不運は単独でやって来ない

 スコットらは、静かに帰還の途についた。仲間が待つ基地まで約1500キロ。勝負に敗れて改めて見るその数字は、復路では絶望的に大きな数字に映った。
 しかし彼らは急がなくてはならない。11月1日に基地を出発してから既に2ヵ月半が経過していた。3月には秋となり、じわじわと寒気が押し寄せてくるのである。
 1月24日。2週間前に食糧と燃料を設置した1度半デポまで辿り着いた。そこで一行は異変に気づいた。
 「燃料が減っている」
 燃料を入れたブリキ缶を密閉させるために本国で開発された革の止め具が零下30℃という気温に締め上げられて破損し、中の燃料が揮発しているのである。
 燃料はストーブとなってテントの中を温め、凍結した乾燥肉を融かし、ホットチョコレートを沸かす。生命維持のために必要不可欠な命の液体であった。スコットは身体の奥の方から、経験したことのない重苦しい不安が湧き上がってくるのを感じずにはいられなかった。
 しかしこの時、燃料の揮発よりもさらに深刻な事態が迫りつつあった。
スコットがバワーズにスキーを置いていくよう命じた12月31日、ソリの修理をしていたエバンスは、誤って手にケガを負っていた。大ケガではなかったが、極地ではこれが命取りになることがある。しかしスコットはこれを軽視した。”エバンスは並外れた体力の持ち主“という固定観念が、用心深いはずのスコットの思考を停止させていた。エバンスの傷口が凍傷という実にやっかいな敵の餌食となるのに、そう時間はかからなかった。
 エバンスは一刻も早く、自分が凍傷に侵されていることをスコットに告げるべきであった。ところがエバンスはこれをしなかった。いや、できなかったのであろう。
 エバンスは象すらぶん投げてしまいそうな体力を見込まれて極点隊に抜擢されていた。だから最初に音を上げるわけにはいかない。さらに極点隊はウィルソンを除き、全て軍人で構成されている。その中でエバンスだけが階級を持たない水兵であった。軍隊という絶対的階級社会にあって水兵の立場の者が自らの体調不良を理由に、全軍のスピードを緩めさせるわけにはいかないのである。
 エバンスの凍傷は日に日に全身を蝕んでいく。それでもエバンスは耐えた。耐えに耐えた。異変に気づいた仲間が声をかけても「大丈夫です」としか答えない。事態はさらに悪化した。壊血病の症状が出始めていた。壊血病とはビタミンCの欠乏により、脱力感や体重減少が起こり、毛細血管が脆弱になり、全身の歯肉や関節内などに出血が起こる。さらに傷口の治癒を遅れさせ古傷をも開かせる、放っておけば死に至る恐ろしい病だ。

 1月30日。スコット隊は大氷河のてっぺんに辿り着いた。ここから下山が始まる。メンバーを急に一人増やしたことでいよいよ食糧の底が見え始めていた。この日、スコットは食糧の配給制限を命じた。凍傷と壊血病、そして食糧不足のトリプルパンチは巨人エバンスを倒すに十分であった。エバンスは目に見えて遅れはじめた。その分、隊全体が遅れていく。さらに悪いことにエバンスは転倒したはずみで後頭部を氷の塊にしたたかに打ちつけてしまった。脳震盪を起こしたエバンスは意識混濁し、意味不明のことを口走るようになる。
 エバンスはもはや助からない。誰の目にも明らかであった。
 2月17日。エバンスの靴が何度もスキーから外れ、その度に一行は不必要な休憩を余儀なくされた。スコットもさすがにイラついた。「ちゃんとスキーを履いてから来い」ときつく言い、先を急いだ。しかしいくら待ってもエバンスが降りてくる気配はない。4人が引き返してみるとエバンスは雪の中で倒れていた。スコットらは急ぎテントを張り、エバンスを収容したが、もはやエバンスに生き続ける気力も体力も残っていない。間もなく息を引き取った。巨人の最期とは案外あっけないものであった。4人はエバンスの遺体をその場で荼毘に付した。
 残った4人も急がねばならない。食糧も燃料も底を尽きかけているのである。
 スコットが最も頼りにしていたソリ曳きが最初に逝ったのは大誤算だった。エバンスは殺しても死なない男のはずだった。エバンスを失った今、ソリのスピードが一向に上がらない。そんな中、オーツが凍傷にやられていることを打ち明けた。直前に人員を一人増やした報いが、次々と真綿のようにスコットらに絡みつき、ゆっくりとその首を絞め始めているかのようであった。
 不運とは、決して単独ではやって来ない。この頃、スコットらが最も恐れていたものが、彼らの後をヒタヒタと追いかけている。予想より遥かに早く訪れた寒気であった。そしてその寒気は今、まさにスコットらを捉えようとしていた。
 3月1日。基地を出発して4ヵ月。本来なら旅を終えているか、基地近くまで戻っていなければならない頃である。しかし4人はまだ氷河の中腹に築いておいたデポにいた。ここで食糧と燃料を掘り起こし、何とか餓死せずに済んだ、と胸を撫で下ろした。
 エバンスがいなくなったことで当初の予定通り4人となった一行は久しぶりにストーブを全開にし、少し広くなったテントの中を十分に温め、たっぷりと食事を取った。彼ら4人が堪能した、最後の温かなひとときであった。
 この夜、スコットらを追っていた巨大な寒気の渦がとうとう追いつき、4人が眠るテントの上に舞い降りた。
 気温がグングン下がっていく。3000メートルの氷河を半分以上降りてきたことで零下18℃にまで上昇していた気温がこの晩、零下40℃にまで急降下した。
 早朝、一行は先を急いだ。時間との戦いに敗れれば、それは即ち死を意味するのである。
 オーツの手足は凍傷が進み、既に鼻も耳も色がどす黒くなっている。足の指先は壊死しているようだった。素人目にも危険な状態であることが分かる。グローブのように腫れ上がった手で靴を履くのは至難のことで、毎朝それだけで1時間半を要した。オーツは次第にソリを曳けなくなり、3人の後を必死で追いかけるだけとなっている。向かい風の嵐に阻まれ、走行距離も極端に落ち、この辺りの行程は1日7~8キロ程度にまで落ちていた。オーツにも最期の時が近づいていた。


基地に向けてソリを曳く隊員たち


ウィルソンがスケッチしたテント内の風景