面白過ぎる英国史 ヘンリー8世、5番目の妻キャサリン・ハワード 19歳王妃の転落劇【前編】
キャサリン・ハワードが夢のような時間を過ごしたのち、転落していく舞台となったハンプトンコート宮殿。

■1542年2月13日午前7時。まだ暗闇が去らないロンドン塔敷地内をゆっくりと進む一団がいた。ホワイトタワーの北側に辿り着くと、一人の若い女性が恐怖に顔を歪めながら処刑台へと続く階段を上り始めた。キャサリン・ハワード。生涯に6人の妻を娶ったチューダー朝の怪物王ヘンリー8世、5番目の妻だ。彼女は間もなく首を刎ねられる。わずか19歳にして処刑されたキャサリン王妃。彼女の身に一体何があったのか。その短い生涯を追う。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

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ヘンリー8世(在位1509~47)。生涯6人の妻を娶り、そのうちの2人を処刑。処刑されたのは、いずれも政敵第3代ノーフォーク公の姪だった。

キャサリン・ハワードは1523年頃、ノーフォークの大貴族ハワード家に生まれた。父エドマンドは第2代ノーフォーク公の3男。父が死ぬと長兄トマスが全家督を継いだため、エドマンドを含む他の兄弟姉妹たちの生活は困窮を極めた。次男以下の男子は自力で立身出世を志し、女子は富裕な貴族に嫁ぐことが重要なビジネスだった。 第3代ノーフォーク公となった長男トマスは宮廷内でハワード家のプレゼンスを高めようと、ブリン家に嫁いでいた妹の娘2人を宮廷に送り込んだ。首尾よくヘンリー8世は姉のメアリーを気に入り、愛人として囲った。


第3代ノーフォーク公(トマス・ハワードThomas Howard, 3rd Duke of Norfolk / 1473~1554)。古くからの大貴族。大変な野心家でカトリックの熱心な信奉者であったため王室とたびたび衝突した。

ヘンリーがメアリーに飽きたとみるとノーフォーク公はすかさず妹のアンを宮廷に招聘した。ヘンリーはアンのフランス宮廷仕込みのウイットや巧みな恋の駆け引きに翻弄され、愛人にならないかと迫った。棄てられた姉の姿を間近で見ていたアンは「愛人ではイヤ」と首を縦に振らなかった。決して身体を許さぬアン。巧妙に焦らされ続けたヘンリーは離婚を決意し、アンと結婚した。これがヘンリー8世2番目の妻で、エリザベス1世の生母アン・ブリンだ。

ノーフォーク公はたちまち王妃の伯父となり、アンが王太子を産み、その子がキングとなればハワード家は絶大な権力を握ることとなる。立身出世マジックだった。ところがこれを面白く思わない勢力によりアンは謀略に巻き込まれ、反逆罪等で有罪となり処刑された。冤罪だったがアンは愛娘エリザベスを守るために判決を受け入れ、イングランドの繁栄を祈りつつ断頭台に散った。

ヘンリー8世2番目の妻でありエリザベス1世の生母でもあるアン・ブリン(Anne Boleyn / 1501または1507~36)。男子さえ生んでいれば策謀に巻き込まれて処刑されることもなかったかもしれない。
ヘンリー8世3番目の妻、ジェーン・シーモア(Jane Seymour / 1508~1537)。王太子エドワード(後のエドワード6世)を産んだが、出産後すぐに産褥熱で死亡した。


その後、3番目の妻となったジェーン・シーモアはエドワード王太子を産んだ直後に産褥熱で死去。ヘンリーの側近らはプロテスタントであった神聖ローマ帝国ベルク公ヨハン3世の娘、アン・オブ・クリーヴスとヘンリーとのマッチングを敢行。1540年1月、2人は結婚。アン・オブ・クリーヴスはヘンリー8世4番目の妻となった。

一方、ノーフォーク公はこのアン王妃の侍女として、もう一人の姪を送り込むことに成功した。それが本稿の主役、キャサリン・ハワードだ。

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宮廷へ

ヘンリー8世4番目の妻、アン・オブ・クリーヴス(Anne of Cleves / 1515~1557)。婚姻はすぐに無効とされたが、王の妹として最後まで生き延びた。

ヘンリーが新妻のアン・オブ・クリーヴスを愛することはなかった。その理由は事前に渡されていたアンの肖像画と本人の顔がかけ離れていたとか、入浴する習慣がなかったアンの体臭がきつ過ぎたとか、ヘンリーの下半身がアンに全く反応しなかったなど、歴史家の中で今も議論は尽きない。そこに突然、17歳の健康美溢れる可憐なキャサリンが現れた。貴人としての素養乏しい無邪気な若い娘だったが、若葉のような鮮烈な色香にヘンリーは夢中になった。

新婚の身でありながら熱烈なラブレターと共に高価なジュエリーやドレスなどをキャサリンに贈りつけた。周囲は「また始まった」と呆れたが、どうせいつもの火遊びだろうと高をくくっていた。キャサリンは王からの手紙と贈り物を受け入れた。この時ヘンリー49歳。3番目の妻ジェーンを失って以降、暴飲暴食が加速してブクブクと肥大化。体重は180キロに迫っていた。また、若い時にふくらはぎを美しく見せるため、ガーターをきつく縛り付けていたことにより発した潰瘍が悪化し、肉が腐ったような悪臭を放っていた。キャサリンはこの32歳も年上の怪物王を受け入れた。
キャサリンの吸いつくようなきめ細かな肌にヘンリーは溺れた。アンでは反応しなかった下半身もすっかり機能が回復した。

キャサリン・ハワード(Catherine Howard / 1523?~1542)。生年は諸説ある。キャサリン・ハワードとされてきたこの肖像画も本人かどうか今も不明だという。

ヘンリーには世継ぎとなる嫡男がエドワード一人しかいなかった。エドワードに何かあれば残る世継ぎは最初の妻との間に生まれたメアリーか、アン・ブリンとの間に生まれたエリザベス、いずれも女子しかいない。イングランドはそれまで女王を頂いたことがなかった。人が簡単に死ぬ時代。何としてもあと数人、男子が欲しかった。しかし愛人に産ませた子は庶子とされ、王位継承が認められない。ヘンリーはキャサリンを妻にすると決めた。

ローマ教皇に破門されてまで自ら英国国教会の首長となったヘンリーが、カトリックの有力貴族ノーフォーク公の姪を王妃に迎えるなど自ら災いを家中に引き入れる行為だったが、ヘンリーはこれをやった。離婚が難しい時代、アン・オブ・クリーヴスは「かつての恋人との婚約が解消されていなかった」と難癖をつけられ、婚姻自体が無効とされた。帰国を望まなかったアンは「王の妹」とされ、生涯イングランドで過ごすこととなる。

こうしてキャサリンはヘンリー8世の5番目の妻となった。ヘンリーがキャサリンを見初めてからわずか半年と言うスピード婚だった。これまでの王妃と違い教養といえば読み書きができる程度。政治的野心も宗教への関心もなかった。形ばかりのままごと王妃が誕生した。

夢のような日々

アン・ブリンが、ジェーン・シーモアが踊ったこのハンプトンコート宮殿大ホールで、キャサリンも毎日のように踊ったと言われる。

わずか17歳の新イングランド王妃。周囲は仕方なく祝福したが陰では冷ややかな目を向けた。アン・ブリン以来、再び姪っ子をクイーンの座につけることに成功したノーフォーク公らハワード家の人々が4年ぶりに大手を振って宮廷内を闊歩するようになった。

大貴族から聖職者まで、イングランドを支える立派な大人たち全てが17歳の王妃にひれ伏した。見たこともない豪勢な肉料理や果物、スイーツ類がテーブル狭しと並べられた。ヘンリーに抱かれる一時さえ我慢すればあとは同年代の取り巻きと終日、楽しく過ごしていれば良い。フランス風のドレスやジュエリーなど、望むものは全て与えられた。踊りが得意だったキャサリンは、かつてヘンリーの先妻たちも舞ったハンプトンコートのグレートホールで毎晩のように踊った。

キャサリンに与えられた最大の使命はエドワード王太子のスペアを産むこと。健康で多産の家系に生まれたキャサリンにとって、懸念材料は何一つなかった。貧しい貴族の娘に突然降って湧いたシンデレラストーリー。キャサリンには眩いばかりの今日と光り輝く明日しか見えていなかった。

しかし転落のきっかけを運んできたのは彼女自身の黒い過去だった。

明かされる過去

ヘンリー8世の右腕として英国国教会創設に暗躍したカンタベリー大主教トマス・クランマー(Thomas Cranmer / 1489~1556)だが、ヘンリーの死後、カトリック教徒のメアリー女王によって処刑された。

結婚から1年後の秋。ヘンリーの片腕、カンタベリー大主教トマス・クランマーの元に密告文が届いた。差出人はジョン・ラッセルズ。ラッセルズにはメアリーという妹がいた。貧しい貴族の家庭に生まれたキャサリンは5歳の時に口減らしのため、サセックスにあった初代ノーフォーク公の未亡人である祖母宅に預けられた。そこには貧しい貴族の子どもたちが預けられ、大勢で共同生活を送っていた。監視の緩い女子寄宿舎に夜ごと忍び込んで来る男たちがいた。15歳のキャサリンもヘンリー・マノックスという30代の不良音楽教師から性的な悪戯を受けた。祖母に知られるところとなりキャサリンはテムズ河畔にあった祖母の別邸ノーフォークハウスへの移動を命じられた。そこにメアリー・ラッセルズがいた。

クランマーがしたためた匿名の告発文が、ヘンリーが席を外した隙にそっと玉座に置かれた。

ノーフォークハウスに移るや否や、祖母の秘書官を務めていたフランシス・デラムという男と恋仲になり、夫婦同然の関係となった。嫉妬したマノックスは祖母に2人の関係を密告。激怒した祖母はデラムにアイルランドに行くよう命じ、2人の間を引き裂いた。「戻って来たら一緒になろう」。そう言い残し、デラムはノーフォークハウスを後にした。キャサリンに伯父のノーフォーク公から呼び出しがあったのはデラムを見送った直後のことだった。宮廷入りするとたちまちヘンリーに見染められ、寄宿舎を出てからわずか半年後にキャサリンはイングランドのクイーンとなった。

デラムが帰国するとキャサリンは既に王妃となっていた。デラムはキャサリンに接近し「俺にそれなりのポストを寄こせ。さもなければお前の過去をばらす」と脅した。キャサリンは仕方なくデラムに私設秘書の肩書を与え、自らのそばに置いた。ラッセルズの密告はこの寄宿舎時代のキャサリンの奔放な異性交遊、そしてかつての恋人が今もキャサリンのそばにいることを告げる内容だった。

驚いたクランマーはラッセルズの妹、メアリーを召喚し問い質した。メアリーは怯えながら全て事実だと認めた。

罪深き秘密

キャサリンがヘンリーを探して駆けたという廊下がハンプトンコート宮殿に今も残されている。

カトリックであるハワード家の存在が宮廷内で拡大していくことに危機感を抱いていたクランマーは、これを機にハワード家一掃のプランを練った。

すぐに事の仔細をまとめ匿名の告発文を書き上げた。そしてヘンリーが席を外した隙を見て、告発文をさりげなく玉座に置いた。告発文に目を通したヘンリーはたちまち激怒し、側近らにすぐさま調査せよと命じた。宮廷内ではデラムやハワード家の人々が次々に逮捕された。キャサリンは理由を一切知らされぬまま、たった一人の女官と共に自室に軟禁された。キャサリンは訳が分からず困惑するのみだった。

ところがデラムがロンドン塔に連行されたと聞かされ、事態の深刻さを知った。この期に及んでもキャサリンは「デラムとは結婚前のこと。顔を見て話せばきっとヘンリーは分かってくれる。愛しい私をきっと許すはず」と信じていた。キャサリンは監視の目を盗んで部屋を飛び出し、「ヘンリー。陛下」と叫びながら夫を探し、狂ったように廊下を駆けた。これだけなら婚姻の無効化と宮廷からの追放だけで済むかもしれなかった。しかしこの時キャサリンは、さらに罪深い救いようのない秘密を抱えていた。

後編へ続く

週刊ジャーニー No.1256(2022年9月8日)掲載