野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定
野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定

 

1700年に及ぶ深い眠り

 


ヘラクラネウムの遺跡。ポンペイより小規模だが、家屋などは当時の状態により近い形で残っている。
 火山灰や火山礫、火砕流による堆積物に覆われた上にさらに土などが積もり、やがてポンペイは約6メートルも地中に埋もれることになる。
 大噴火の後、しばらくは人々の記憶にあったポンペイだが、世代が移るにともない、この都市が存在したこと自体も忘れ去られてしまった。
 それから約1700年。
 ポンペイを眠りから覚ますきっかけとなったのは、前述のヘルクラネウムだった。1738年に同遺跡での発掘が開始されたのだ。また、これより以前のルネサンス時代に古い文献の研究が進み、ポンペイの名前が学者たちの間で話題にのぼるようになっていた。
 ヘルクラネウム発掘の口火を切ったのは、ナポリ王の娘婿となっていたオーストリア人将校だった。その頃、南イタリアはハプスブルク家を頂くオーストリアの統治下にあり、エルコラーノで井戸を掘ろうとした農民が大理石の柱をみつけたという噂を聞きつけたこの将校が、ヘルクラネウムでの発掘に乗り出したのだ。しかし、ローマ時代の美術品など、高価なものだけを漁るための発掘で、貴重な壁画が壊されるなど無神経な手法が大きな批判を浴び、ローマ法王までが抗議に乗り出す騒ぎとなって発掘は中断された。
 その後、南イタリアを手中に収めた、ブルボン家出身のスペイン王カルロス3世がヘルクラネウムの発掘を再開。それだけではなく、同王は、ポンペイを掘り出そうと決意する。スペインから測量技師が呼ばれ、ポンペイの本格的な発掘が始まったのは1748年のことだった。
 当初は、高価な装飾品や美術品の発見のみに関心が向けられがちだったが、1765年、ラ・ヴェガなる人物が発掘の監督を任せられ、区域ごとに掘り進めるという計画的な発掘が行われるようになる。「ディオメデ荘」や「イシス神殿」などが見つかり、大きな成果があがった。
 しかし、やがてフランス革命が勃発。フランスのブルボン王家が断絶の憂き目を見たことはご存知の通りだ。
 1799年、ブルボン王朝の血をひく当時のスペイン王家は、南イタリアからの撤退を強いられ、ナポリを離れる。これをうけてナポリ王となったのは、ナポレオンの妹カロリーヌと結婚した、ナポレオンの側近ミュラだった。ミュラとカロリーヌ夫妻はポンペイ発掘に情熱を注ぎ、特にカロリーヌは多くの私財も投じたことから「マダム・ポンペイ」とあだ名がつくほどだったとされている。しかし、ナポレオンの天下は長くは続かず、ポンペイ発掘も停滞の時期を迎える。
 大噴火前のポンペイで、支配者がくるくると変わったのと似て、発掘作業も誰の管理下に置かれるかで方針や進み具合が大きく変わり、ポンペイにしてみれば、いい迷惑、もとの眠りに戻りたいとさえ思ったかもしれない。

 


 

石こうで固められたことによって、初めて姿かたちが分かった犠牲者たち。