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デポ作戦でのつまずき

 1911年。1月4日、最初に南極大陸に辿り着き、荷解きをしたのはスコットたちであった。スコットらは英国の南極遠征隊が伝統的に基地としていたロス島のマクマード湾に錨を下ろした。科学者らを含む隊員15名と馬19頭、そして犬30匹の大陣容である。
 ここから直線距離で1392キロ。この惑星の地軸である前人未踏の地、南極点を目指す。氷河超えやクレバス(氷河などに出来た深い氷の割れ目)の迂回などを考慮すると走行距離は往復で3000キロを超えることになる。
 一方、アムンセンはスコットの縄張りを荒らさぬように細心の注意を払い、全く別の、かつ南極点に最短となるポイントを探していた。最終的にクジラ湾にある頑丈そうな氷床の上に基地を設営することに決めた。スコットの基地は陸地に設営されたが、アムンセンの基地は海に浮いた分厚い氷の上であり、用心深いスコットならまず選ぶことのないポイントだった。スコットの基地との距離は約600キロ。相手が今、何をしているのか、知りたくとも知りようのない距離が置かれた。氷の上という不安は拭えないものの、南極点までの距離は直線で1271キロと、スコットの基地よりも120キロほど極点に近いという利点がある。さらにこの辺りはアザラシが多数生息し、新鮮な肉が隊員たちの体力と健康維持に大きな役割を果たすことになる。
 日本最北端の町、稚内から沖縄県の石垣島までが直線距離で約2800キロだ。これに近い距離を、一般的な冷凍庫の中よりもさらに低い気温の中、携行食料だけを頼りに走破しようというのである。しかも途中、海抜3000メートル級の大氷河や、数え切れないほどのクレバスも待ち構えている。気楽な温泉旅行とは少々様子が異なることは誰の目にも明らかだろう。
 ここで、南極点到達までの双方のスケジュールを見てみることにする。
 両隊が南極に到着した1月とは、南極の真夏にあたる。従って気温は標高の低いところでは零下20℃を割り込む、かなり温かい日が続く頃である。
 これから冬が到来する3月末までの間に、デポ作戦が行われる。その後、冬の間はそれぞれ、気象や海洋の調査をしたり、旅の準備や訓練にあてられたりし、本格的な極点到達の旅が始まるのは次の春以降、つまり1911年10月以降で気温が上昇し、大気が再び緩んできた頃となる。
 デポ作戦とは、夏の間に出来る限り多くの食料や燃料を持って奥まで進み、前線基地を築いていく作業をいう。
 極点への往復旅行は実走距離にして約3000キロ。計算上、3ヵ月から4ヵ月を要する大旅行である。当然ながら物資の途中補給は一切望めない。従って全ての物資は自分たちで運ばなければならず、食料だけでも相当な重量となる。そのため予め、大量の物資を可能な限り前の方まで先回りして持って行き、貯蔵しておく必要がある。これをデポと呼ぶ。



 そのデポ作戦にスコットは失敗した。
 スコットのデポ作戦は隊員13名が馬ソリ8台(馬8頭)、犬ゾリ2台(犬26匹)によるものだった。ニュージーランドで仕込んできた満州産のポニー(小型の馬)たちはろくに調教も済んでおらず、体力にも性格にもばらつきがあり、操縦に難渋した。デポ作戦の途中3頭の馬を失い、最低限の目標と定めた南緯80度にも辿り着けず、その56キロも手前にデポして帰還せざるを得なかった。ちなみに、緯度は赤道が0度で、極点が90度である。北極は北緯90度、南極は南緯90度。1度は100キロメートルを意味し、分、秒はそれぞれ60進法で表記される。
 貯蔵してきた物資の重量からここは「1トンデポ」と呼ばれる。馬担当のオーツ大尉はスコットに「足手まといの馬を全部射殺して、最低でも80度ラインまでデポを進めるべきだ」と進言した。しかしスコットは馬の射殺には消極的だった。その晩、オーツは日記に「今日のこの妥協を、後悔する日が来るような気がする」と記した。
 オーツは正しかった。
 一方のアムンセンは北極であろうと南極であろうと、極点制覇の鍵を握るのは犬であると心得、グリーンランド産のエスキモー犬を大量に連れてきていた。その数116匹。
 調教が施されていないエスキモー犬とは、とてつもなく獰猛かつ好戦的でむしろ野生の狼に近い。それを過酷な環境下で重労働に耐えさせるためには相当な厳しさと覚悟をもって調教する必要があった。人間への絶対服従こそが、美味しいエサにありつける唯一の方法である、と骨の髄にまで記憶させるのである。それが成功した場合のみ、犬たちは氷上を猛スピードで駆け抜ける高速ソリの原動力となり得た。
 かつて北西航路を拓いた際、アムンセンはエスキモーたちと寝食を共にし、様々な体験を通して極地に必要な知識と知恵を身につけていた。防寒具として英国隊が採用した牛革製品よりも、アザラシの毛皮に有益性を見出した。そしてエスキモー犬と出会った。アムンセンは、凶暴だが主従関係をはっきり認識させることに成功した暁には嘘のように従順となり、極めて有能なソリの曳き手に変身するこの獣に全てを託すことにした。
 ちなみに北西航路とは、ヨーロッパから北極圏と北米大陸の間を抜けて太平洋に出るルートのことである。また、北極圏とロシアの間を通って太平洋に出るルートのことを北東航路といい、17世紀初めから英・蘭・仏などが必死になって求めた航路のことをいう。当時は世界の南側の海域はほとんどが海洋先進国のポルトガルとスペインに押さえられていたため、後発の諸国は危険を冒してでも、北西、北東ルートを開発する必要があった。挑戦はことごとく失敗に終わり、多くの軍人や探検家たちが遭難し、落命した。その北西航路を初めて通過して帰ってきたのがアムンセンである。1906年のことであった。

 アムンセン側のデポ作戦は首尾よく進められた。3月末まで、3回に分けて行われたデポは80度、81度、82度まで進み、さらに欲張って83度を目指したが、秋と共に襲ってきたブリザードに阻止され、仕方なく80度デポに1・25トンのアザラシの肉を追加して戻った。
 結局、アムンセンの高速犬ゾリ隊は開始からわずか1ヵ月半の間に、南緯82度まで進み、3つのデポに合計3トンの物資を運ぶことに成功した。スコットが1ヵ月をかけ、馬3頭を失いつつ、わずか79度29分1ヵ所に1トンの物資を配置して帰ったのとは雲泥の差である。
 双方のデポ作戦は終了した。アムンセンは満足のうちに。スコットは不満と不安のうちに。
 スコットも自らが率いる大規模な馬ソリ部隊が、コンパクトなアムンセンの犬ゾリ隊に比べて、スピード面で随分見劣りがすることは十分に理解していた。
 しかし、たった一つの真実が、スコットに微かな自信を抱かせていた。アムンセンらが進むルートは、何が待ち受けているか皆目見当のつかない前人未到のルートとなる。ところがスコット隊は、かつてシャクルトンが攻略した88度33分、すなわち南極点からわずか160キロまでのルートをそのまま踏襲して行ける。全ルートの8割がたが既に開発済みであった。スコットはこのアドバンテージに賭けていた。
 4月末から8月末の約4ヵ月の間、南極には全く太陽の光が注がない冬が訪れる。この間、それぞれ与えられた使命、スコット側は科学調査に、そしてアムンセン側は犬の調教と訓練、そしてソリ、テント、防寒具、雪眼鏡など、あらゆる必要品の改良に時を費やした。
 そして8月も末となり、南極に太陽が戻り始めた頃、いよいよ両隊とも極点到達の旅に向けての本格的な準備を始めた。


スコット最後の誕生日を祝う英国隊隊員たち。奥中央に座るのがスコット。