オーツの悲しい決断

 3月8日。1トンデポ手前のフーバーデポに到着。ここから1トンデポまで100キロ。相変わらずオーツのペースにあわせたゆっくりの前進が続く。気温はこの1週間、零下40℃程度で推移している。疑う余地はない。予想より早く冬が来てしまったのだ。
 3月15日。オーツの頭の中はエバンスの最期の悲惨な姿でいっぱいになっていた。最強の男と言われたエバンスが最初に斃れた。朦朧とした意識の中でエバンスは歩き続けたものの、隊は著しく行進速度を落とし、それがこの窮地の直接要因となっているのは明らであった。たった1人陸軍から参加したオーツ。陸軍軍人のプライドに賭けて、極点隊全滅の原因となるわけにはいかない。オーツはスコットに「明日の朝、自分を寝袋に入れたまま置いていって欲しい」と懇願した。スコットは微かに笑みを浮かべ、首を横に振るだけであった。オーツはその晩、自分にだけは朝が来ないことを祈りながら眠った。
 16日の朝、オーツは目を覚ました。まだ生きようとしている頑丈な自分を呪った。同時に、どうやら安らかな死は望めないことを悟った。外気は依然、零下40℃を下回っているだけでなく、猛烈なブリザードが狂ったようにテントを叩き続けている。
 「ちょっと出てきます。少し長くなるかもしれません」
 オーツはそう言うと一人テントを飛び出し、凍傷の足を引きずりながら駆けた。その姿を吹雪がすぐにかき消した。スコットらは後を追うことすらできなかった。
 オーツは3人を生かすため、自らの命を神の前に差し出した。32歳の誕生日前日のことである。
 昨年秋のデポ作戦で、オーツは足手まといとなった馬を全頭射殺してでも南緯80度まで進むべきだとスコットに進言した。しかしスコットは馬の殺生を嫌い、その結果1トンデポは79度29分の地点に置かれた。もしもオーツの主張するように80度まで進めていたら、オーツを含めた4人は既に潤沢な食糧と燃料を手にしている位置関係であった。
 3月21日。オーツが自らの命を犠牲にしてまで救おうとしたスコットら3人だったが、残念ながら遅きに失した。生還への扉は刻一刻と閉じられていく。残された3人の手足も凍傷にやられ始めていた。特にスコットの右足がひどい。
 強烈な逆風に行く手を阻まれる中、3人は何とか1トンデポ手前、18キロの地点に辿り着いた。
 零下44℃。相変わらず暴れ狂うブリザードに全身を打たれながらやっとのことでテントを設営する。そのまま彼らの『墓標』となるテントであった。
 スコットの右足は、もはや患部を切り落とす必要があるほど悪化していた。残された食糧はあと2食分、燃料に至ってはわずかに1食分。
 24日、バワーズとウィルソンが1トンデポに食糧と燃料を取りに行こうと試みる。しかし逆風のブリザードに阻まれ、断念せざるを得なかった。そしてとうとう食糧も燃料も底を尽き、生還への扉は完全に閉ざされた。
 助かる可能性がなくなったあとも、この屈強な男たちは一週間近く生きた。前年11月1日に基地を出発して以来、およそ5ヵ月もの間、ひたすら氷点下の中に身を置いているのである。特にこの3月に入ってからの3週間は零下40℃の氷の世界に閉じ込められている。すさまじい体力と精神力であった。しかし死は、もはや免れようのない現実として目の前に迫っていた。

 律儀なスコットは、手が動くうちにと数通の遺書をしたためた。世話になった人々へのものとは別に、ウィルソンの妻とバワーズの母親に宛てて2通。そこでスコットは2人がいかに優秀で愛すべき人間であったかを丹念に語り、そして無事連れて帰れそうにない現状を詫びた。さらに1通、祖国に残してきた妻に宛ててしたためた。3年半という短い結婚生活ではあったが、2人の時間がどれほど豊かで、満たされたものであったかを伝え、まだ2歳半の一人息子、ピーターの将来を案じた。そして最後に、将来、2人の人生を託すに足る男性が現れたなら、私のことは良き思い出に変えて、どうか再婚して欲しい、と記した。「親愛なる妻へ」と題して書き始めた遺書だったが、書き終えてスコットはあえてそれを消し、改めて「親愛なる未亡人へ」と書き直した。生真面目なスコットの、妻への最後の思いやりであった。
 スコットはもう1通だけ遺書を残した。それは「国民」に宛てられたものだった。その中でスコットは、英国隊はあらん限りの英知を尽くし、南極点到達に向けて怒涛の進撃を続けるも数々の不運に見舞われ、ここに力尽きる。隊員たち一人一人は祖国の名誉のために、どれほどの犠牲を払って奮闘したかを力説した。もとより死は覚悟のこと。今は黙って神の前に頭を垂れるのみとしながらも最後に、祖国の名誉のために働き、志半ばで死んでいった隊員たちの遺族を、くれぐれもよろしく頼みます、と2度にわたって念を押した。

 3月29日朝、スコットは辛うじて日記を書き、それを他の手紙などと一緒に頭の下に置いた。あとは神に全てを委ねるだけでよかった。
 命の灯火が吹き消される瞬間がきた。



スコット、最期の日記
"We shall stick it out to the end but we are getting weaker of course
and the end cannot be far,
it seems a pity but I do not think I can write more
- R Scott - Last Entry For God's Sake look after our people"
「最後まで頑張り通すつもりだが、身体は刻々と弱っていく。
終わりはそう遠くない。残念だがもう書けそうにない。R.スコット。
最後に、どうか我々の家族を頼みます」