●サバイバー●取材・執筆/手島 功

■1831年以降、ついに英国にもコレラが断続的に上陸し、多数の命を奪っていった。当時まだコレラが人を殺すメカニズムが分かっておらず、他の疫病同様、悪い空気を吸い込むことによって伝染すると信じられた。入り口から間違えていたため英国の医学界や公衆衛生界は次第に袋小路へと迷い込んで行く。

死、死、そして死

英国をはじめヨーロッパはペストや天然痘といった疫病に古くから苦しめられてきた。コレラはインドを中心に太古から存在していた。1817年から20年にかけてコレラはトルコからペルシャ、そして日本をも襲った。それでもコレラが英国に到達することはなかった。人々はアングロサクソンの民族的優位性に関連付けて得意がった。しかしそれも長くは続かなかった。

1831年に初めて英国にコレラが上陸すると2年後に終息するまでに2万人を超える感染者を出した。その後もコレラは断続的にやって来ては数百人単位の死者を出したが、1848年から49年にかけて再び感染爆発が起こり、31年の時と合わせて死者数は1万4137人に上った。コレラはいつ、どこを襲って来るのか見当がつかない。この時代の人は常にそうした恐怖の中にいた。そして1854年晩夏、それが現実となる。

ルイス夫妻が暮らしていたソーホーのブロードストリート40番地。全てはここから始まった。

8月28日月曜朝、ソーホー地区ブロードストリート40番地(40 Broad Street)の地上階に暮らすルイス家の生後半年になる女児が突然嘔吐し、水のような便を出し続けた。体中の水分が失われ、やがて米の研ぎ汁状に白濁した便を排泄した。命が燃え尽きようとしている。その二日後、同じ40番地の上の階に住んでいたミスターGが女児と似た症状を発症した。さらに翌木曜深夜から朝にかけて周辺で数百人がバタバタと倒れた。金曜日、女児より先にミスターGの鼓動が止まり、後を追うように十数人が命を落とした。


8人の死者を出したべリックストリート6番地(写真中央)。

べリックストリート6番地(6 Berwick Street)の住人だったハリソン外科医が死んだ。この建物では週末までにさらに7人が死に、同建物の住人で生き残ったのはわずか1人という惨状だった。建物全体が鼻をつく異様な悪臭に覆われていた。ほとんどが激しい嘔吐と下痢による脱水症状を起こし、早ければ発症からわずか数時間、遅くとも48時間以内に死亡していた。典型的なコレラの症状だった。

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若き副牧師

ソーホースクエア近くの下宿にヘンリー・ホワイトヘッドという28歳の青年が住んでいた。ホワイトヘッドはべリックストリートにあった聖ルーカス教会の副牧師を務めていた。人づきあいの良い明るい青年で、聖職者でありながら酒を愛し、近隣のパブをはしごしては住民たちと交流を重ねた。さらに日頃から精力的に街を歩いて住民らと交流していたため、ホワイトヘッドは担当教区住民の顔や名前、職業などをほぼ把握していた。

コレラ発生の報に触れ、見舞い訪問を始めたホワイトヘッドだったが、それはたちまちお悔やみを告げる場と化した。オックスフォード大リンカーンカレッジを卒業したホワイトヘッドは敬虔な聖職者であると同時に探求心旺盛な男だった。通夜巡りをしながらコレラの発生源や感染経路を突き止めようとしていた。

後年のヘンリー・ホワイトヘッド副牧師。

ホワイトヘッドは今回の流行が以前とは様子が少し異なることに気づいた。これまでのコレラはより広範囲で発生していた。ところが今度のコレラはほとんどがソーホー地区、それもゴールデンスクエア界隈だけに集中して起こっているようだった。この時代、コレラの原因は「瘴気(しょうき)」だとされていた。瘴気とは英語でミアズマと呼ばれ、古イタリア語の「悪い空気」が語源とされる。古くはヒポクラテスも唱えたもので医学界の権威ですら、いやむしろ権威たちがそう盲信していたがゆえ、少しでも「瘴気説」に異を唱えようものならたちまち医学界や業界誌から壮絶な中傷を受けた。

我々は今、疫病の多くが細菌やウィルスによるものだと知っている。しかしわずか170年前の人類はまだ細菌もウィルスもはっきりとした目視に至っていない。目に見えぬものは存在しないものとされた。一方、厄介なことに臭いは例え目に見えなくてもその存在がはっきりと確認できた。


この時、世界でも有数の人口密度を誇った悪名高きソーホー地区。汚水溜めからは糞尿が溢れ、フラットの上階に住む住民は窓から汚物を裏庭に棄てた。一般住居の中にすら大量の牛や羊が大量に詰め込まれ、彼らの排泄物や屠殺後の内臓や血、骨などが無造作に捨てられ排水用側溝を詰まらせていた。いわばソーホー地区自体が巨大な汚水溜めになっていた。

そのソーホーでコレラが発生した。リージェントストリートを挟んだメイフェア側に住む富裕層は「労働者階級の堕落した生活がコレラを呼び寄せたのだ」と皮肉った。コレラ菌が宿主の銀行残高を選り分けて襲うはずはなかったが、たまたま今回の発生エリアが、貧困層が肩を寄せ合って生きる場所だったことがこうした偏見に拍車を掛ける結果となった。

メディアもソーホーで進行している惨劇を大きく取り上げることはなかった。そのためソーホーの住民たちは行政からも見放された。ホワイトヘッドは今回のコレラが特異ケースであることに首を傾げながら、それでもコレラの原因はこの辺り一帯に漂う悪臭、すなわち「瘴気」に原因があると信じていた。

ブロードストリートはその後、ブロードウィックストリートに名称変更された。
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ペスト死者たちの怒り

コレラとはコレラ菌を病原体とする経口感染症だ。人が飲み込んだコレラ菌は一部が胃液をすり抜け、小腸を工場として爆発的に増殖する。小腸は必要な水分を取り入れ、余分な水分を排出させるよう制御する臓器だ。コレラ菌はこの体内水分のバランスを保とうとする代謝機能を破壊し、水分を大量に放出するよう仕向ける。最悪の場合、体重の3割もの水分を便として放出させ、宿主を死に至らせる。末期には小腸細胞が薄く剥がれて混じり、便が米の研ぎ汁のように白濁する。宿主が死んでも構わない。小腸に辿り着いたわずか数百万のコレラ菌は2~3日のうちに兆を超えるほどに増殖し、便と共に体外に放出され、次の宿主への侵入チャンスを窺う。

当時の人たちが目にすることはなかったコレラ菌。

メカニズムが分かった現代、対処法は比較的シンプルで、失われた水分と電解質を補給することでほぼ回復すると言われる。当時でも清潔な水を大量摂取することでコレラから回復した人もいたが少数派だった。この時代の人々にとってコレラとは闘う方法が分からない絶望的な病だった。医師すらも治療法が分からず、アヘンが効くとかヒマシ油がいいなど適当な説が新聞や専門誌で真面目に議論された。

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ルイス家の女児がコレラを発症した週の日曜日、世界有数の人口密集地であったソーホーは不思議なほどの静寂に包まれていた。この24時間に70人が死に、さらに数百人が死の淵を彷徨っていた。「先の下水道工事で地下を掘り返した際に、昔ペストで埋められた人たちの霊を起こしてしまったんじゃないか」といった噂がまことしやかに拡散された。賃貸住人の多くは身の回りのものだけをバッグに詰めて早々とソーホーから脱出して行った。残っているのは逃げるあてのない大家か既に家族の中に感染者を出し、逃げそびれた家族だけとなっていた。どの家も窓やドアをしっかりと締め切り、息をひそめた。道行く人と言えば医者か聖職者、そして浮浪者くらいのものだった。

1人の医師

日曜の午後、最初にコレラの症状を発したルイス家の女児宅前に1人の男性が現れた。

コレラ菌と瘴気説に立ち向かったジョン・スノウ医師。

ジョン・スノウ、41歳。

スノウはヨークシャーの労働者階級の家に生まれ、14歳の時に医者に弟子入りした。1831年に英国でコレラが発生した際はニューカッスルの炭鉱で起きた集団感染の生存者を手当てした。スノウは炭鉱労働者の置かれた劣悪な衛生環境を目の当たりにし、瘴気ではなく全く別の何かがコレラを広めているのではないかと思うようになっていた。その後、ロンドンに出て薬剤師と外科医の資格を取るとフリスストリート54番地(54 Frith Street)で開業した。

スノウ医師が最初に開業したフリスストリート54番地。ここで麻酔法の研究が繰り返された。

スノウは口数も少なく社交的な人間ではなかったが地方労働者階級の子がロンドンを目指すだけあって向上心は人一倍強かった。スノウはロンドン大学に進学し医学士の学位を取得。翌年、医学博士の試験に合格し、正式にドクターとなった。その後ヴィクトリア時代の医学で欠けていた麻酔の世界に足を踏み入れた。当時はまだ麻酔法が確立されておらず、外科手術の際、患者は酒かアヘンで気を紛らわせる程度。手術とは想像を絶する激痛を伴う拷問のようなものだった。

スノウはこの頃、アメリカで使われ始めたエーテルに興味を持った。エーテルは患者によって効き目があったりなかったりと不安定だった。スノウは麻酔が不安定なのは室温や容量の差異に問題があるからではないかと疑い、自宅で色々な小動物にエーテルを嗅がせてはデータを集めた。後にクロロホルムを加え、自分をも実験の対象とした。

一定の温度で決められた量のエーテルやクロロホルムを自ら嗅ぎ、目が覚めた時の時間を記録することでどれ位眠っていたかを調べ、各量の麻酔有効時間を丹念に計測していった。そうした努力が実りスノウは麻酔法の第一人者となった。1853年、ヴィクトリア女王が8人目の子を出産するにあたり夫のアルバート公は麻酔による分娩を提案した。担当医に指名されたのはスノウだった。無痛分娩を成功させ、女王を喜ばせたドクター・スノウの名はたちまち医学界に知れ渡った。

麻酔法の研究を通してスノウはある結論に達していた。麻酔は距離が離れれば希釈して効果がなくなる。いわゆる気体拡散の法則だ。悪臭で死んだ者もいない。コレラの正体は「瘴気」ではなく原因は他の物質にある。

スノウが照準を定めていたのは水だった。何らかの作用で飲料水が汚染され、その水を口にした人がコレラに感染して死んでいるのではないか。スノウが立っていたブロードストリート40番地。この前日、ルイス家の女児がドアの奥で静かに息を引き取った。

しかしスノウが訪ねていたのは悲しみに暮れるルイス家ではなく、ルイス家の前にある井戸だった。スノウはこのポンプから地下水を汲み上げると持参したガラス製のボトルに詰めた。地下水は冷たくて清涼感の中にも少し甘味があり、周辺住民に人気の井戸だった。スノウはボトルを鞄に仕舞うとサックビルストリートの新居に帰って行った。

「必ず原因を突き止めて人々の命を救う」―。同じ思いを抱く若き副牧師と医師。目指すゴールは同じだが、原因は汚れた空気にあると信じて疑わない副牧師と、汚染された水が原因だと確信する医師、相容れない2人は全く異なる視点から同じゴールを目指した。ホワイトヘッドは、無口で無愛想で菜食かつ禁酒主義者と、自分との共通点が一つも見いだせないこの風変わりな医師を必ず説き伏せてやると固く誓っていた。

参考資料
Steven Johnson著「The Ghost Map」並びに矢野真千子訳「感染地図」
Lee Jackson著「Dirty Old London」他。

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週刊ジャーニー No.1268(2022年12月1日)掲載