2つの都市の運命を決めた火砕流
ポンペイの遺跡内の説明は10ページに譲るとして、話を先に進めよう。
遺跡を歩いてみるとその規模の大きさを実感できる。史料によれば、ヴェスヴィオ山噴火時、ポンペイには約2万人が住んでいたとされる。
そのうち、犠牲になったのは1割にあたる2千人とする説もあるが、もっと多くの人が亡くなったと聞いても驚きはしないだろう。ポンペイという都市が翌日には丸ごと姿を消してしまったのである。逃げ遅れ、そのまま埋もれてしまった人も相当いたはずだ。
当時、地震学などというものは存在せず、火山噴火は神の怒りによって起こると考えられていた。紀元79年の大噴火にさきがけて、その17年前にはかなりの規模の地震がポンペイで起こったことが記録に残っているが、そうした予兆も、火山噴火と結びつくわけがなかった。
約800年ぶりといわれた大噴火は、突然、そしてきわめて暴力的な荒々しさで人々を襲ったのである。
火山噴火が発生した場合、人命を奪い去る原因は複数挙げられる。比較的新しい資料をもとに話を進めることをお許し願いたいが、例えば、1900年から82年に起こった火山活動による直接的な死亡者数は世界で5万2千人余り。右下の表に示した通り、圧倒的に多いのは火砕流・溶岩流による犠牲者であることがお分かりいただけるだろう。実に全体の7割を占める。
もっとも、日本の火山災害史上、最大の被害を記録した1792年の雲仙岳の噴火活動では、眉山とよばれる部分が大崩壊を起こして、それが一気に海に流れ込んで津波が発生、対岸の熊本県側で1万5千人もの住民がその津波にのまれたとされている。つまり、1900年以前にさかのぼって調べていくと、津波、あるいはそれ以外の原因の占める割合が増える可能性があるため、火砕流・溶岩流による犠牲者が7割にまでのぼるかは定かではない。しかしながら、火山活動が津波を招き、なおかつそれが大惨事につながるケースは、1792年の雲仙岳噴火時のように、幾つかの条件が悪夢のように揃わねばならない。この点から、火山噴火の際、もっとも警戒すべきはまず火砕流・溶岩流だといって過言ではなさそうだ。
では、ポンペイの運命の日はどうだったか。
まず、ヴェスヴィオ山から白い煙が多量にあがったはずだ。紀元79年8月24日の午前中のことである。
やがて、空が破れたかというほどの大音響がとどろき、黒い煙が天高く吹き上がった。実際にポンペイで起こったことを細かく記した記録は残されていないものの、小プリニウス(上のコラム参照)の書簡によると、ナポリ湾の西端にあるミセヌムからも、今まで見たこともないような巨大な『雲』があがっているのが認められたという。
近郊の人々が、何かただならぬことが起こっていると案じている最中、ポンペイは恐怖と混乱に支配され、パニック状態に陥っていた。
どこかに逃げねばならない、しかし、どの方向に走れば良いのか。噴火にともなって起こった地震で石造りの建物が次々に倒壊、逃げ惑う人々がその下敷きになったばかりか、道がふさがれた。家財道具を持って逃げようとして、あるいは家族を助けるために自宅に戻り、落命する人も続出したに違いない。飼い主が逃げ出したため、鎖につながれたままの犬はなすすべもなく、狂ったようにほえたが、誰にも見向きもされなかった。ポンペイ中に人々の怒号や悲鳴が響き渡った。
火山灰や、火の玉のように燃え盛る火山礫は、休む間もなく降り続け、それらを避けるために屋内にとどまる人々も多数いた。神の怒りが収まるまで待てば良いと思った者も少なくなかったと推測できる。「ユリウス・ポリビウスの家」=下図参照=で遺体で見つかった12人も、屋内のほうが安全と判断したのだろう。
まもなく、有毒なガスを含む火砕流がポンペイめがけて押し寄せるなど、夢にも思わなかった人々を、どうして責めることができよう。
やがて、まさに阿鼻叫喚のちまたと化したポンペイを、ヴェスヴィオ山からの大量の火砕流が襲った。
火砕流は、摂氏600度以上にもなることがある上、時速100キロという高速でふもとに達することもあると報告されている。人の足では到底逃げ切れない。
9ページ左上の地図にあるように、ヴェスヴィオ山からの火砕流はナポリ方面には向かわず、ヘルクラネウム(現エルコラーノ)を最北とし、後は南へと流れた。同火山からの距離を見れば、ナポリのほうがポンペイよりもさらに近いほどだ。しかし、ナポリは残り、ポンペイは消失した。幸運な都市ナポリと、不運な都市ポンペイはこの日を境に、全く異なる道を歩むことになったのである。