面白過ぎる英国史 〈新説〉ヘンリー8世、2番目の妻アン・ブリンは誰に殺されたのか 【後編】
ヘンリー8世(Henry VIII 1491~1547)に、カトリックからの離反を決意させ、2番目の王妃となったアン・ブリン(Anne Boleyn 1501頃~1536)。

■ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの離婚が成立しない中、王妃の座が空くのを待つアン・ブリンが想定外の妊娠をした。結婚前に生まれてしまえば赤ん坊は庶子(婚外子)とされ王位継承権は与えられない。男子後継者にこだわるヘンリーは慌てた。そのため急ぎフランス国王フランソワ1世のバックアップを取りつけ、ローマ教皇の介入を遮断。キャサリンとの婚姻を無効化した上でアンと結婚した。医師や占星術師は「お腹の子は男児」と太鼓判を押した。1533年9月7日、アンは出産した。女児だった。失望したヘンリーは予定されていた全ての祝賀行事をキャンセルした。女児はエリザベスと名付けられた。のちに即位してエリザベス1世となる。
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●サバイバー●取材・執筆/手島 功

1535年秋、アンは再び妊娠した。年が明けた1月7日、宮廷から追放されていたキャサリン・オブ・アラゴンが病死した。ヘンリーとアンは「邪魔者は消えた」と祝杯を挙げ、踊った。この17日後、ヘンリーはグリニッジ宮殿で馬上槍試合に参加。試合中、馬から転落したヘンリーは総重量650キロの馬の下敷きとなり昏倒した。2時間ほどで意識を取り戻したが、事故の際に頭部と脚が馬に押し潰された。脚の負傷によりヘンリーは2度とスポーツが出来ない身体となった。さらにこの日の事故以降、ヘンリーは感情のコントロールが困難となった上に物忘れも激しくなり周囲を混乱させた。現代の医師たちは事故の際に前頭葉を損傷した可能性を指摘している。

落馬事故から5日後、アンは再び流産した。男の子だった。

この流産によってヘンリーは男子を産むという約束を守らない上、すぐに感情を爆発させるアンに辟易しアンの処分を考え始めた、とするのがこれまでの定説だった。ところが神聖ローマ帝国大使のウスタシュ・シャピュイが皇帝カール5世に送った数々の報告書からは、全く別のストーリーが浮かび上がって来る。確かに男子を流産しただけで、そのわずか3ヵ月半後に妻の首を刎ねるというのは著しく説得力に欠ける。ではこの3ヵ月半の間に一体何があったのか。

昨日の友は今日の敵

鍛冶屋の息子からヘンリー8世の側近にまで昇りつめた、トマス・クロムウェル(Thomas Cromwell 1485~1540)。

前妻キャサリン・オブ・アラゴンとの婚姻を無効化する際、カトリックからの離脱を共謀したアンと王の側近トマス・クロムウェルだったが、目的を達成してみれば都合よく利用し合っただけで決してイデオロギーまでを共有していた間柄ではなかった。

クロムウェルは修道院の解体を主導。教皇庁収入の源泉である修道院の莫大な財産が王室に転がり込み、ヘンリーもクロムウェルも大いに満足した。ところがアンはこれに猛然と反発した。「その資産は教育や慈善活動に使うべきだ」と主張した。ヘンリーはカトリックを離脱し、プロテスタントに分類されるイングランド国教会を創始した。しかしそれは前妻を棄てるためであり、カトリックの教義に不満がある訳ではなかった。一方のアンはフランス仕込みの福音派で、ルターやカルヴァンの流れを汲むプロテスタントだった。一口にプロテスタントと言っても決して一枚岩ではなかった。

アンとクロムウェルの対立は日に日に激化していった。ある日、アンを憎悪する帝国大使シャピュイがクロムウェルに「王妃はあなたの首が飛ぶところを見たいと言っている。気をつけられよ」と警告した。しかしクロムウェルはヘンリーが傲慢で癇癪持ちのアンを持て余し始めていることに気づいていた。アンがこれほど政治や外交に介入する背景には、彼女がフランス宮廷で目にしたフランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォア、そして実姉マルグリット・ド・ナヴァルの存在があった。2人は若くして王座についたフランソワ1世を陰に日なたにサポートした。その様子を目にしていたアンは自身も積極的に政治に関与して夫を支えるべきと考えていた。

しかしそれは大いなる勘違いだった。フランソワ1世を支えていたのは国民からも敬愛された国王の実母と実姉だった。国民に慕われた前王妃を追い落とし、宮廷内でも敵の多い元農民ブリン家の娘とは格が違い過ぎた。一方クロムウェルはヘンリーが自分に全幅の信頼を寄せている限り、王妃もやすやすと自分には手を出せまいと高をくくっていた。4月1日、大使シャピュイは皇帝カール5世に「王と娼婦の関係が悪化している。新しい結婚の可能性がある」と報告した。シャピュイはアンを陰で娼婦と呼んで蔑んでいた。

殺られる前に殺れ

ヘンリー8世3番目の妻となり、エドワード6世を出産した後、すぐに産褥熱で亡くなったジェーン・シーモア(Jane Seymour 1508~1537)。

1536年4月中旬のパッション・サンデー(情熱の日曜日)。アンはヘレフォード主教ジョン・スキップに依頼し、大勢が見守る中でクロムウェルを罵倒させた。スキップは旧約聖書「エステル記」でユダヤ人を迫害し、その財産を簒奪しようとしたのが明るみに出て処刑された邪悪な大臣ハマンをクロムウェルに重ね合わせ、激しく糾弾した。

クロムウェルは自分に対するアンの憎悪が危険な域に達していることを知った。クロムウェルの動きは迅速だった。ヘンリーの前妻キャサリンに同情的で密かにアンの排除を目論んでいたニコラス・カリュー卿一派に接近した。カリュー卿はクロムウェルをエドワード・シーモアとトマス・シーモアという兄弟に引き合わせた。彼らはヘンリーの新恋人、ジェーン・シーモアの兄たちだった。シーモア家はウィルツシャーの地主の家系だった。ジェーンはアンと異なり、控え目で従順なタイプの女性だったとされる。そして何よりシーモア家が多産の家系で、特に男子が多いこともヘンリーのお気に入りだった。アンを排除してジェーンを王妃にさせる計画が密かに動き始めた。

(上)ジェーン・シーモアの兄エドワード(Edward Seymour 1500~1552)。
(下)弟のトマス(Thomas Seymour 1508~1549)。2人ものちに処刑台に上ることになる。

4月21日、クロムウェルが計画を実行に移さざるを得ない一大事が起こった。その日、クロムウェルはヘンリーと外交政策に関して話し合っていた。その場にアンも同席していた。クロムウェルは神聖ローマ帝国と同盟すべきだと主張した。ところがアンはフランスとの同盟に固執。激しい罵り合いへと発展した。その時、フランソワ1世に同情的だったヘンリーがクロムウェルの頬を激しく平手打ちした。アンがまだヘンリーの心の中で大きな存在であることを知り、クロムウェルは愕然とした。と同時に、アンとヘンリーの不興を買い、宮廷から追放されて死んだ枢機卿トマス・ウルジーや、キャサリンとの離婚や国王至上法に強硬に反対して前年夏に処刑された大法官トマス・モアら、ヘンリー側近たちの悲劇的な最期が脳裏を駆け巡った。クロムウェルは宮廷から姿を消した。カリュー卿やシーモア兄弟の元へと向かったものと思われる。

殺される前に殺すしかない。どうすればアンを確実に殺せるか。複数の男との不義密通で訴えるか。いや、それでは死罪にならないかもしれない。殺し損なえば刃は間違いなく自分に向けられる。ヘンリーがアンを確実に処刑する罪状を創り上げる必要があった。それは大逆罪、すなわち国王暗殺の計画だった。アンを擁護する者が現れる恐れがあった。この際、アン派と思われる連中をまとめて葬り去るしかない。こうしてアン・ブリン派抹殺計画が練り上げられ、実行に移されていった。

捏造された「希代の悪女」

ロンドン塔に投獄されたアン・ブリン。

ここから先は、多くの歴史書や小説が語る通りだ。クロムウェルが宮廷から消えて1週間後の5月1日、ヘンリーの元にアンが複数の男と不義密通、近親相姦を働き、妖術を使い、さらに国王暗殺を計画しているとの報告がもたらされた。突然降って湧いた妻の大スキャンダルにヘンリーは驚き、狼狽し、やがて怒りを爆発させた。翌2日、アンはグリニッジ宮殿で突然逮捕され、そのままロンドン塔に投獄された。

アンと親しかった音楽家やヘンリーの親友、さらにはアンの実弟など5人が逮捕された。すぐに裁判が開かれ、誰もが無罪を訴えたが、一切の証拠も提出されないままアンを含む6人全員に死刑判決が下された。死刑ありきの裁判だった。5月17日、5人の男たちがタワーヒルで処刑され、アンの実弟を除く4人の首がロンドン橋南岸に晒された。その2日後の5月19日午前9時、アンもまた断頭台の露と消えた。

アン・ブリンは傲慢で頑固な上に癇癪持ちだったとする記録は多いが、巷間で言われるような「希代の悪女」だった訳ではない。婚約から結婚が決まるまで肉体的にヘンリーを受け入れることなく7年間辛抱強く待ち続けたアンが、死の危険を冒してまで実弟を含む複数の男性と床を共にすることは到底考えられない。まして夫の殺害を計画するような軽挙妄動の人ではなかった。それどころか信仰心厚く貞節を重んじる清教徒であり、国民に教育や慈善活動を施すよう促すなど篤志家としての顔も持ち合わせていた。

クロムウェルは保身のためアンに幾重もの濡れ衣を着せた。そしてアンを圧倒的な悪女に仕立て上げて処刑台に送ることに成功した。その4年後、クロムウェル自身もまた不可解な理由で捕らえられ、この時の帳尻合わせかのように断頭台に散る。アンの無念を晴らすかのように娘エリザベスは後に女王となってイングランドに黄金期をもたらした。そして子を残さないことで父ヘンリー8世が守ろうとしたチューダー朝に終止符を打った。

歴史とは覗くたびに見える風景が変化する万華鏡のようだ。確固たる証拠をもって証明する方法がない以上、この景色も結局は仮説に過ぎない。(了)

参考資料

"Thomas Cromwell and the Downfall of Anne Boleyn" Tudor Times/"The Political and Religious Influence of France on Anne Boleyn” Tudors Dynasty 他

本紙が制作したユーチューブ動画もぜひご覧ください。

「アン・ブリン 処刑までの過酷な48時間」

「アン・ブリンはなぜ殺されたのか  アン・ブリン最期の3カ月」

週刊ジャーニー No.1187(2021年5月6日)掲載