調査委は以下の如く発表した。

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「59号」の運転士は「ストップ&プロシード」規則が求める注意を怠った。衝突時、列車は規則の2倍に相当する時速20マイルで走行していた。粉塵のために「71号」のテールランプが見えなかったとする運転士の主張は信用に値しない、として事故の原因は運転士の過失であると結論付けた。その後、ベスリー氏がどのような処分を受けたのか、残念ながら今回は辿り着けなかった。この凄惨な事故を忘れないようにと2016年、ストラトフォード駅構内にモニュメントが設置された=写真。

12人の死者を出しながら、その後も地下鉄の運行は相変わらず運転士や車掌らの経験や五感に多くを負う日々が続いた。ハイテク技術が導入され、乗客の安全が担保されるに至るまで、地下の神は更なる生贄を欲した。そしてそれは1975年の初春、ロンドンのシティで現実のこととなる。

1975年2月28日

現在のモーゲート駅プラットホーム。

シティのモーゲート(Moorgate)。ムアゲートと発音する人も多いが、実際の発音はモーゲートの方が近い。Moorとは湿地や荒れ地を指す英語で、かつてこのモーゲートや日系企業が多くオフィスを構えるフィンズベリーサーカス周辺はモーフィールド(Moorfield)と呼ばれる沼地だった。そこにシティを囲む壁の門(ゲート)があった。モーゲートだ。1975年当時、モーゲート駅はターミナル駅として今よりも遥かに栄えていた。ノーザンラインはまだ全線が繋がっておらず、この時はノーザン・シティ・ラインが北はドレイトンパーク駅と南はモーゲート駅の間を忙しくピストン走行を繰り返していた。

1975年2月28日金曜午前6時過ぎ、運転士のレズリー・ニューソン(56)はモーゲート駅内の運転士控室に到着した。運転歴は6年。ノーザン・シティ・ラインでの勤務は4ヵ月目に入ったところだった。同僚の間では几帳面で善良な人物として知られ、小さな鞄の中には常に「運転規則」を忍ばせていた。シフトが始まる前に湯を沸かして紅茶を淹れ、持参したミルクと砂糖を入れて啜った。

ニューソンが6時40分発、その日初のシフトのため、控室を出ようとすると同僚が「砂糖を使ってもいいか」と尋ねた。ニューソンは「いいけど、次の休憩でもう一杯飲みたいから少し残しておいてくれ」と言い残して控室を出た。しかしニューソンが控室に戻ることはなかった。

8時46分、モーゲート駅とドレイトンパーク駅を4往復し終えたニューソンが運転士を務める地下鉄がモーゲート駅の9番プラットホームに戻ってきた。6両編成の列車にはおよそ300人の通勤客が乗っていた。特に改札口に近い前方の車両が込み合っていた。

ホームで地下鉄の到着を待っていた人たちはすぐに異変に気付いた。モーゲート駅は終着駅にして始発駅。通常であれば時速15マイル(24キロ)ほどのゆっくりしたスピードでホームに滑り込んで来なければならない。ところがニューソンの運転する地下鉄は時速35マイル(56キロ)という猛スピードでホームに侵入し、そのまま減速することなく長さ20メートルの非常停止用トンネルに突入。バッファー・ストップ(緩衝器)をなぎ倒し、トンネル奥の厚さ1・5メートルのコンクリート壁に激突した。大地を揺るがす轟音が駅中に響き空気を激しく揺らした。金属が激しくぶつかり合う音と共にモウモウとした黒煙が吹き上がった。英国が経験したことのない未曽有の地下鉄事故が発生した。

後編に続く

参考資料
Essex News: London Underground: What happened in the horror Stratford tube crash / Mirror: Forgotten tragedy of the Stratford Tube crash / London Fire Brigade: The 1975 Moorgate tube crash / Rail Magazine: Moorgate…the unresolved tragedy他

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週刊ジャーニー No.1278(2023年2月16日)掲載