●サバイバー●取材・執筆/手島 功

■アヘン戦争で清国を破り、幕末の日本にも触手を伸ばし始めていた頃の大英帝国。植民地から富を搾り取り、急速に肥大化する首都ロンドンではインフラの整備が追い付かず、行き場を失った人々の排泄物が山のように積み上げられていた。そんな不衛生な環境を疫病が見逃すはずがない。1854年夏、恐ろしい病がソーホー地区を襲った。

真夜中の4人組

深夜1時過ぎ。小さなランタン一つを頼りにロンドンの街中を進む4人組の男たちがいる。ある家の前で止まると、その中の2人がおもむろに地下に降り床板を剥がす。ぽっかりと口を開けた漆黒の穴の中を先頭の男がランタンで照らす。男は穴の中に桶を差し込んで何かをすくい始めた。その桶を受け取った後ろの男が桶に縄を結び付けると上で待機している2人が縄を引いた。地上の2人は桶の中身を樽に移すと再び桶を地下で待つ男に下ろす。

男が顔を突っ込んでいる穴は汚水溜め。彼らがすくって樽に移しているものは住人たちが出した有機性廃棄物、つまりクソや小便だ。こんもりと堆積した部分をすくい終えると、男は持参した梯子を汚水溜めの中に下ろして汚水溜め中に降り、汲み取りは固形物がなくなるまで続いた。作業が終われば今度は地上の男たちの出番だ。彼らは汚物でいっぱいになった樽を積んだ荷車を引いてロンドン郊外を目指す。そこで農民らに芳醇な肥料の素がたっぷり入った樽を渡す。

彼らはナイト・ソイルマン(Night-soil man)と呼ばれ、糞尿の汲み取りを生業にする人たちだ。仕事は過酷だったが、なり手の少ないナイト・ソイルマンの収入は悪くなかった。富裕層宅では回収作業代とは別に寸志としてジンのボトルなどももらえた。

完璧なリサイクルシステム

1863年頃のナイト・ソイルマン。

19世紀中頃、世界中に拡大した植民地から利益を吸い上げ、どす黒い光を放っていた大英帝国の首都ロンドン。古くからの富裕層や新興ブルジョア層などが贅の限りを尽くした遊びに興じる一方、ロンドンにはナイト・ソイルマンを頂点にしてゴミ漁りを生業とするスカベンジャー(scavengers)と呼ばれる貧困層が地べたを這うようにして生活していた。

汚泥の中に宝物を探す泥ひばりの少年たち

トシャー(toshers)は川底をさらって金目のものを探した。彼らが見過ごした小粒なお宝を泥ひばり(mud-larks)と呼ばれる子どもたちが拾い集めてわずかな金に換えた。ボロ採集者(rag-gatherers)は落ちている布の切れ端などを搔き集めて売った。

動物の骨を集める骨拾い屋

動物の骨を拾い集めて売る骨拾い(bone-picker)もいた。骨茹で屋は骨拾いから買った骨を加工して櫛や歯ブラシを作り、茹でた骨から出る脂を石鹸業者に卸した。犬の糞拾い(pure-finders)が集めた糞は皮なめし職人が引き取った。皮に付着した石灰を取り除くのに犬の糞がちょうど良かった。下水狩り(sewer-hunters)は下水溝の中で富裕層が落としたり棄てたりした金目のものを見つけることもあった。しかし2ヵ月に1度ほど下水道に充満したメタンガスにランタンの火が引火して爆発事故を起こした。

下水ハンターと呼ばれる人たち

当時ロンドンでゴミ漁りを生業にしている人は10万人ほどいたと言われる。彼らにしてみれば無駄になるものなど何もなかった。し尿から動物の骨まで全てが金になった。行政が手を下すまでもなく自然発生的にほぼ完ぺきなリサイクルシステムが静かに稼働していた。

19世紀の人口爆発

ペストで死んだ人たちの遺体を埋めたゴールデンスクエア。

大英帝国は世界に先駆けて産業革命を成し遂げ、世界各地に植民地を拡大。金融や商工業で財を成す新興富裕層、いわゆるブルジョア階級が現れた。英国は農業国から商工業立国へと変貌を遂げつつあった。

農民の多くがより実入りの良い仕事を求めて都市に殺到した。19世紀初めには50万人前後と言われたロンドンの人口はわずか半世紀の間に240万人に膨れ上がっていた。人口増加のためにはそれを支えられるだけの食料が供給されなければならないが、この頃は流通網も徐々に整備され始め、ロンドンの外から潤沢に食材が運び込まれるようになっていた。

人口が急増したことで生じたもう一つの巨大な問題に対し議会は見て見ぬふりを続けた。その結果、19世紀中頃のロンドンは世界でも有数の不潔な都市となっていた。それは240万人が毎日待ったなしで生産し続ける排泄物だ。この当時、ロンドンの下水システムはエリザベス1世の時代(16世紀)に建設された粗末なものを依然として使っていた。人口が50万人程度だった頃はそれで良かった。ところが19世紀前半に起こった人口爆発により処理能力が破綻した。新しく開発されたエリアには古い下水システムすらなく、人々は糞尿と共に生活した。

そこにある商品が追い打ちをかけた。水洗トイレだ。1824年ごろに登場した水洗トイレに富裕層が飛びついた。さらに1851年、ロンドン万博の際に水洗式の公衆トイレがハイドパークに設置され、人気に拍車がかかった。ところがこの水洗トイレには大いなる欠陥があった。確かに水で流すことでとりあえず大便は目の前から消えた。にもかかわらず、大便の終着駅はいつもの汚水溜めだった。大量の水で大便を流す構造上、汚水溜めはすぐに満タンとなった。ナイト・ソイルマンが呼び出される機会が急増した。しかし働き手の数は限られている。需要の急増で必然的に賃金が高騰した。

値上がりを富裕層は気にも留めなかったかもしれない。ところが貧困層には死活問題だった。汚水溜めのない建物の上階部分に住む人や、ナイト・ソイルマンを呼ぶ余裕がない家庭では一人一人が簡易便壺を所有し、し尿を裏庭や目の前の通りなどに投げ棄てたり、まとめて汚物集積所に持ち込んだりした。1849年、スピタルフィールズの集積所では大便が家の高さにまでうず高く積まれたまま放置された。

リージェントストリートの恥ずべき痕跡

最低王と呼ばれるジョージ4世、皇太子の頃。

今では高級飲食店やファッション街として世界にその名を知られるようになったウエストエンドのソーホー地区だが、16世紀初めまでこの辺り一帯は家畜の放牧地帯で、牛や羊たちがのんびり草を食んでいた。それをヘンリー8世が王室の所領公園とし、後に一部が民間に払い下げられた。

1665年にロンドンでペストが大流行した。この時7万人以上が命を落としたとされるが、ソーホーフィールド(現ゴールデンスクエア)にも約4000人の遺体が埋められた。ほとぼりが冷めると貴族たちがこの辺りに邸宅を構えるようになり、一時富裕層向けの高級エリアになりかけた。ところが1688年以降、フランスで迫害を受けた新教徒(ユグノー)らがこの辺りに移り住み始めたことで街の様相が一変した。これを嫌がった爵位持ちの貴族らは続々とメイフェアに越していった。

1825年、リージェントストリートが完成した。これは後に「快楽王」「最低王」と評され、死去にあたってタイムズ紙が「これほど死を惜しまれなかった王はいない」と皮肉ったジョージ4世が摂政(リージェント)だった時に建設された。皇太子だったジョージ4世がリージェンツパークで狩猟してから自邸カールトンハウスまで1本で往復できるようにと予算も資本家に丸投げして作らせた大通りだ。設計を担当したジョン・ナッシュは所帯じみないようにと大通りに面した建物に居住スペースを作らせず、高級店を誘致して飲食店は入居させなかった。

メイフェア側から臨むリージェントストリートとわずかに見えるソーホー。

ナッシュはリージェントストリートにあるミッションを与えていた。それは通りの西側のメイフェアを高貴な人々が住むエリアとし、東側、つまりソーホー地区に労働者階級を封じ込めて両者を分断するということだった。ナッシュ自身も「リージェントストリートを上流階級のメイフェアと労働者階級のソーホーとの防疫緩衝地帯とする」と公言していた。こういうことがまかり通る時代だった。

この辺りのリージェントストリートを実際に歩いてみると奇妙なことに気が付く。西側、メイフェア側からリージェントストリートに入り込む道路の道幅は広いが、通りを挟んで反対側、つまりソーホー側には抜けられる道がなかったり、あっても道幅が極端に狭くなっている。これはソーホーの労働者階級がリージェントストリートに容易に出て来られないよう意図的に設計されたものだ。英国が消し去りたくても消すことの出来ない恥ずべき差別史の物言わぬ証人だ。大英帝国の爆発的繁栄を享受していたのは王室や一握りの貴族、そして産業資本家たちで英国人の多くは彼らの贅沢な暮らしを支えるため、わずかな賃金を求めて日夜、地べたを這いずり回って生きていた。

ブロードストリート40番地

現在のブロードストリート(ブロードウィックストリート)。全てはここから始まった。

ナッシュの目論見通り、ソーホー地区に残っていたわずかな貴族たちも三々五々、メイフェアに越していった。かつて貴族たちが住んでいた豪奢なタウンハウスは一部屋ごとに週単位で賃貸されるようになり、全てのドアに表札と呼び鈴が付けられた。

ゴールデンスクエア一帯は次第に貧困層の巣窟と化していった。スラム街は各地にあったがソーホーのスラム化は別格だった。1851年、べリックストリート(Berwick Street)では1エーカー(約4047 平方メートル)に432人が暮らしていた。これはロンドンでも最大の人口密度で世界でも類を見ない混雑ぶりだった。

ソーホー地区では建物の地上階はほとんどが小さな店舗となっていて、食料品店、パン屋、パブ、仕立て屋、機械修理や馬具工場、石工など雑多な店が軒を連ねていた。ただでさえ狭いビークストリート(Beak Street)には物売りが溢れ、地面に商品を並べては道行く人相手に声を枯らしていた。今では若者に人気のカーナビーストリートだが、それと並行して走るマーシャルストリート(Marshall Street)では屠殺を待つ牛や羊が糞尿を垂れ流していた。解体された動物の内臓や骨が無造作に捨てられて排水溝を詰まらせた。不衛生この上ない環境だった。

しかし憐れみの目を向けるべきではない。ソーホーの人々は躍動する大英帝国を支える気概と熱量に満ちていた。この喧騒と混沌を好んだ作家や芸術家らがこの辺りに部屋を借り、街を歩いてはこの時代が生み出す熱量を創作活動に取り込んだ。その中に「クリスマス・キャロル」を書いたチャールズ・ディケンズや「資本論」の著者カール・マルクスもいた。

1840年の暮れ、ブロードストリート(現Broadwick Street)40番地にトマス・ルイスという若い警察官と妻のサラが越して来た。夫妻には男児が出来たが生後11ヵ月で死んだ。1854年3月、サラが女児を出産した。名は分からない。8月28日月曜午前6時。ルイス家の女児が突然嘔吐した。さらに緑色の水っぽい便をした。便は鼻を突くような臭いを発した。しばらくして医者が駆け付けた。

医者の到着を待つ間、サラは汚れたおしめをバケツに溜めたぬるま湯につけて洗った。そしてそのまま地下に行き、汚水溜めに湯を捨てた。これが全ての始まりだった。ソーホーに悪魔が舞い降りた。数日後、ドミノ倒しのように一帯の人々がバタバタと斃れ、ソーホーはたちまちゴーストタウンと化してゆく。

参考資料 Steven Johnson著「The Ghost Map」並びに矢野真千子訳「感染地図」Lee Jackson著「Dirty Old London」他。

週刊ジャーニー No.1267(2022年11月24日)掲載