メンズファッションの改革者 洒落者
ボー・ブランメル 後編
ピカデリー・アーケード前に建てられたブランメルの銅像。
ジョージ・ブライアン・ブランメル(George Bryan Brummell、1778-1840)

ヨーロッパにファッション大変革をもたらし一躍時代の寵児となった「洒落者ボー・ブランメル(本名:ジョージ・ブライアン・ブランメル)」。その着こなしは極めてシンプルで清潔感に溢れ、品格すら備えていた。ファッションアイコンとして大スターの座を射止めたブランメル。しかし、転落の時は意外と早くやって来た。理想とする紳士像に到達するために貫いたブランメルのダンディズムが、彼自身を破滅へと追い込んでいく。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功


アルマックス・ハウス

「アルマックス・アセンブリー・ルーム」があった、キング・ストリート 28番地に立つ近代的なビルは「アルマック・ハウス」と名付けられている。

18世紀中頃、ウィリアム・アルマック(William Almack)という男がメイフェアのカーゾン・ストリートにコーヒーハウス「アルマックス」を開業した。その後、セント・ジェームズ宮殿まで徒歩数分のパルマル49番地で同名のタヴァーン(食堂)を開いた。場所柄、多くの貴族や宮廷関係者たちが同店を訪れた。1762年、アルマックはタヴァーンに隣接する50番地を借り上げ、そこで私的な淑女たちの集まりの場、アルマックス・クラブを立ち上げた。やがて男女が参加できるライバルクラブが人気となりつつあったためアルマックス・クラブも男性の受け入れを始めた。

この時代、貿易や工場経営などで巨万の富を得た産業資本家たちが台頭。有り余る金に物を言わせて上流階級の真似事をするようになっていた。所領の賃貸料など不労所得で生活する貴族やジェントリといった上流階級にとって、労働で成り上がって来た泥くさい新興資本家は、決して同列で語られたくない疎ましい存在だった。そのため彼らはブルジョア階級が逆立ちしても入れない排他的な「私的クラブ」を歓迎した。アルマックス・クラブはすぐに上流階級の社交場となり、大人気のため次々と別館やライバルクラブが誕生した。アルマックス・クラブは男女混合の社交の場として大いに繁栄し、ロンドン最大級のクラブとなった。

当時のアルマックスの様子を描いたもの。ラトランド公爵夫人と会話するボー・ブランメル(左の黒いスーツ姿の男性)という注釈がある。
アルマックスでクヮドリール(quadrille)を踊る若者たち 。

アルマックス・クラブには厳しい人数制限と入会資格が設定された。特に後にキング・ストリートにできた「アルマックス・アセンブリー・ルーム」は集まりを主催するパトロネス(女性パトロン)が発行する招待状「アルマックス・ヴァウチャー」を持つ人しか入場が許可されず、パトロネスも招待客リストを厳格に管理した。

男女が密着する社交ダンス(ballroom dance)がキリスト教の倫理観からまだ受け入れられていないこの時代、男女が4組のペアとなって踊るクヮドリール(quadrille)という可憐なダンス様式が大流行した。集うのは上流中の上流とされる層が多かったためクラブはたちまち良縁を求める子女たちで溢れ、激しい婚活の場となった。小説「高慢と偏見」の著者ジェーン・オースティンはまさにこの時代に生き、この時代の風潮を描いた。ブランメルは中産階級の出だったが皇太子のお気に入りということもありこうしたクラブに出入りが許された。それどころかブランメルが来ると分かると何とかして当代きってのセレブリティに接近したいと願う貴族の令嬢や、ファッションを参考にしたい貴族の子息たちがクラブに押し寄せた。どのクラブもブランメルをクラブに招待したがった。この時、ブランメルはまさに時代の寵児であり、インフルエンサーであり、社交界の大スターだった。

皇太子との断絶

体形が立派になり過ぎた皇太子ジョージを描いた、1792年頃の風刺画。

1810年、国王ジョージ3世が精神錯乱状態となり執務不能となった。英国には君主の「退位」という慣例がない。従ってこういう場合は皇太子を摂政(リージェント)に据え、国王崩御の瞬間まで執務を代行するのが古くからの習わしだ。ところが皇太子ジョージは度を越したドラ息子で、父に内緒で離婚歴あるカトリック教徒の女性とこっそり結婚していただけでなく、数えきれないほどの愛人、そして天文学的な借金を抱えては父王や議会に尻ぬぐいをさせた。若い頃からの不摂生が祟り、体重も優に100キロを超える巨漢となり、人々は陰で嘲笑した。

議会はこの放蕩王子が摂政になることに難色を示したが、他に代案も提示できずこれを渋々承諾。1811年、皇太子ジョージは摂政となった。この時から1820年にジョージ3世が崩御し、ジョージ4世が誕生するまでの約10年は摂政時代(リージェント・エラ)と呼ばれる。

ちなみにジョージ4世はこの摂政時代にロンドン北部にあった狩猟場に新しい宮殿を作ろうと草原を整備させ、自邸カールトンハウスから狩猟場まで一本で行ける大通りを作らせた。しかしその後、既に購入してあったバッキンガム公の邸宅を宮殿にアップグレードすることが決まったため新宮殿建設計画は頓挫。整備した草原は公園となり、摂政に因んでリージェンツ・パークと命名された。また、狩猟場から自邸までの一本道のショッピング街は後にリージェント・ストリートと呼ばれるようになった。ブライトンにはインドやイスラム、中国を混ぜこぜにした悪趣味なロイヤルパビリオンを建設。財政を度外視した大型建設ラッシュに議会も国民も眉をひそめた。

ジョージ3世の容態が悪化してから皇太子ジョージの摂政就任が決まるまでの間に、ブランメルと皇太子の間に大きな亀裂が入る出来事が起こる。ある日、ブランメルが友人らと共にクラブ内で立ち話をしているとそこに皇太子がやって来た。皇太子はブランメルらに近づくと友人らに声をかけた。ところが皇太子はブランメルを無視してその場を立ち去った。

これに腹を立てたブランメルは友人に向かい皇太子にも聞こえるほどの大声で「おい、君が挨拶したあの太っちょは一体誰だい?」と尋ねた。クラブ内は静寂に包まれ、友人をはじめクラブ内は凍り付いた。次期国王は一瞬足を止めたが、振り返ることなくその場を立ち去った。この時なぜ皇太子がこのような態度に出たのかは分かっていない。一説には摂政という責任ある立場になるに伴い、過去の交友関係を清算しようとしていたのではないかとする説があるがよく分かっていない。いずれにしてもこのようにしてブランメル最大のパトロンであった皇太子との蜜月は突然、終わりを告げた。

ダンディズムの限界

ブランメルのお気に入りだったジェントルマンズ・クラブ「ホワイツ」の出窓、ボウ・ウインドウ。

摂政ジョージとの関係は断たれたが、上流階級の間では依然としてブランメル人気は衰えていなかった。有力貴族の子息らと遊ぶうちにいつしかブランメルはギャンブルにはまった。父の死で得た2万ポンドという遺産は職人の年収の400倍もあったが、大貴族らと対等に遊ぶにはあまりにも些少過ぎた。やがてブランメルは数々の貴族から借金を重ねるようになった。貸す方も「あのブランメルさんに金を貸している」ということが一種のステータスとなり、時代の寵児と親しそうに会話をしているところを他者に見せつけることで気分も高揚した。借り先を見つけるのにさほどの苦労はなかった。ブランメルはこの期に及んでも一切働く気はなく、ひたすらファッションへの投資とギャンブル、そして借金に明け暮れた。時には1晩に1万ポンド負けることもあり、借金は60万ポンドにまで膨れ上がった。多重債務者でありながらブランメルの大柄な態度(rudeness)が改められることはなかった。やがて気の利いたウイットでも不遜さを打ち消すことはできなくなり、横柄さだけが際立つようになり、人々の不興を買うようになっていった。

1816年のある日、ブランメルはセント・ジェームズ通りの、トーリー党影の本部と言われていたジェントルマンズ・クラブ「ホワイツ(White's)」にいた。グラウンドフロアにある湾曲した出窓、ボウ・ウインドウ(bow window=長弓の窓)に置かれた席がブランメルのお気に入りで、そのためこの窓はボー・ウインドウ(beau window)と呼ばれていた。ブランメルが去った後はウォータールーの戦いでナポレオンを破ったウェリントン公のお気に入りとなった。

借金が一向に返されないことに業を煮やしたリチャード・マイヤーと言う男がこの「ホワイツ」でブランメルに借金の返済を迫った。ブランメルがこれを冷たくあしらうとマイヤーはクラブにいた全員に聞こえるような大声で「皆さん、この男に金を貸している方は要注意です。この男は借金を返済する気など微塵も持っておりません」と叫んでブランメルを糾弾した。ブランメルに莫大な金を貸し出していた人らは青ざめた。たちまちブランメルを取り囲んで真意を確かめようとした。ブランメルは振り切るようにしてクラブを飛び出した。後日、ブランメルに債務者監獄行きの決定が下された。ブランメルを糾弾したマイヤーは「ダンディー殺しのディック(Dick the Dandy-Killer)」として歴史に名を刻むこととなる。

洒落男の最期

たった1枚だけ残されたボー・ブランメルの全身画。

ブランメルはわずかな現金を握りしめ、夜陰に紛れてドーバーまで行き、そこから船でフランスのカレーへと向かった。夜逃げだ。そこで安アパートを見つけ、フランス語の勉強を始めた。ブランメルは借金からの逃亡に成功したが、病は彼を逃さなかった。

ブランメルは梅毒に犯されていた。1830年、かつての友ジョージ4世は、窮地に陥っていたブランメルに北フランスの港町カーン総領事の職を与えた。働くということは彼の主義に反したが、この職を受けることでブランメルは少しずつ借金の返済をすることができるようになった。ジョージ4世は旧友に救いの手を差し伸べた数ヵ月後に世を去った。

しかしわずか2年後、ブランメルがより多くの報酬を求めたことで議会の怒りを買い、総領事職は廃止、再び無収入となった。1835年5月4日、滞在先のホテルに無賃宿泊で訴えられ、債務者監獄に投獄された。ブランメルは最も悪環境と言われた独房入りを自ら希望し、誰と会う訳でもないのに毎朝、独房内で数時間をかけて身だしなみを整えたと言われる。ブランメルは同年7月21日、刑期を終えて出所した。

梅毒がいよいよブランメルの身体をキリキリと締め上げ始めた。激しい痛みに襲われ、幻覚を見、鬱症状を発し、最後は廃人同様となって精神病院に収容された。そして翌1840年3月30日、乞食のような格好に身をやつしていたブランメルは、誰にも看取られることなく異国の地で一人静かに生涯を終えた。

享年61。

権力と労働を嫌い、身だしなみに全財産どころか他人の財産まで投じた。浪費とギャンブルを愛する者が辿り着く終着駅は破滅。最後までダンディズムを貫いた洒落男の見事なまでの野垂れ死にだった。

ブランメルの生き様はその後の英国紳士像に少なからずの影響を与えた。ヴィクトリア朝時代、上流階級の男性たちはウール素材の質やポケットのフラップ(蓋)、コートの折り返し角度、手袋の色、革靴の光の反射具合といった細部にまでこだわった。自らが追究した服装に無限の苦痛を感じながらも、その見返りとして他人から認められることを選択した。他人の目にどう映るかを最大限気にかけているにもかかわらず、見てくれには無頓着であることを装う「やせ我慢」の文化がニヒリズムなどと結びつき、英国紳士の本質の一部となっていく。(了)

週刊ジャーニー No.1235(2022年4月14日)掲載