第1回授賞式から120年 ノーベル賞を創設した「ダイナマイト王」 アルフレッド・ノーベル

■ 「人類に最大の貢献をもたらした人々」に毎年贈られるノーベル賞は、初授与から今年で120周年。世界最高の名誉とされるこの賞が、ダイナマイトの発明で巨万の富を築いたスウェーデンの発明家・事業家、アルフレッド・ノーベルの遺言に基づいて創設されたことは有名な話だ。自分の生み出したものが大量殺戮の道具として使われたことへの「償い」から、人類を明るい未来へ導くであろう優秀な人々を援助しようとした――という見方が一般的である。しかし、そのことについて彼自身がはっきりと言及した記録はない。今号では、ノーベルの心の内に迫る。

●サバイバー●取材・執筆/名越美千代・本誌編集部

「死の商人、死す」

タイムマシーンにでも乗って未来に行かない限り、自分の死後の評判を知る術はないだろうが、アルフレッド・ノーベルは幸か不幸か、生存中にそれを耳にする羽目になった。しかも、かなり衝撃的な内容で…。

1888年、兄ルドヴィッグが旅先のフランスで亡くなった際に、兄とノーベルを取り違えて「ノーベルの死亡」を伝える誤報が出た。「死の商人、死す」という見出しで始まった新聞記事には「アルフレッド・ノーベル博士、かつてないほどの速さで大勢の人間を殺害する方法を見出して金持ちになった人物が、昨日亡くなった」と書かれていた。

当時ノーベルは54歳。築き上げた巨万の富は確かに爆発物の発明から得たものだった。だが、これはもともと、油田や鉱山開発、鉄道やトンネル建設などの工事現場での利用を念頭に生み出したもの。自分の発明が武器として利用されていることは彼自身も認識してはいたが、社会発展への貢献のほうが遥かに大きいという自負もあった。しかしこの誤報により、ノーベルは自らに対する世間の目が想像以上に厳しいことに気づかされたのである。

実験中に弟死す

1850年代の若きアルフレッド・ノーベル。

ノーベルは1833年10月21日、スウェーデンのストックホルムで生まれた。父のイマヌエルは技術者で、橋やビルを建設したり、岩の爆破方法を研究したりしていた。ところが事業に失敗し、スウェーデンに家族を残したまま、1838年に単身でロシアのサンクトペテルブルクへ移住する。

当時のロシアはバルカン制覇を目指していた専制君主ニコライ1世の時代で、イマヌエルが新たに始めた機械工場は、ロシア軍に装備を提供することで成功を収めた。特に機雷は、クリミア戦争(1853〜56年)で苦戦していたロシア軍が、英海軍を追い払うのに大いに役立ったとされる。

事業の成功に伴い、裕福になったイマヌエルはロシアへ妻子を呼び寄せた。そして9歳のノーベルを含む4人の息子たちに家庭教師をつけ、一流の教育を受けさせている。おかげでノーベルは、5ヵ国語に堪能だったそうだ。

ノーベルは化学や物理学のほかに文学にも興味を持っていたが、息子たちを後継者にしたかった父はノーベルをフランスや米国など海外に送って、化学技術者になるために修行させた。その結果、彼は修行先のパリで人生を大きく変える物質に出会う――グリセリンに硫酸と硝酸を混ぜて作る「ニトログリセリン」だ。ニトログリセリンには火薬を遥かに凌ぐ爆発力があったが、取り扱いが非常に難しく、危険すぎて実用化はできないと当時は考えられていた。しかし、この新しい物質に大きな可能性を感じたノーベルは、ロシアに戻ってから父と共同で実験と研究を開始したのである。

ニコライ1世が亡くなって改革派のアレクサンドル2世に代替わりし、クリミア戦争が終結したことから、父の機械工場は収入源を失って再び破産するが、ノーベルは両親とともにスウェーデンへ戻った後もニトログリセリンの研究に情熱を注ぎ続けた。そして1864年には、ニトログリセリンの実験中に弟エミールを含む数名が死亡するという不幸な事故にも見舞われている。それでも諦めずにさらにさまざまな試みを続け、ついにニトログリセリンに珪藻土(けいそうど)と呼ばれる細かい砂を混ぜることで安全化をはかり、1867年に爆薬『ダイナマイト』として特許を取得したのだった。

また、ノーベルは導火線を使った起爆装置や雷管も考案して、爆発のコントロールを可能にしている。これらの発明はトンネル堀削、岩石の爆破、油田や鉱山の開発、橋や鉄道の建設などで重宝され、コストの大幅削減に貢献したのだが、同時に、開発時には想定外であった「戦争での需要」も増えていってしまったのである。

女性秘書との「関係」

ノーベルに影響を与えた、優秀な女性秘書のベルタ。

1876年、43歳のノーベルは「語学に精通した女性」を「秘書」として募集した。既に大富豪ではあったが、仕事に没頭しすぎたせいか配偶者もおらず、自分が老人になったような寂しさを感じていたのだ。身近に女性を置こうと「女性秘書」を募集した結果、採用されたのは、のちに作家、そして平和活動家として世界に名を知られるようになるオーストリア出身のベルタ・フォン・ズットナーだった。

10歳下のベルタは没落した伯爵家の出身で、収入を得るために男爵家へ家庭教師として住み込んでいたが、その男爵家の子息と恋に落ちてしまった。2人の交際に反対した男爵家から追い出された彼女は、新しい就職先を求めていたのである。残念ながらノーベルとベルタの間に男女としての熱い化学反応が起きることはなく、ベルタは子息との愛を貫いてその年のうちに結婚し、パリを離れてしまう。彼女がノーベルのもとで働いたのは短い期間だったものの、2人はその後も友人として手紙のやりとりを続けている。

後年作家となったベルタは、1889年に反戦小説『武器を捨てよ!』を発表。繰り返される戦争に人生を翻弄されながらも、苦難を乗り越えていく女性の姿を生々しい戦場の様子を盛り込みながら描いた。この作品によって、ベルタの名は平和主義の先駆者として国際的に知られるようになった。

平和運動に力を注いだベルタは、資産家であるノーベルに平和運動への高額寄付を促す手紙を何度も書いている。ノーベルの生存中は、平和に関する2人の意見はかなりのずれがあったようだが、ノーベルが遺言に「国家間の友愛、軍の廃止または削減、平和会議の推進のために最も多く、または優れた活動を行った人」に賞を贈ると書いたのは、ベルタが念頭にあってのことだろう。ノーベル平和賞の存在の影にはベルタがいたと言っても過言ではない。ベルタには、1905年にノーベル平和賞が授与されている。

● 6つのノーベル賞の選考はノーベル財団ではなく、それぞれに定められた専門機関が行っている(物理学賞、化学賞、経済学賞=スウェーデン王立科学アカデミー/医学・生理学賞=スウェーデンの医学系研究機関カロリンスカ研究所/平和賞=ノルウェー・ノーベル委員会、文学賞=スウェーデン・アカデミー)。

● 候補者は、世界各地から選ばれた大学教授や専門家、過去のノーベル賞受賞者らの推薦により、リストアップされる。自薦は不可だ。
 選考機関はそこから時間をかけて最終的な候補者を絞り込み、彼らの実績を徹底的に検証した上で、毎年10月上旬に受賞者を発表する。

● ちなみに、授賞式はノーベルの命日にあたる「12月10日」に行われるのが慣わしだ。厳しい審査の内容は非公開で、具体的な審査の過程が公になるのは、受賞から50年後となっている。

発明家の責任とは

ノーベルの発明への情熱は、一生尽きることがなかった。ダイナマイトの他にも、合成ゴムや合成皮革、人工絹の製造、酸素濃縮装置など多岐にわたる発明に挑戦し、1896年に63歳で亡くなるまでに355件もの特許を取得していた。ノーベルにとって発明は子どもの頃から常に身近なものであり、生き甲斐でもあっただろう。根っからの発明家だったのである。

「社会の役に立つ」と考えて生み出した発明が、戦争で殺戮兵器として使われていたことにノーベルがどこまで責任を感じていたのかは、不明だ。兵器事業を営む父の背中を見て育っているし、ノーベルが生きた時代は各国の勢力争いで戦争が絶えなかった時期でもあった。兵器に対する感覚が今とは大きく異なって当然であり、またある意味で麻痺して、さほどの嫌悪感は持っていなかった可能性もある。「死の商人、死す」の誤報が出た時も、「発明を悪用されるのは発明者の宿命」とドライに受け止めていたかもしれない。

一方で彼なりの平和問題への考え方として「破壊力のある兵器を各国が持つことが開戦の抑止力となり、最終的には平和な世の中が訪れる」と強く信じていたのではないかとの見方もある。

ノーベル賞受賞者たちの中にも、ノーベルと同じような立場に陥いった人々はおり、この問題は発明者・研究者にとって永遠の課題と言えよう。

ノーベル賞は最後の発明?

1901年に行われた第1回ノーベル賞授賞式の様子。このときの受賞者は、X線を発見したドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲン。ちなみに、経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、彼の死後70年にあたる1968年に新設されたもの。

ノーベルが1896年12月10日にイタリアのサンレモで亡くなり、「自分の財産の多くを物理学、化学、生理学、医学、文学、平和の分野で人類のために最善を尽くした人々に賞を与えるために使うように」という遺言の中身が明らかになると、世界中がざわついた。特に、爆発物や兵器と深く結びついたノーベルという名前で平和賞が設けられるという事実に人々は驚愕した。うがった見方をすれば「死の商人」のイメージを払拭するには素晴らしい戦略だったと言える。彼の遺産額は3100万スウェーデン・クローネで、現在の価値で約230億円相当。当然ながら猛反対する親族はおり、遺言執行人が彼らを説得するのに4年を要したため、実際にノーベル賞授与が開始されたのはノーベルの死から5年後の1901年だった。

ノーベルはノーベル賞の内容について細かく指示を出していたが、その中には「国籍も人種も関係なく平等に賞を与えるように」という記述も含まれていた。当時、国籍にこだわらず、研究の成果や作品だけを純粋に評価する賞は画期的な取り組みであったことを考えると、鋭い洞察力を持っていたノーベルならではの発想と言っていいだろう。彼にとってノーベル賞の設立は、償いというよりもむしろ、遠い将来までを見据えた「最後の発明」だったのかもしれない。

今年のノーベル賞は10月4日の医学・生理学賞を皮切りに、物理学賞(5日)、化学賞(6日)、文学賞(7日)、平和賞(8日)、経済学賞(11日)と順次発表される。授賞式はノーベルの命日にあたる12月10日に、スウェーデンのストックホルムの市庁舎で開かれる予定だ。

1901~2020年までにノーベル賞を授与されたのは962人。そのうち、日本人または日本出身の受賞者数は、2019年に受賞した吉野彰氏(化学賞)までで計28人(日本国籍25人、外国籍3人)を数える。内訳は物理学賞11人、化学賞8人、生理学・医学賞5人、文学賞3人、平和賞1人で、経済学賞の受賞者はまだいない。  ちなみに、米国の学術情報サービス会社「クラリベイト・アナリティクス(Clarivate analytics)」が先日、約5200万の研究論文等を分析し、今年のノーベル賞の受賞が有力視される研究者を発表。世界6ヵ国から16人が選ばれ、日本人では医学・生理学賞の受賞が見込まれる研究者として、大阪大学の免疫学フロンティア研究センター特任教授の岸本忠三氏、同じく大阪大学の名誉教授で量子科学技術研究開発機構の理事長を務める平野俊夫氏の名前を挙げている。

これまでの主な受賞者

【物理学賞】
湯川秀樹(1949年)
朝永振一郎(1965年)
江崎玲於奈(1973年)

【化学賞】
福井謙一(1981年)
田中耕一(2002年)

【生理学・医学賞】
利根川進(1987年)
山中伸弥(2012年)
本庶 佑(2018年)

【文学賞】
川端康成(1968年)
大江健三郎(1994年)
カズオ・イシグロ (2017年/英国籍)

【平和賞】
佐藤栄作(1974年)

週刊ジャーニー No.1208(2021年9月30日)掲載