
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
■You’ll love it or hate it. 企業が販売促進の宣伝案を練るとき、1人でも多くの消費者に商品を買ってほしいと考えるのが普通。ところが、最初から「嫌われるかも」という謙虚なのか自虐的なのか分からないフレーズをキャッチコピーに盛り込んでいることで知られる商品がある。それが、このマーマイトだ。昨年、生誕120年を迎えた、そのロングセラー商品について、今号ではお送りしたい。
納豆やチーズの仲間
上の写真を見る限り、チョコレート系のスプレッド(パンなどにぬる食品)かと思い込む人もいそうだが、実際には、ふたを開けた瞬間の匂いで「なんだこれ、チョコレートじゃない!」とすぐに分かるマーマイトは、「ビール酵母(イースト)」を主原料としている。このビール酵母は、ビールを作る際にどうしても出てしまう大量の廃棄物として、長年、多くのビール蒸留所を悩ませていた。後述するが、マーマイトはその悩みを解決しただけでなく、栄養素的にも優れている、一石二鳥、いや三鳥ともいえる食品で、「必要は発明の母」の言葉を思い出させる。
ビールは、麦芽(発芽した大麦の種)を煮て作る麦汁を発酵させた飲み物。この「発酵」に深く関わっているのが「酵母」と呼ばれる菌で、文字どおり何かが発酵する際の母体となる微生物、つまり小さな生き物だ。
実は、ワインも酢も納豆も、醤油も味噌もヨーグルトもキムチもチーズも、酵母や乳酸菌のような微生物の活躍がなければ作れない食品。これらの食品は、原料(ワインならブドウ、米酢なら米、納豆なら大豆…など)に含まれる糖分を、微生物がアルコールや炭酸ガスなどに分解する「発酵」という現象を利用して作られ、発酵食品と呼ばれる。
ビールもまた発酵食品のひとつで、麦汁に投入された生きた酵母は、麦汁に含まれる栄養素を食べながら、アルコールと炭酸ガスを出す。そして、このアルコールと炭酸ガスがビールとなり、麦汁の栄養をたっぷり取り込んだビール酵母が、マーマイトの原料になるというわけだ。
120年前の奇跡

マーマイトの原料であるビール酵母は、長い間、処理に困る大量の廃棄物として扱われていたことは先に述べた。しかし、1866年、ドイツ人化学者リービッヒが、ビール酵母を濃縮する方法を開発。これを瓶詰めにし、食品として売り出すことを可能にした。
その後、多くの人々が濃縮ビール酵母の製造・販売に乗り出したが、濃縮ビール酵母は、「食べられる」というだけで、そのままでは決しておいしいものではなく、なかなか売り物として成功する商品は出てこない時代が続いた。
大きな転換点となったのが、1902年。マーマイトの登場だ。
英国でもっとも大量のビール酵母が出る場所のひとつ、ビール蒸留所の集まるバートン・オン・トレントに、マーマイト工場が設置されたのがこの年。とはいえ、最初から順風満帆だったわけではない。というのも、工場では、さっそくドイツ人化学者リービッヒの発明した濃縮法が試されたものの、ドイツのビールと英国のビールでは発酵のさせ方が違うため、リービッヒの方法ではビール酵母の濃縮がうまくいかないことが判明。工場関係者たちは頭を抱えた。しかし、ここであきらめず、試行錯誤を続けた同工場に運命の女神が微笑んだ。それまでとは一味違う濃縮ビール酵母が出来上がったのだ。マーマイトの誕生だった。
その独特の風味が受け入れられ、マーマイトは徐々に認知されていった。さらに、マーマイトの人気を決定づけたのは、1912年、化学界におけるビタミンという栄養素の発見だった。それまでもマーマイトが体にいいらしいということは分かっていたという。しかし、ビタミンとその働きが明らかになったことで、マーマイトがなぜいいのか、どういいのかが、科学的に証明されたのだ。
マーマイトは病院や学校で、健康食品として推奨されるようになった。加えて、戦地では兵士の栄養補給や脚気予防に、マーマイトが活用された。
この120年のあいだにマーマイトの容器の素材やデザインは変わったが、中身はほとんど変わらず、今に至る。現在でも健康食品としての認知度が高く、下は生後3ヵ月から、幅広い年齢層に支持され続けている。
大好きか大嫌いか

2007年、聖パトリックの祝日(3月17日)にちなんで30万個限定で販売された「ギネス・マーマイト」。ギネスのビール酵母が30%含まれる製品で、好きか嫌いか好みがはっきり分かれる個性的な味の2商品のコラボレーションが話題になった。通常のマーマイトより塩辛さは控えめで苦味がやや強い仕上がりになっているとして、大ヒット。
さて、マーマイトをどうやって食べるか―。もっとも一般的なのは、トーストに塗る食べ方。いわゆる食パン(ホワイトブレッドにこだわる人もいるらしい)にバターを塗り、次にマーマイトを薄~く塗る。この「薄~く」というのがポイント。どんなにマーマイトが好きでも、舌に感じる塩けがかなり強いため、ヌテラNutella(チョコレートとヘーゼルナッツのスプレッド)のように、たっぷりと塗る人はそうそういない。実際、マーマイトを薄~く塗ったトーストと、ジャムのようにべっとり塗ったトーストでは、まったく違う味に感じるから不思議だ。
また、マーマイトはサンドイッチの定番の「具」でもある。特に、バター&マーマイトにチェダーチーズをプラスしたサンドイッチが人気のようだ。 この他、スープの隠し味として、鍋料理のアクセントとして使われることも多いという。マーマイトが1902年に売り出された当初は、むしろスープやシチューの味付けに使われることのほうが一般的だった。ちなみに、個人的な使い方ながら、味噌の代わりにマーマイトを溶き、油揚げやワカメを入れれば、味噌汁がわりのスープが簡単に出来上がる。
変わり種として、「スパゲティソースとして使う」「バナナに添える」「ポテトチップスにつける」など、独自の食べ方を実践する人も少なくない。いずれも、マーマイトが、三大旨味成分とされる「グルタミン酸」「イノシン酸」「グアニル酸」のひとつ、「グルタミン酸glutamate」を豊富に含む(100グラム中1960ミリグラム)ことを考えれば納得できる。
そして最後は、バターナイフでは取りきれなかったマーマイトを溶かすため、マーマイトの小瓶に直接お湯を入れ、フタをしてシェイク。それをグイッと飲み干してフィニッシュだ。
世論調査機関「YouGov」が行った調査で、マーマイトが好きと答えたのは33%、嫌いと答えたのは33%、どちらでもないと答えたのは27%(残りの答えは「その他」)という、でき過ぎと思われる結果が出たこともあったマーマイト。これからも、愛され、嫌われながら、英国食文化になくてはならない製品として存在感を放ち続けていくに違いない。
ビタミンBがいっぱい

マーマイトは、ビタミンBを多く含んでいることでも知られる。マーマイトに含まれる栄養素のうちのチアミンThiamin、リボフラビンRiboflavin、ナイアシンNiacin、葉酸Folic Acid、ビタミンB12は、実はすべてビタミンB群に分類される栄養素。それぞれに働きは違うが、いずれも健康を保つのに大切な成分とされている。マーマイトには糖分や脂質がほとんど含まれていない上に、エネルギーの代謝を促進する働きがあるので、ダイエット中にジャム代わりとして使う人もいるという。
また、マーマイトはビール酵母に塩やその他のスパイス、それに野菜のエキスをほんの少し加えて味を調整しただけのものなので、正真正銘のベジタリアン・フードだ。ビタミンB12は菜食だけでは特に摂取しづらい栄養素であるため、マーマイトを貴重なビタミンB12補給源とするベジタリアンが少なくないとされている。
マーマイトに含まれるビタミンB群
8g(1ポーション)あたりの含有量 ※8gの目安はトースト2枚分に塗る程度。

- ●チアミン0.62mg(1日あたりの推奨摂取量の56%) 牛乳や豆類、肉類、緑黄色野菜などにも多く含まれる。不足すると脚気や神経炎を発症する恐れあり。
- ●リボフラビン0.54mg(1日あたりの推奨摂取量の39%) 卵やレバー、アーモンド、緑黄色野菜などにも多く含まれる。皮膚や爪、髪を健康に保つのに不可欠。
- ●ナイアシン5.5mg(1日あたりの推奨摂取量の34%) さばやいわし、鶏のささみ、レバー、豆類などにも多く含まれる。糖質や脂質の代謝に必要とされる。
- ●葉酸100μg(1日あたりの推奨摂取量の50%) 多くの果物、緑黄色野菜、レバーに含まれる。特に妊婦や妊娠を計画している女性に好影響があるとされ、通常の倍(1日400μg)を摂取することが推奨されている。
- ●ビタミンB12 1.9μg(1日あたりの推奨摂取量の76%) 海苔や魚介類、大豆、卵、乳製品にも多く含まれる。不足すると貧血を招く。
マーマイトトリビアあれこれ
この他にも、英女優のケイト・ウィンズレット、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、カナダ人シンガーのブライアン・アダムズなどがマーマイト好きで知られている。
フランスでマーマイトは「La Confiture Anglaise」=「イングリッシュ・ジャム」と呼ばれることもある。
マーマイトは薄毛に効くというウワサがあるのは、皮膚や毛髪を健康に保つというリボフラビンが入っているためであると思われる。
ビール酵母を原材料とするマーマイトだが、アルコールはまったく含まれていない。妊婦さんもご安心を。ベジタリアン、ヴィーガンの人にもOK。ただし、グルテン・フリーではない。また、保存時、冷蔵庫には入れないように。
週刊ジャーニー No.1277(2023年2月9日)掲載