ポンペイ発掘を成功に導いた男
イヌ=写真上=や人の石こう像=同下=が無造作に「収納場」に置かれていた。 ようやく、純粋に学術的な観点からポンペイ発掘を行おうという機運が高まったのは19世紀なかばになってからのこと。ナポレオンの後、支配を再開したスペインのブルボン王家が追われ、イタリア統一への動きが一気に本格化したのと時を同じくしていた。
イタリアの新国王となったヴィットリオ・エマヌエーレ2世は、1860年、ひとりの男をポンペイ発掘の監督に任命する。男の名はジウゼッペ・フィオレッリ(Giuseppe Fiorelli 1823~96)。古い貨幣の研究を専門とする考古学者で、任命された当時、まだ37歳の若さだった。
野心と責任感を両方持ち合わせたフィオレッリの指揮のもと、500人余りの人夫が終日立ち働いた。ポンペイの栄光を伝える発見が次々と行われ、都市が少しずつ姿を現していくのを、フィオレッリはある時は灼熱の太陽の下で、ある時は南イタリアには似つかわしくない木枯らしのふきすさぶ中で根気強く見守った。
また、この作業の中で、画期的な手法が編み出されたことも記しておく必要があるだろう。79年の大噴火により、ポンペイでは人ばかりでなく、犬やパンなども埋もれた。こうした有機物は時間の経過とともに腐ってなくなったものの、まわりは早くに固まったため、その後には空洞ができていたのである。この空洞に石こうを流しこみ、その石こうが固まった時点でまわりを取り崩すと、もともとあった有機物の姿があらわになるという仕組みだ。フィオレッリ自身が発明したのか、あるいは優秀な作業員が提案したのかは不明ながら、この手法のおかげで、思いがけぬものが白日のもとにさらされることになる。
それは、犠牲になった人々、あるいは鎖につながれたままもがき抜いて死んだ飼い犬、はたまた、その日、焼きあがったばかりのパンなど、あの運命の日を境に封印されていた、ヴェスヴィオ山大噴火の『証人』ともいえるものたちだった。
火砕流を押しとどめようとするかのように手をつきだしている者、子供を守ろうとした母親らしき者、顔を手で覆って力尽きた者など、それぞれが迎えた最期の瞬間が、1700年の時を経て再現されたのである。そのごく一部はポンペイの見学ルートの途中で展示されており、いつも人だかりができている。このような形で自分の姿(正確には、それをかたどった石こうだが)が、多くの人の目にさらされていることを、そのポンペイ人の魂は苦々しく思っていることだろうと想像する。大英博物館のミイラの展示を、怖いもの見たさで見学した時のことを思い出した。
画家や文筆家、映画監督に |
紀元79年の大噴火でうずもれたポンペイの物語は、多くの画家や文筆家たち、そして映画監督が作品のテーマとして選んでいる。
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ヴェスヴィオ山に見守られた都市
ポンペイのあちこちに残る「落書き」。掲示板、あるいは投書箱のような働きをしていたとされ、選挙運動で「誰それを推挙する」などの『公的』なメッセージから「どこそこの△△△を愛している」あるいは「どこそこの○○○は最低だ」といった、『世俗的』な内容のものまで様々。当時の文化を知るための歴史的資料としても貴重といわれる。 フィオレッリの熱意は、この後も確かに引き継がれた。
2度の世界大戦により、発掘作業どころではなかった時期もあったが、数々の家、および幾多の壁画、そしてローマ時代の見事な銀食器、黄金の装身具などの貴重な品々が発掘されたのである。
持ち運べるものは、一部の壁画やモザイク画も含め、現在、ナポリの国立考古学博物館に保存されており、空調の効いた屋内で見学することが可能だ。暑さの厳しい南イタリアで、これはありがたいことではあるが、ポンペイは実際に訪れてみなければ、ヴェスヴィオ山の大噴火がもたらした被害の甚大さを、さらに、完全に埋もれていた古代都市を蘇らせた人々の努力の大きさを、そして何より、ポンペイの往時の繁栄ぶりを知ることはできない。
編集部では今回、2泊3日でのポンペイ取材の計画を立てた。1日目は昼過ぎにナポリに到着。昼食にさっそくピザを食した後、国立考古学博物館で『予習』に臨み、翌日の丸1日を遺跡めぐりにあてた。
ナポリ滞在の2日目、いよいよポンペイの遺跡へと赴いた。当日の詳細については最終ページのコラムをご参照いただくことにしたいが、ポンペイは予想よりはるかに広く、かつ、壮大な都市だった。また、ヴェスヴィオ山がすぐ背後に控えているのが、遺跡のどこからでも眺められる。大噴火が起こった時、人々がどれほどの恐怖を味わったことか。約1900年余り前、ポンペイの運命を変えたその日に思いを馳せずにはいられなかった。
およそ2時間半、初夏のポンペイを見学した後、取材班はヘルクラネウム(現エルコラーノ)の遺跡へも足をのばした。ここは火山泥流に襲われたと考えられている。ポンペイよりヴェスヴィオ山に近く、その分、火山泥流が到達するのも早かったとされる町だ。どちらの遺跡でもかなりの距離を歩くことになるものの、もし時間と体力が許せば、ぜひヘルクラネウムも訪れられることをお薦めしたい。
取材班がナポリの町に帰り着いたのは午後7時をまわってからだった。駅を出てバスに乗り、ナポリ湾に面した通りにあるホテルへと重い足をひきずりながら向かった。我々のまわりを、ナポリ湾からの風が駆け抜けていく。夏のさかりとはくらべものにならないだろうが、夕方というのにまだまだ風が熱い。ふと、大噴火が起こった79年8月24日のことが頭に浮かんだ。その日、ポンペイに吹きつけた風は硫黄などの匂いが混じり、まさに熱風といえるものだったのだろう、そんなことを考えながら歩いた。
ナポリ湾を見渡すと、ヴェスヴィオ山が静かに横たわっているのが目に映った。頂付近にはやや桃色がかった雲がかかっており、全景はつかめない。今は穏やかそのもので、ポンペイ、そしてこのナポリを見守ってくれているかのようにさえ感じられる。時には残酷なまでの冷たさをもって突き放しながらも、通常は母にも似た寛容さと深い愛情をもって慈しむ―自然の見せる相反する姿を目の当たりにした思いがしたのだった。
ナポリから、湾越しに望むヴェスヴィオ山。