献立に困ったらCook Buzz
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●サバイバー●取材・執筆/手島 功

■1854年8月末、ソーホー地区で発生したコレラは短期間に600人以上の死者を出した末に収束した。医師ジョン・スノウはコレラに汚染された井戸を突き止めてポンプの柄を外し、感染拡大を阻止した。それでも行政はスノウが主張する「飲料水媒介説」を認めず、感染源は澱んだ空気にあると主張し続けていた。

消えたサーモン

19世紀初め、悪臭の原因とされた汚水溜め(肥溜め)が徐々に撤去された。行き場を失った糞尿は下水溝経由でテムズに放出された。産業革命以降ロンドンには工場が乱立し、そこから出る排水等もテムズに流れ込んだ。かつて豊かな漁場だったテムズは荒廃し、1833年を最後にサーモンが遡上することはなくなった。

コレラだけでなく頑迷な医学界や政府と闘い続けたジョン・スノウ医師。

1831年以降、ロンドンは幾度となくコレラに見舞われた。コレラ菌がコッホによって特定されるのは1884年のことで、この時、コレラの原因は悪い空気にあるとする瘴気(しょうき)説が主流だった。コレラは衛生環境の悪い貧困層が多く暮らすエリアで拡大しやすかったこともあり富裕層たちの間では「下層階級者の堕落した生活や徳のない人格に原因があるのだ」と決めつけ、自らの優位性に浸った。

1853年にソーホー地区で発生したコレラではブロードストリートの井戸を中心に周辺住人616名が犠牲となった。医師ジョン・スノウや副牧師のホワイトヘッド、そして教区評議会はコレラの飲料水媒介説に確信を持っていた。飲料水媒介説に関しては公衆衛生局の中にも興味を持つ人物が現れ、メディアでも時々取り上げられるようになった。しかし医学界や役人がこれを認めてしまうと今までやって来たコレラ対策がむしろより多くの人を殺して来たことを認めることになる。そのため飲料水媒介説を徹底的に排除した。

初めは意見が対立したがやがてスノウの協力者となった副牧師ヘンリー・ホワイトヘッド。

この時代、医学はまだ科学の域に達していない。1855年、スノウは議会の席上で糞尿の汲み取り作業や骨拾い、下水狩りなど「不快な産業」を生業にしている貧困者たちを擁護した。彼は統計を元に「コレラなどの伝染病はそうした産業が排出する悪臭が原因ではない。もしも瘴気が原因であれば彼らこそが真っ先にコレラの犠牲になっていなければならない。しかしそうした事実はない」と訴えた。

瘴気論者たちはスノウを「非論理的だ」と非難した。最も辛辣だったのは医学誌「ランセット」だった。「スノウ医師はなぜあのような風変わりな考えに至ったのだろうか。彼は下水を飲むことでコレラに感染すると証拠もなしに主張し続けている。さらに動物や植物の腐敗物から出る気体は無害だと言い続けている。彼は独断に固執するあまり、下水溝の穴にはまって脱け出せなくなっている」とスノウをこき下ろした。人口密度が低く衛生環境が整った高級エリアに暮らす人たちにとって、コレラとはどこまでも他人事だった。そのため下水道の改善は常に先送りとされた。そして遂にそのツケがまわってくる。

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議会も中断する大悪臭

1858年6月。英国は異常な猛暑に見舞われた。2022年の夏も暑く水が枯渇したが、この時の猛暑はそれを軽く凌駕した。6月半ばというのにロンドンでは気温が摂氏48℃、日陰でも36℃前後にまで達した。日照りが続いたためテムズの水位が下がり、川底に堆積していた汚物が一斉に顔を出した。干上がったテムズは大悪臭を放つ巨大下水溝となった。

テムズの荒廃ぶりに衝撃を受けた科学者マイケル・ファラデーは「橋の近くでは汚物が分厚い雲を成して巻き上がり、水面に浮かんでいるのも視認できるほどだ。今や川全体が下水道と化している」と書き、タイムズ紙に送りつけた。

パンチ誌に掲載された風刺画「父なるテムズに手紙を渡す科学者マイケル・ファラデー」。

テムズ沿いの国会議事堂も悪臭からは逃れられなかった。議員らは書類を抱え、鼻にハンカチをあてて議事堂内を走り回った。あまりの悪臭に議会もしばしば中断された。政府業務を一時ロンドン郊外に移転させることが真剣に検討された。メディアは「大悪臭(The Great Stink)」と書き立てた。ある新聞は「我々は地球の果てまで植民地化できる。インドを征服することもできる。しかしテムズを浄化することはできない」と無策な政府を皮肉った。行政がやれることはテムズ河岸に大量の石灰を撒くくらいのことだった。

コレラが悪い空気によって感染するのであれば国会議事堂の議員たちもコレラに感染するはずだった。ところがこの大悪臭の中、ロンドンでコレラ感染者は一人として現れなかった。大悪臭はその後の大雨で収束した。スノウがかねてから危険性を指摘し続けていた下水のテムズ放出。それを陰で笑い、瘴気説を盲信して現実から目を背けて来た役人たちも市民からの激しい抗議にさらされ、重い腰を上げざるを得なくなった。


土木技師ジョゼフ・バザルジェット(Joseph Bazalgette)が起用され、家庭排水と雨水を一気にロンドンの東側に運ぶ下水道建設に乗り出した。ロンドンの人口は300万人に迫り、鉄道網なども敷かれ始める中、地下に複雑な下水道網を新設するのは困難を極め、19世紀屈指の大土木工事となったが1865年、ほとんどが運用可能となった。

毛細血管のように張り巡らされた細かい下水溝。各家庭や工場から出る排水はテムズ南北に埋設した大動脈となる5本の幹線下水道に集められた。それらをポンピングステーションの動力を使って一気にロンドンの東側まで運ぶ。そして集められた汚水をテムズが満潮のタイミングで一気に放出し、引き潮に乗せて外洋に押し流す。ロンドン中心部のテムズは一気に浄化が進んだ。さらに1887年以降は汚物を外洋まで運んで投棄するようになった。ちなみにバザルジェットが建設した下水道は今もほとんどが現役でロンドナーの健康を地下で支えている。

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コレラ、再び

テムズの大悪臭は遂に議会をも動かした。

1866年6月下旬、12年ぶりにコレラがロンドンに舞い戻った。ロンドンの東側にあるブロムリー・バイ・ボウ(Bromley By Bow)に暮らす夫婦がコレラに感染し、数日後に死んだ。その一週間後、イーストエンドでコレラの感染爆発が起こり、8月までに4000人超が死んだ。

この時、積極的に動いたのは公衆衛生局長官のウィリアム・ファーと言う男だった。1853年にブロードストリートを襲ったコレラ禍の際、瘴気説を支持してスノウの前に立ちはだかった男だった。この12年の間に彼なりにコレラを研究し、スノウが主張する飲料水媒介説に理解を示すようになっていた。ファーはスノウに倣って水道会社別に死者の集計を試みた。すると死者の大部分がイーストロンドン社から給水を受けていたことが分かった。ファーは同社と契約をしている家庭に「水は必ず一度煮沸してから飲むように」と警告した。

目に見えない大土木事業をやり遂げたジョゼフ・バザルジェット。

ファーは一つの壁に突き当たっていた。バザルジェットが完成させた下水道は下水が上水と交わるルートを完全に遮断したはずだ。イーストロンドン社も貯水池の水は完全に濾過した上で給水していると豪語している。ファーはバザルジェットに手紙を書いた。すぐに返信があった。「その地域の排水システムはまだ稼働しておりません」と書かれていた。この辺りは土地の高低差の関係で汚水をテムズに放出できず、ポンプの力を借りる必要があった。しかしそのポンプ場がまだ完成していないというのだ。だとしたらやはり水道の水に問題があるのではないか。

ファーは再びイーストロンドン社を尋ねた。疑惑を向けられた同社は「貯水池には新しい覆いをつけた上に取水する際も最新式のフィルターを使用して完璧に濾過している」と断言した。ところが後日、水道の蛇口から生きたウナギが飛び出して来たという苦情が何件も寄せられていることが発覚した。フィルターの信用性は崩壊した。すぐに公衆衛生局の調査が入った。ラドクリフという疫学者が調査主任として任命された。ラドクリフはその数ヵ月前、副牧師ホワイトヘッドが書いたブロードストリート感染爆発に関する手記を読んだばかりだった。ホワイトヘッドに連絡を取り、調査を手伝って欲しいと依頼した。ホワイトヘッドは快諾した。

バザルジェットが推し進めた盛り土(エンバンクメント)下の上下水道構造イラスト図。右はテムズ河。

ラドクリフとホワイトヘッド、そして調査官たちがイーストロンドン社の杜撰な管理を発見するのにさほど時間は掛からなかった。最初に死亡した夫婦の水洗トイレから流された排水が、同社所有の貯水池そばを流れるリー川に流されていたことを突き止めた。そしてそのリー川の水は地下を通って貯水池に入り込んでいた。死者の93%がイーストロンドン社の水道利用者だったことも分かり、同社の水とコレラとの因果関係がほぼ証明された。

翌年、議会でファーはイーストロンドン社を厳しく糾弾した。ファーは瘴気説を盾に反論を続けるイーストロンドン社の代表に「空気はこれまで様々な病気の原因として汚名を着せられ続けて来た。太古より崇拝されて来た父なるテムズとロンドンの水の神たちはその間、声高に無実を訴え続けて来たのだ」と厳しく糾弾した。

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公衆衛生局長官ウィリアム・ファー。瘴気説支持者でありながらスノウの飲料水媒介説にも耳を傾ける聡明さと柔軟性を備えていたのが幸いした。

かつて無実を訴える声に耳を傾けることなく、空気に汚名を着せ続けてきたファーだったが、いつの間にか飲料水媒介説信奉者となっていた。ファーは報告書の中で何事もなかったかのように「これでスノウ医師の考え方は承認された」と記した。スノウの唱えた飲料水媒介説はほとんどの人が認めるところとなった。医学誌ランセットは数週間後、こう掲載した。「コレラの感染ルートを突き止めたスノウ医師の研究は昨今の医学において最も有益なものの一つである。これほど人類のためになる業績はなかろう。スノウ医師は偉大なる恩人であり、彼の功績は衆人の心にしっかりと刻み込まれるだろう」。

1枚の肖像画

スノウが読んだら耳たぶまで真っ赤にして激怒するか、肩をすぼめて苦笑するかのような手の平返しだが、スノウがファーの報告書やランセットの記事に目を通すことはなかった。スノウはテムズが大悪臭を発し始めた1858年6月10日、脳卒中で倒れ6日後に死んだ。享年45。クロロホルムの実験結果に関する論文執筆中のことだった。友人らは、自らモルモットとなり、自宅実験室で麻酔ガスを吸い過ぎたのが死の遠因ではないかと噂し合った。

スノウは世間が飲料水媒介説を認める前に死んだ。ランセット誌にわずか数行の死亡報告記事が掲載された。麻酔薬の権威死去と書かれたが、コレラ研究に関しては一言も触れられなかった。

ホワイトヘッドは1896年に70年の生涯を終えた。彼の自宅書斎の壁にはライバルから後に友人となり、生涯尊敬することになるジョン・スノウ医師の肖像画が飾られていた。

ソーホー地区のブロードストリートは1939年にブロードウィックストリート(Broadwick street)に改名された。ホワイトヘッドが所属した聖ルーカス教会も同年取り壊され、ケンプハウスという商業施設付きの背の高いフラットになった。1853年8月末、感染者第一号となった女児が住んでいたブロードストリート40番地の前には柄を取り除かれたポンプのレプリカが置かれた。そしてその横にあったパブは名前だけが改められ、かつて一瞬にして616人の命を奪った悲劇のストーリーを今に伝えている。パブの名を「ジョン・スノウ」という。(了)

左=スノウ医師の功績を称えるかのように佇むパブ「ジョン・スノウ」。ポンプのレプリカ(オレンジ色枠内)のすぐそばに建つ。
右=ブロードストリート(現ブロードウィックストリート)40番地前に再現された柄の取られたポンプのレプリカ。

参考資料
Steven Johnson著「The Ghost Map」並びに矢野真千子訳「感染地図」
Lee Jackson著「Dirty Old London」他。

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週刊ジャーニー No.1270(2022年12月15日)掲載