●サバイバー●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■ベーカー・ストリート駅に隣接する、ロンドンの観光名所のひとつ「マダム・タッソーろう人形館(Madame Tussauds)」。ハリウッドスターやミュージシャンのほか、英王室メンバーや歴史上の人物たちの姿が、そのままそっくり等身大のろう人形で再現されており、その「作品」は人気に合わせて常時入れ替えられると同時に、今なお増え続けている。今回は、この「ろう人形館」の創始者であるマダム・タッソーの波瀾万丈な人生の後編をお届けする。

前編はこちら

借金苦で国外へ

フランスを脱出し、英国へ渡ってきた頃のマリー。40歳で故国を離れ、二度と戻ることはなかった。

ギロチンによる王党派の公開処刑の嵐が吹き荒れる中、「フランス国王一家との親しい関係」を理由に、逮捕・投獄されたマダム・タッソー(タッソー夫人)ことマリー・グロショルツだったが、獄中で積極的に首を斬られた「反逆者」たちの頭部をろう(蝋)で再現し続けた結果、無事に釈放され生きながらえることができた。

ところが、まもなく保護者でろう人形制作の師匠でもあったフィリップ・クルティウスが死去。ろう人形ビジネスをすべて引き継ぐことになってしまった。未婚の女性が事業をひとりで営むことは困難を伴い、また王政の終焉とともに始まった恐怖政治によって、いつ命を失うかわからない日々におびえながら過ごすのは精神的にも厳しい。1795年、33歳になっていたマリーは26歳のエンジニア、フランソワ・タッソーと結婚する。「タッソー夫人」の誕生である。

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タッソーは、フランス革命が勃発する数年前にブルゴーニュ地方からパリに上京して来た金属工で、7人兄妹の長男だった。いくら市民が台頭して来た時代とはいえ、ヴェルサイユ宮殿でルイ16世や王妃マリー・アントワネットと暮らしていたマリーにしては、意外な相手ともいえる。だが、タッソーはクルティウスのもとで働いていたことがあり、長く顔見知りであったことは確かだ。この結婚でマリーは3人の子どもを出産するが(長女は生後6ヵ月で死亡)、夫はひどいギャンブル狂で、マリーは苦労を重ねることになる。ろう人形の制作展示を続けるために借金をこしらえ、一時は男性向けのエロティックな人形を制作し、糊口をしのがなくてはならないほどだった。

金策に困ったマリーは、動乱が続くフランスを逃れ、国外でのろう人形展示巡回ツアーを考えはじめる。フランス国内では政治がからみ、展示できない人形が多かったことも理由のひとつであった。そんな時に出会った人物が、マジック・ショーの興行師ポール・ド・フィリップスタルだ。


英国で会社設立

フィリップスタルとともに英国巡業ツアーへ出ることを決めたマリーだったが、その契約は彼女にとってひどく不公平なものであった。すべての旅費は自費で賄うほか、興行で得た金額の半分をフィリップスタルに支払わなければならなかった。しかし、ほかに伝手がなかったことから断腸の思いで契約したマリーは、長男を連れ、2歳になる次男と夫、年老いた母親を残して英国へ出発する。1802年のことである。

当初の予定では、金策のメドがつき、フィリップスタルとの契約が終了次第、マリーはパリへ戻るはずだった。まさか二度と故郷の地を踏むことが叶わなくなるとは、想像しなかったことだろう。

当時ナポレオンは欧州他国を相手に戦争を仕掛けており、マリーの渡英時、英国とフランスは束の間の休戦状態にあった。ところが、同年に両国間の戦いが再開。夫や家族との手紙のやり取りさえ満足にできないまま、英国中をツアーしながら数年を過ごした。フィリップスタルとの理不尽な契約を解消し、自分の会社を設立しようと決意したのは、英国に来てから6年が経った1808年のこと。これを機に夫のタッソーとも離婚したが、協議の結果、クルティウスから相続した財産は夫のものとなってしまう。だが、新天地で新たな人生を歩み出したマリーはためらわなかった。設立した「Madame Tussaud & Sons'」という会社名は、マリーが今後も英国で生きて行く決意を表していたといえよう。

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ろう人形館オープン

1835年、ベーカー・ストリートのポートマン・スクエア近くに「ろう人形館」がオープンしたことを伝えたフランスの新聞記事。マリーの死後、1884年に現在の場所へ移転した。

会社を創業しても生活は大きく変わらず、その後30年近くもの長きにわたり、英国内での巡業を続けた。サーカス団と行動をともにする中で、展示物の数は次第に増えていき、目玉だったフランス革命期の人物に加えて、英国の敵であるナポレオン、当時の英王室メンバーや英国の英雄たちがつくられ、行く先々で好評を持って迎えられた。

しかし巡業の旅は体力が勝負である上、移動は作品にも損傷を与える。やがて74歳を目前に控えたマリーは限界を感じ、巡業ツアーからの引退を決断。

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1835年、ロンドンのベーカー・ストリートにあった高級ショッピング街「バザール」内に常設展示場「マダム・タッソーろう人形館」を建設する。夢のような「非日常的空間」を作り出すことを目指し、これまで稼いだ大金をつぎ込んだ。そしてパリを出た時以来、別れ別れになっていた次男も呼び寄せ、ろう人形の制作技術を受け継いだ長男と3人で人形館を運営していく。

オープンから5年が過ぎた1840年には、ろう人形館の評判と人気はマリーの母国フランスへも伝わり、元夫がマリーに手紙を書こうとしたところ、「宛名は『マダム・タッソー、ロンドン』だけで着くでしょう。有名な方ですからね」とロンドン在住のフランス人の知人に告げられ、大きなショックを受けたという

さまざまな権力が入れ替わる中、長く険しい道をたくましく生きた一人の女性のサバイバル・ストーリーは1850年4月16日、静かに結末を迎える。享年88。老衰により、ロンドンの自宅で眠りながら息を引き取った。

マリーの死後は、2人の息子や孫たちによってビジネスはさらに拡大。現在では家族経営から離れ、「ディズニー」に次ぎ業界世界第2の規模を誇る欧州会社「マーリン・エンターテインメント・グループ(Merlin Entertainment Group)」の傘下に入っているが、その昔、若いマリーがクルティウスとともに「人々が見たいと思う姿」をつくり出していくことをモットーにした精神は今も脈々と受け継がれ、人気スターたちが日々生み出され続けている。

マリーが埋葬された教会「St Mary's Cadogan Street」。右側身廊の壁にメモリアル・プレートが飾られている。
©John Salmon
マリーが住んだ家として唯一現存する建物(24 Wellington Road, London NW8 9SP)

ろう人形、どうやってつくってるの?

© Madame Tussauds London

一体のろう人形をつくるのに、20人からなるチームが制作に携わるが、それでも約4ヵ月もの期間を費やしている。人形は等身大のサイズで制作するため、実際にモデルとなる人物やスターの身長のほか、体の隅々まであちこち測ったり、各部を様々な角度から写真撮影したりと入念な準備が行われる。

人形の原型となるのはアルミニウムなどのワイヤーで、そこに新聞紙や粘土で肉付けしていく。つくられた人型は石膏によって型取りされ、そこに蜜ろうと植物性のろう(Japan Waxと呼ばれる)をミックスしたものが流し込まれる。これは、マリーが人形制作を行っていた200年前から続く方法だという。

© Madame Tussauds London

目の色や口紅などの化粧は水彩絵の具で着色され、髪の毛やヒゲは人工ではなく、本物の人間の髪を使用。そのため、埃を落とすためにクシで髪をとかすだけでなく、なんと洗髪も必要だという。実は、展示していたアドルフ・ヒトラーの髪が以前より伸びているのをスタッフが発見したという、オカルトまがいの逸話も残されている。

また衣装に関しては、本人から寄付されたオリジナル、あるいはそれが難しい場合は、全く同じ物をデザイナーから取り寄せるなどして、リアリティを重視。これもマリーの時代から続けられている。衣装は定期的にクリーニングに出しているため、年に何度か服装が変わっている。

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週刊ジャーニー No.1266(2022年11月17日)掲載