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◆◆◆《第629回》◆◆◆
トランプ氏とコロナ

大統領選挙を十一月三日に控えたトランプ大統領と夫人が今月初め、新型コロナウイルスに感染した。「マスクなどつける必要はない」などと言って予防措置を怠った報いである。トランプ氏に遠慮して側近たちもマスクを着けずに行動した結果、感染する人が続出している。
私が驚いたのは感染が判明して軍医療センターに入院した二日後、トランプ氏が一時的に病院から出て、大統領専用車の窓から病院周辺に集まった支持者たちに手を振るパフォーマンスを行なったことである。予定していた選挙運動が出来なくなったことに焦りを覚えたのだろうが、コロナウイルスに冒されている彼がそのように振る舞うことで、車の運転手やボディーガードなど多くの人が感染の危険にさらされる。周囲の迷惑も考えず、自分の選挙を優先する人物がアメリカの指導者にふさわしいとは思えない。彼が入院した医療センターの医師の一人はこのパフォーマンスを「狂気の沙汰だ」と批判したというが、諌める側近はいなかったのだろうか。
トランプ氏は病院で集中的な薬剤の投与を受けた。入院した十月二日の夕方、まずリジェネロン社の抗体カクテルが、さらにその夜には抗ウイルス剤のレムデシビルが投与された。抗体カクテルは効果的にウイルスを攻撃するとされるが、今年六月に治験が始まったばかりの未承認薬品である。治験の結果はまだ検証されていない。むろんFDA(アメリカ食品医薬品局)が特別に許可したから投与されたのだろうが、その背景には短期間で回復したいトランプ氏自身の強い希望があったと推測される。
さらに十月三日には炎症を抑えるステロイド薬デキサメタゾンも投与された。レムデシビルもデキサメタゾンも重症患者に用いられる薬品だ。このことから大統領の症状が決して軽いものでなかったことが分かる。
エネルギッシュに見えてもトランプ氏は七十四歳の老人である。おまけに肥満気味で偏食の傾向が強い。高齢者がコロナウイルスに感染したら重症化しやすいから、治療には十分な時間をかけなければならないが、大統領選挙を控えるトランプ氏には時間がない。ここで国民の前から姿を消せば再選は難しくなる。だから治療中にも関わらず、支持者の前に現れて手を振るパフォーマンスをしたのだが、後で病状が悪化すればダメージは計り知れない。

それにも関わらず、トランプ氏は入院から三日後の十月五日、軍医療センターからヘリコプターでホワイトハウスに戻った。つまり退院したのである。今後はホワイトハウスでレムデシビルの投与を続けながら執務を続けるらしいが、一般の患者なら二週間は隔離されるはずだ。ホワイトハウスにも医療設備があるとはいえ、こういうやり方は余りにも無謀である。
ヘリコプターでホワイトハウスに戻ったトランプ氏は早速着けていたマスクを外した。その後、ツイッターに「コロナを恐れるな。我々には優れた治療薬がある。ワクチンももうすぐ手に入る」と投稿した。彼は国民に自らの回復の早さを誇示し、選挙前の大事な時にウイルスに感染した痛恨事を逆に利用しようとしている。それが吉と出るか凶と出るか私には分からない。はっきりしているのは新型コロナウイルスの流行がどんどん政治化していることだ。
日本では富士フィルム富山化学が開発中の治療薬候補、アビガンが今月にも承認の申請を提出する予定である。これに対して政府は三週間ほどで審査を終え、来月中に承認する方向で計画を立てていると報じられた。これに対し、最初から承認することを前提に、審査期間を短縮すれば有効性や副作用などの見極めが不十分になるという声が専門家からあがっている。
アビガンは安倍首相(当時)が今年五月、治験成績の提出を必須とせず、即刻承認する意向を示し、批判された経緯がある。東京オリンピック開催のために、安倍氏は新型コロナウイルスに効くワクチンと治療薬がどうしても欲しかったのだ。これもコロナが政治化した例である。
むろん私もワクチンや治療薬が開発され、早く元の生活に戻ることを願っているが、あまり前のめりになって、踏むべき手順を省略すれば、後で取り返しのつかない事態になる恐れがある。今、重要なのは皆がマスクを着用し、頻繁に手を洗い、人混みを避けるという基本的なルールをきちんと守ることだ。トランプ氏のように「コロナを恐れるな」と叫ぶだけでは何も解決しない。

週刊ジャーニー No.1159(2020年10月15日)掲載

くろだいぬひこ
在英三十年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。