最初にウィルソンが静かに逝った。バワーズも後を追うかのように神のもとへと召されていった。
 スコットは、隊長としての義務であるかのように最後まで生きた。もう何日、続いているのだろう。相変わらず凶暴なブリザードが激しくテントを叩き続けている。
 スコットの吐く白い息が次第に小さくなってゆく。無念であった。1トンデポまでわずか18キロ。そこには潤沢な物資がスコットたちの帰りを待っている。
 スコットの故郷、デボンシャーの草原は柔らかな風に揺れ、春の到来を告げるクロッカスが蕾をつけているころであった。スコットは、持参していたブラウニングの詩集を開き、神の寵愛を受けるべき人物を称えた一節を繰り返し目で負った。

 決して敵に背を見せることなく、胸を張って前進し、雲間の切れることを確信し、正義の敗るることあるも、悪の勝利を夢想だにせず、倒るるは立ち上がらんがため、挫折はよりよき戦いのため、眠りはまた目覚めんがため

 一瞬、満足そうな表情を浮かべると、遠ざかる意識の中、スコットは凍傷で腫れあがった左手を横で眠る盟友ウィルソンの寝袋の上にそっと置いた。そして数回瞬きをしたかと思うとゆっくりと目を閉じ、そのまま深い眠りに落ちていった。
 1912年3月29日、スコット極点隊、全滅。


3人の遺体発見現場に捜索隊が作った墓。
スコット、ウィルソン、バワーズの3人は今もここに眠る。



アムンセン死す


晩年のアムンセン
 1912年11月12日。夏の到来を待って出た11人の捜索隊が1トンデポの先、18キロの地点で雪に埋もれたテントを発見、スコットを中心にウィルソン、そしてバワーズの3人の遺体を確認した。スコットの左手はウィルソンの寝袋にそっと置かれ、右手にはブラウニングの詩集が握られていた。3人とも穏やかな表情をしていたのが何よりの救いであった。隊員らはその場でスコットの日記を読み、極点隊に何が起ったのかを知った。捜索隊はその後、オーツの遺体を捜索したが遂に発見することはできなかった。
 隊員らは3人の遺体をそのままテントで包み、その上に雪をうず高く積み上げ、最後にスキーで作った十字架を立てた。
 スコットら5人の壮絶な遭難死はやがて英国本土にも伝えられた。同じ年の4月14日、つまりスコットが息を引き取った日からわずか15日後、大西洋では巨大客船タイタニックが氷山に激突して沈没。英国はこの年、歴史に残る二つの悲劇に見舞われた。

 さて、アムンセン。
 この人は、15歳の時から北極圏探検に憧れ、生涯をこれに捧げてきた。北極点目指して準備しているまさにその時、アメリカ人探検家ピアリーに先を越され、やむなくその矛先を南極点に変更。ここでスコットら英国隊と大レースとなりその結果、南極点一番乗りを果たした。しかしそれは皮肉なことにアムンセンの心を満たすものではなかった。彼の心は少年時代と何一つ変わらず、北極点にあったのである。
 1925年、船を飛行艇に替え、彼は北極点を目指したが燃料切れで失敗。翌年、今度は飛行船で北極点を目指し、これを成し遂げた。ここについにアムンセンは、世界で初めて南極点と北極点の両方に到達した人間となった。
 彼の極点への旅はこれで終わるはずであった。
 ところが1928年6月、3年前の飛行船旅行で一緒だったイタリア人が再び北極点行に挑んだ末に遭難したとの報がアムンセンの元に届けられた。
 アムンセンが救助に行くのではないか…。世界の目が彼に注がれた。確かにこの時代、この任務を成し遂げられそうな人物は、アムンセンをおいて他にいなかった。
 アムンセンは飛行艇に乗り込み、北極圏に向けて飛び立った。人々がアムンセンを目撃したのは、この時が最後となる。その後、飛行艇は消息を絶った。捜索の末、ノルウェー北部の都市、トロムソの沖合いで飛行艇の残骸だけが発見された。アムンセンの捜索が国を挙げて展開されたが、遺体が見つかることはなかった。
 北極点に世界最初に辿り着いたピアリーの名前を、覚えている人は少ない。しかし、南極点に最初に到達したアムンセンと、そのレースに敗れて死んでいったスコットらのことは、恐らく多くの人が記憶している。スコットは壮絶な遭難死を遂げることで、スコット自身やその仲間たち、そしてライバルであるアムンセンの名をも永遠のものとした。
 スコットとアムンセン。二人の魂がどこかで会えば、互いの健闘を称えあうのかそれとも罵りあうのか。しかし二人は、例え天国においてすら遭遇することを嫌がるかのように、南極大陸と北極圏という、地球上最も遠いところで今も静かに眠っている。