様々な部族が支配を望んだ地
まっすぐにのびる道を見ると、ポンペイがいかに計
画的に作られた都市であるかがよく分かる。 南イタリアの日差しは強い。
あふれんばかりの陽光は、夏ともなれば厳しい猛暑をもたらして人々を閉口させるが、一方で大粒のオリーブ、レモン、偉大なワインを生み出すブドウなど、豊かな恵みを約束する。
紀元79年8月24日。
ポンペイでは、その日も朝から太陽が容赦なく照りつけていた。日中のうだるような暑さが予想される、ごくありふれた夏の日だった。市場には商売熱心な売り手のにぎやかな声が響き、布地や工芸品のほか、パンにワイン、とれたばかりの魚をはじめとする、人々の胃袋を満たすための食材がずらりと並んでいた。
人々には、まもなく、未曾有の天災がポンペイを襲うことになるなど想像できるはずもなかった。
さて、その運命の日について述べる前に、ポンペイのそれまでの歴史を駆け足でふり返ってみることにしたい。
ポンペイは、カンパニア地方に属する。小ぶりではあったものの、繁栄した都市のひとつに数えられていた。
ナポリ湾から近いだけでなく、すぐそばをサルノ川が流れるという立地の良さにより、この地では、早くから人が定住を始めたとされている。まずオスキ人と呼ばれる、インド・ヨーロッパ語族系の民族が登場。後発のギリシャ人が植民活動をスタートさせたのが紀元前6世紀といわれていることを考えると、ポンペイの起源はそれよりも前、すなわち今から2500年ほど、あるいはさらに遠い昔までさかのぼることになる。
ギリシャ人はポンペイの地の利に注目し、南イタリアにおける交易の要衝と見なしたのだった。
さらに紀元前526年から50年近く、ギリシャ人のライバルであるエトルリア人がポンペイを占拠。しかし、紀元前474年にはギリシャ人がエトルリア人に打ち勝ち、ポンペイは再びギリシャ人の支配下に置かれる。ギリシャ人は防御の強化を目指し、市壁を建設。また、ギリシャ式の都市計画を取り入れ、大通りと細い通りを縦横に規則正しく組み合わせて町の整備に努めた。ポンペイの遺跡の見取り図を見ると、「碁盤の目」というほどではないが、通りが一定の決まりにのっとって築かれていることが分かる。
ところが、こうした尽力にもかかわらず、前424年、オスキ人と共通の言語を操るサムニウム人に、ギリシャ人はポンペイの支配権を奪われてしまう。サムニウム人は、ギリシャの都市計画を生かしながら、ポンペイを拡張していったのだった。
これだけ支配権がめまぐるしく移り変わったことからも、ポンペイがその時代、いかに重要視されていたかが伺えるだろう。だが、こうしたポンペイをめぐる争いも、紀元前1世紀ごろに終わりを告げる。
既に南イタリアの雄となっていたローマ人が、紀元前91年から同88年にかけて繰り広げられた「同盟市戦争」で、ポンペイとその周辺都市からなる連合軍を撃破。ローマ人は、これを境に本格的な植民活動を開始したのだった。
ただ、ローマ人は他の都市でもそうだったように、先住部族をやみくもに力で押さえつけるようなことはしなかった。自由民といわれる層の人々にはローマ市民権を与えるなどし、ゆるやかに地元民を従わせていったのである。かくして、紀元前87年には自治都市と格付けされるようになったポンペイは、同80年、ローマ帝国内では自治都市より格が上である植民都市(colonia)と認められるまでになった。
ローマ式の文化や制度も徐々に取り入れられていった。
ポンペイの遺跡の研究により、公共施設は一定地域に集められ、個人の居住区内に公共施設が混在することのないよう配慮がなされていることが判明したが、これはローマ式都市計画ではよく見られるパターンという。
公共広場(forum)のまわりに、神殿や執政にあたる役人たちの執務室、会議場といった施設が揃っており、実に機能的だ。また、ローマ人の好んだ公共浴場も、ポンペイには4ヵ所あり、やはり公共施設の集まる地域で営まれていた。
現在、我々が見学できるようになっている浴場跡はどこも静けさに包まれているが、かつては活気に満ちていたはずである。浴場跡のひとつを訪れた際、ポンペイを悲劇が襲った時のことが想像された。湯あみをしていた客たちはことさら慌てふためいたに違いない。その者たちが逃げ延びたか、あるいはポンペイとともに埋もれたか――誰も永遠にそれを知ることはできないのである。