ジェームズ・ボンドを生んだ作家 イアン・フレミング【前編】
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■ 英国諜報局秘密諜報部(MI6)の00課に勤務する、世界で最も有名なスパイ、ジェームズ・ボンド。ボンドには、その生みの親である作家イアン・フレミングの実生活、実体験が投影されており、最大限に美化した彼自身の「夢のストーリー」と言われている。昨年3月末に公開が予定されていた25作目となるシリーズ最新作「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ(No Time to Die)」は、パンデミックの影響により3度も上映延期の憂き目にあったが、ついに今月30日にその幕が落とされることになった。根強い人気を誇る魅惑のヒーローは、一体どのようにして生まれたのか――。映画公開を目前に控えたボンドの誕生の秘密に迫る。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

過激なスパイ小説

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フレミングがボンドシリーズを執筆した、ジャマイカの別荘「ゴールデンアイ」。

1952年2月、カリブ海に浮かぶ島ジャマイカ。

10年以上もの長きにわたり、不倫関係を続けた女性との結婚式が1ヵ月後に迫っているイアン・フレミングは、別荘で小説の執筆に没頭していた。新妻に贈りたいがためか、あるいは目前に迫る婚姻生活の重みから逃避するためか、一心不乱に文字を書き進める。そして挙式1週間前の3月18日、ついにひとつの作品が仕上がった。その作品の名前は「カジノ・ロワイヤル(Casino Royal)」。世界で最も有名なスパイ、ジェームズ・ボンドが誕生した瞬間であった。このときフレミングは43歳、「これまでのスパイ小説の息の根を止めるスパイ小説を書いてやる!」と友人に豪語してから、すでに7年が経過していた。これをきっかけに、56歳で息絶えるまで年1冊のペースで作品を書き上げ、計14作のボンド小説を世に残している。

処女作「カジノ・ロワイヤル」は暴力やベッドシーンに彩られ、「野蛮で安っぽく金儲けのための粗末な文学」と友人たちから揶揄された。しかし、荒涼とした雰囲気の漂う第二次世界大戦後の英国で、「華やかで羽振りのよいヒーローの物語は必ず人気が出る」とフレミングは信じていた。さらに強烈な暴力シーンを加え、あえて議論の的になるようなストーリーを盛り込んだ2作目「死ぬのは奴らだ(Live and Let Die)」は、その過激さで知名度を上げ、結果的に売り上げを伸ばした。そうして趣向を凝らした連作はボンド・ファンを確実に増やし、人々を虜にしていったのである。

1961年、米大統領に就任したばかりのジョン・F・ケネディが、5作目の「ロシアより愛をこめて(From Russia, With Love)」を愛読書として挙げると、小説の売り上げは一気に急上昇。テレビや映画業界が制作に乗り出し、翌年にはショーン・コネリー主演で映画「ドクター・ノオ(Doctor No)/邦題:007は殺しの番号」が公開される運びとなった。以降、現在まで約60年にもわたりロングセラー・シリーズとなっている。

世界中を股にかけ、高級車を乗り回し、美女と戯れつつ、華麗なアクションや秘密兵器で事件を解決していくジェームズ・ボンド。この誰もが憧れる無敵のスパイは、全くの想像の産物というわけではなく、フレミングが何人かの実在の人物をモデルに脚色したものと言われる。その最たるモデルが、世界中を旅し、高級車を愛し、多くの美女と関係を持ち、そして英海軍諜報部に勤務していたフレミング自身だ。

手当たり次第に女遊び

フレミングは1908年、ロンドン・メイフェアで4人兄弟の次男として誕生。祖父はスコットランドで投資銀行を創業・大成功させたつわもので、金融業界では世界的に有名な人物だった。一方、父親は政治家で、ウィンストン・チャーチル(当時は議員)の良き友人でもあった。質実剛健で誠実な父と自由奔放で芸術家タイプの母のもと、フレミングは裕福な家庭の「お坊ちゃま」として少年時代を送ったが、9歳のときに第一次世界大戦に従軍した父親が戦死。「母が再婚しないこと」を条件に、一家は莫大な遺産を受け取った。

フレミングは父や兄に倣って、名門パブリック・スクールのイートン校へ進学。語学や文学で良い成績を残し、とくに運動が得意だった彼は2年連続で校内スポーツ・チャンピオンに輝くなど非凡な面も見せていたものの、もともと伝統や秩序に縛られることが大嫌い。教育熱心な母親の干渉や強要、優秀な兄と比較されることにも我慢がならず、他校の女子学生と夜遊びを繰り返すようになる。

学業そっちのけで授業をサボっては、女の子とフラフラ遊んでいたフレミングは、学校ですっかり「問題児」のレッテルを貼られてしまった。母親は「留年させるくらいなら…」とイートン校を中退させ、性根を叩き直すために陸軍士官学校へ入れ直すが、ここでも売春婦から淋病をもらうという不始末を犯し、退学になってしまう。仕方なく、オーストリアのプライベート・スクールに息子を送り込み、語学を習得させて外務省で働かせることにした。ところが、そこはヨーロッパでも有数のスキーリゾート地。母の目が届かなくなったフレミングは当然ながらますます羽根を伸ばして、女性たちとのスキーやドライブに忙しい日々を送る結果となったのだった。

その後、なんとかミュンヘン大学、そしてジェノバ大学へと進み、やがてスイス人女性と大恋愛をしたフレミング。真剣に婚約まで考えるが、「外務省入省試験の邪魔になる」と考えた母があの手この手を使って妨害し、恋人は彼のもとを去っていった。これ以降、フレミングのプレイボーイぶりは俄然拍車がかかっていく。「本物の恋なんてありえないし、あったところで成就できるはずない」と言わんばかりに、手当たり次第に多くの女性たちと「カジュアルな関係」を楽しんだ。積極的で直接的な愛情表現をする女性が苦手で、好むタイプはミステリアスで美的センスの鋭い美女ばかり。だが、決して相手にのめり込むことはなかった。

フレミングは本の収集癖があることでも知られるが、彼の部屋は春本やヌード写真集、とくにSMや鞭打ちに関する本で満たされていたといい、フレミングの友人は後に「彼ほど頭の中が性行為のことでいっぱいの人に会ったことがない」と語っている。

諜報部員への大抜擢

フレミングを除くほかの兄弟3人は、祖父の人脈にあやかり大学卒業後すぐに金融業界で活躍していた。とくに文才のあった兄は、その後に紀行家、作家としても成功を収めている。フレミングだけが金銭に興味がなく、また敷かれたレールの上を人と同じように走ることを何より嫌悪していた。

しかし、そうした「自由」も限界がやってくる。母の念願だった外務省の入省試験は不合格となり、行先にあぶれた彼は結局、祖父のコネを使ってロイター通信社に就職。記者として社会人生活をスタートさせた。金融業界を選ばなかったのは、せめてもの抵抗だった。フレミングは後に、欧州・モスクワなどで現地記者として働いていた3年間で「速く書くこと、正しく書くことを覚えた」と話している。

他界した祖父が遺産をすべて財団に預けてしまうと、再婚を考えていた母親はフレミングの行く末を案じ、堅い金融業に就くよう説得。その説得に負けた彼はイヤイヤながらもロイターに辞表を出し、あれだけ嫌っていた銀行マンになった。その鬱憤を晴らすかのように、私生活はさらに派手になっていく。高級住宅街ベルグレイヴィア地区へ引っ越して女性たちとラブアフェアを楽しみ、高級車を乗り回し、ゴルフやギャンブル三昧の毎日。また美食家でもあり、ジェームズ・ボンドのようにワインや食材についてウンチクのあるタイプではなかったが、シンプルで高品質のものしか口にしなかった。

英海軍諜報部の部長、ジョン・ゴドフリー提督。

豪遊と快楽に浸りながら6年の月日が経った頃、彼に大きな転機が訪れる。ボンドの上司「M」のモデルとも言われる英国海軍諜報部の部長、ジョン・ゴドフリー提督に会う機会を得たフレミングは、自身の語学力とロイターで培った情報の収集・伝達能力の売り込みに成功したのだ。奇しくも第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされた時期でもあり、提督の私設秘書という肩書きを得たフレミングは、自慢の想像力と計画力を十二分に活かしながら、さまざまなスパイ活動を企て遂行していくことになる。    (後編へ続く)

フレミングが26~37歳(1934~45年)に暮らしたベルグレイヴィアにある家(22 Ebury Street, SW1W 8LW)には、ブループラークが飾られている。もとは教会として建てられたもので、ここで毎晩のように華やかなディナーパーティーを開いた。

週刊ジャーニー No.1205(2021年9月9日)掲載