食もアートもファッションも、新しい文化はいつも南からやって来た。文化はコピーされながら北上した。しかしブリテン島に辿り着くとほとんどの分野で途端に野暮ったくなった。19世紀初頭、イングランドのファッションに大変革が起こり、英国発祥の新スタイルが大陸に南下した。現代のファッションにも繋がる約200年前の大変革の元を辿ると、たった一人の英国人に辿り着く。
●サバイバー●取材・執筆/手島 功
この物語の主人公ジョージ・ブライアン・ブランメル(George Bryan Brummell)は1778年6月7日、ロンドンで誕生した。父ウィリアムは菓子屋の店主から地方議員の侍従となった祖父の勧めで財務省入りし、1770年から12年間首相を務めたノース伯爵の私設秘書官に抜擢された。政治の世界から引退した父親はバークシャーに大邸宅を購入。中産階級の仲間入りを果たした父ウィリアムだったが、上昇志向はここで終わらない。息子たちにジェントルマン以上にジェントルマン然とした立ち居振る舞いを要求した。この時代、英国では階級社会に変化が生じ始めていた。貿易で富を成した者や産業革命により莫大な財を築いた産業資本家ら、いわゆるブルジョワ階級が急速に台頭し始めていた。豊かさでは貴族やジェントリを凌駕する者すら出現し、経済の中心はブルジョワ階級に移りつつあった。
これと並行して1789年から隣国でフランス革命が起こり、王室や貴族が打倒され、経済だけでなく政治にも民主化の波が及んでいた。これは英国貴族にとって衝撃的な出来事であった。平民が貴族になるのは難しいが、金さえあれば誰でも上流階級の真似事ができた。貴族やジェントリ階級といった従来の上流階級はこういった新興の、鼻持ちならない成金ブルジョワ階級と同一視されることを嫌った。そのためより一層、階級による住み分けが重要視されつつあった。
イートン校のファッションリーダー
父ウィリアムは中流から上流へとさらなる高みを目指すため、3人いた息子たちのうち、ウィリアムとジョージ(以下、ブランメルと記載)の2人を名門イートン校に入学させた。貴族や上流階級の子息が学ぶイートン校でブランメルは生徒たちが首に巻いていたクラヴァットと呼ばれる白いスカーフにピカピカの金製バックルをあしらうなど、独自のファッションセンスを披露した。ブランメルの着こなしは決して派手ではなく、むしろシンプルなものだったが清潔感と品格が滲み出ていた。
また、究極のナルシストだったが、ジェントルマン然とした落ち着いた話しぶり、そして会話の中にさりげなく散りばめられた独特の皮肉とウィット(機知)は話す相手を魅了し、平民階級の出身でありながら校内で大変な人気者となった。このイートン校在校中、後に即位してジョージ4世となる皇太子ジョージと出会ったとされる。皇太子はブランメルの洗練された身だしなみにいたく感心したと言われる。
ブランメルはオックスフォード大学オリオルカレッジに進学した。16歳の時、父ウィリアムが他界した。兄弟らは父の邸宅を6万ポンドで売却し3兄弟で均等に分けた。職人の年収が50ポンド程度だったと言われる時代。ブランメルは16歳にして職人一人の400年分という莫大な遺産を手に入れた。もっともブランメルが成人するまで、遺産は後見人が管理するよう取り決められた。
ブランメルは大学を1年で中退し、皇太子の招きにより皇太子直属の近衛第10騎兵隊に入隊した。隊員のほとんどが貴族やジェントリの跡継ぎ息子たちで、ブランメルは彼らが将来手にする財産と比べると自分の遺産が決して多い訳ではないことを知った。皇太子お気に入りということもあり、わずか18歳で大尉に昇進。しかし翌年、第10騎兵隊にマンチェスターへの異動が命じられると「この街には文化がない。退屈だ」と言ってさっさと除隊し、ロンドンに舞い戻った。実際は皇太子との交流機会が失われるのを恐れたためと言われる。
洒落者ボー・ブランメル誕生
1799年、21歳になったブランメルはようやく父親の遺産を手に入れ、メイフェアのチェスターフィールド通り4番地に居を構えた。そしてロンドン一の伊達男となることを目指すようになった。思惑通り、皇太子との親密な交流は続いた。
社交界にデビューするとブランメルはたちまちファッションアイコンとなった。
18世紀末、上流階級男性のファッションはフランス宮廷スタイルの影響を色濃く受けたもので、ロン毛のかつら、色とりどりの刺繍が施された上着にブリーチと呼ばれる乗馬用半ズボンとストッキングといったいでたちが主流。仕上げに香水がたっぷり振り注がれた。華やかさを追究するあまり男性も女性も機能性が犠牲とされた。
ブランメルのファッションとは後に「既存男性像の放棄」と称されるもので、まず上流階級必須アイテムのかつらを捨てるところから始まった。そしてオフホワイトのシャツにきっちり結ばれた純白のクラヴァット(ネクタイの前身でスカーフ状のもの)。その上にウエストコート(チョッキまたはベスト)を着、コート(ジャケット)は無地の黒か濃紺。半ズボンをやめてバックスキンのパンタロン(ベルボトムとは異なる)という長ズボンに乗馬用のライディング・ブーツという、身体にピッタリとフィットさせた上に動きやすさを追求した、現代のスーツの原型とも言えるスタイルだった。飾りと言えばカフスとウエストコートのポケットに忍ばせた懐中時計の鎖を外に垂らす程度と「控えめ」に徹し、行き過ぎた華やかさを否定するモードを確立した。
夜になるとブルーのコート(ジャケット)に着替え、白いウエストコート、黒い長ズボンにボーダー柄の靴下に身を包んだ。当時主流だった金ぴかファッションと比べるとブランメルのそれは極めて控え目だったが、清潔感と機能性に満ちていた。誰もが競ってゴテゴテに着飾っていた時代にこの一見、簡素過ぎるファッションを貫くのはかなり勇気のいることだったと推察するが、貴族はそこに何か得体のしれない「品」を見た。この「品」は後に「ダンディズム」と呼ばれる考え方に繋がっていくことになる。
フランス革命によってフランスの王室や貴族が否定され、その後はナポレオンとの戦争が激化する中、イギリスではフランス式を排除し英国独自のファッションを求める機運が高まっていた。さらに勃興してきた鼻持ちならないブルジョワ層と一線を画したがっていた貴族たちはブランメルのファッションが醸し出す得体のしれない「品」に飛びついた。この頃から人々はブランメルのことをボー・ブランメルと呼ぶようになった。ボー(Beau)とは「美しい」「綺麗な」といった意味合いから「洒落者」や「伊達男」と訳される。
人が振り返るならそのファッションはやり過ぎ
すっかり時代の寵児、今で言うインフルエンサーとなったブランメル。ブランメルの装いを皇太子ジョージだけでなく、誰もが真似したがった。ロンドンのテイラー(仕立て屋)たちはブランメルからアドバイスを賜ろうと彼を追いかけ回した。皇太子だけでなく貴族らもまたブランメルに意見を求めた。ブランメルは相手がどれだけ大物の貴族であろうと媚びることなく対等に接した。ブランメルは相手が貴族であっても呼び捨てにした。逆に貴族の方が恐縮してブランメルさんと呼ぶ有様だった。醜いファッションに対しては時に激しく罵倒し、こき下ろした。そして「もし行き交う人が振り返るようならあなたの着こなしは失敗しているのだ。硬すぎるか、きつ過ぎるか、やり過ぎているかのいずれかだ」と戒めた。しかし毒舌の後は必ず相手をクスっとさせるウィット(機知)で締めくくるため、怒る者はほとんどいなかった。そういった人との接し方が後にまたダンディズムの基本形となっていく。
ブランメルは身支度に毎日5時間と、異常とも思えるほど時間をかけた。ブランメルは香水をつけなかった。イギリス人としては極めて珍しく毎日入浴した。体臭を消すための香水などブランメルにとっては野暮以外の何物でもなかった。入浴を終えると時間をかけて歯を磨き、丁寧に髭を剃った。この時代、生涯一度も歯を磨いたことがない人はざらにいた。また、貴族や上流階級に属する男性のほとんどが髭を伸ばしていた時代だ。しかしブランメルは「清潔感こそ最大のお洒落」と言わんばかりに毎朝歯を磨き、髭を丁寧にそり落とし、ツルツルの肌を見せつけた。
前髪、側頭部、頭頂部及び後ろ髪と、それぞれ3人のヘアドレッサーに担当させブラッシングさせた。ロンドンの水は汚染されているとしてクリーニングは郊外でするよう命じた。シャツは全てきちっとプレスされ、パリっと糊付けされたものだけを着た。ブーツはシャンパンで磨き、他の者にもこれを薦めた。お気に入りのテイラーに次々と新しいコートやシャツを仕立てさせた。ある日「ブランメルさん、一体あなたはお洒落にどれくらいのお金を使っているのですか?」と尋ねた者がいた。ブランメルは「許容範囲は年に800ポンドだ」と答えた。冒頭で述べたように職人の年収が50ポンド前後と言われた時代。800ポンドは今の1億円程度と考えてもいいだろう。
皇太子ジョージはその地位を利用して、よりブランメルのそばでアドバイスを受けることができた。ある日、皇太子はブランメルの身支度の一部始終を見せてもらい、驚くと共に大変な感銘を受けた。社交の場に行けばブランメルは注目の的だった。女性たちは時のスーパースターに接近したがった。しかしブランメルにはスキャンダルらしきエピソードがほぼ見当たらない。スキャンダルどころか彼の物語には女性がほとんど登場しない。それがまた彼のダンディズム像を神格化させた。
ブランメルに端を発した英国流メンズファッションの大改革はヨーロッパに飛び火し、ブリティッシュ・メンズファッションはたちまち一大ムーブメントを巻き起こした。この時、確かにブランメルは世界のメンズファッション界の頂点に立っていた。しかし転落の時は突然やって来る。
週刊ジャーニー No.1234(2022年4月7日)掲載