2010年3月4日 No.615

●サバイバー●取材・執筆/黒澤里吏・本誌編集部

 

サムライから葡萄王へ
長沢鼎の生涯

 



米国カリフォルニアのナパ、ソノマ周辺といえば、銘醸ワイナリーが集中していることで世界的に知られ、いまや日本からも多くの観光客が訪れている。
しかし、この地で19世紀後半に、数々の賞を受賞した世界的なカリフォルニア・ワインが、ある日本人の手によってつくられていたことを知る人は少ないのではないだろうか。
その日本人とは、幕末期に13歳で英国に派遣された薩摩藩士であった――。
遥か遠い異国の地で時代に翻弄され、数奇な運命を辿った一人の「元サムライ」の人生を追う。

参考文献: 「薩摩藩英国留学生」犬塚孝明著/中公新書
「日本人の足跡2 世紀を超えた『絆』を求めて―」産経新聞社
www.geocities.co.jp/HeartLand/8808/PROFILES/KAWAMURA.HTM

Special Thanks to: 鹿児島サンタローザ友好協会、Paradise Ridge Winery、下土橋渡氏、千手佳子氏

 

 その少年の名を長澤鼎(かなえ)という。 幕末期に薩摩藩から英国へと派遣された15名の留学生のうち、弱冠13歳という若さで渡航した長澤鼎は、維新後に帰国して後に初代文部大臣となった森有礼(後述)や、日本のビール産業の礎となってサッポロビールの前身を築いた村橋久成などと異なり、不思議なほどその名を世間に知られていない。
 彼の名前が没後、初めて脚光を浴びたのは、1983年11月11日のことだった。 来日中のロナルド・レーガン大統領が、経済摩擦で緊張感が漂っていた日米の友好関係を修復するため、国会で演説を行ったのである。その中で大統領は長澤鼎について触れ、次のように語った。
 「仕事熱心な日本人がカリフォルニアにもたらした奇跡を、私はこれまで数多く見てきました。たとえば1865年、長澤鼎という若きサムライ・スチューデントが、西洋の先進技術を学ぶため、日本を後にしました。そしてその10年後、彼はカリフォルニア州サンタローザでファウンテングローブというワイナリーを開き、間もなくカリフォルニアの葡萄王として知られるようになったのです。日米両国にとって、サムライから実業家となった長澤氏の功績は計り知れません」
 この演説の背景には、長澤の出身地である鹿児島市がソノマ郡のサンタローザ市と国際交流を行っていたことから、交流協会の米国側会長が東京の米国大使館に情報収集を依頼し、その内容が大統領の周辺に伝わって偶然にもスピーチにつながったという経緯がある。しかし、実のところ長澤のことは、地元サンタローザですらほとんど知られていなかったのだという。
 長澤鼎(本名・磯永彦輔)は元薩摩藩士である。遡ること1865年、薩英戦争を経て西欧の文明や海軍技術に開眼した薩摩藩は、藩の近代化に向けて人材育成を促すべく、長崎に住む英国人貿易商トーマス・グラバーの助力を得て、将来を嘱望された15人の若きエリートたちを英国に留学させることに成功する。当時、諸藩による海外渡航は江戸幕府によって禁じられていたため、「大島への出張」という名目のもとに行われた密航であった。長澤は渡英当時13歳という若さで、最年少だった。他の留学生たちとは一線を画す人生を歩むことになったのは、その若さゆえとも言えるかもしれない。
 同志たちが明治維新を機に帰国の途に着く中、1人異国の地に留まって自らの人生を切り拓き、巨万の富を得て地元で名士と呼ばれるまで上り詰めた長澤鼎。それだけの傑物が、なぜ歴史の中にうずもれてしまうに至ったのか。ここでは、激動の時代を生きた長澤の人生を追うことで、その謎を少しでも解いてみたい。

 

夢の渡航が現実に

 薩摩藩が設立した洋学教育研究機関「開成所」の優秀な書生であった磯永彦輔(長澤鼎)が「藩命」を受けたのは、1865年1月18日のことだった。手渡された辞令を目にした時の彼の喜びは、言葉では言い尽くせないほどだった。藩内でも指折りの洋学者の家に生まれ育ち、かねてから、とびきり利発な少年として知られていた彼にとって、海外渡航はまさに夢そのものだったのである。
 磯永家は、代々暦算家として島津家に仕えてきた家系で、彦輔の高祖父にあたる孫四郎周英は、日本天文暦学史上に多大な功績を遺した高名な洋学者、また曾祖父の周経も暦学者として活躍し、西洋暦学や航海測天術の導入に尽力した。儒学者として知られる彦輔の父、孫四郎周徳もまた航海術を学んでおり、磯永家はまさに薩摩藩における洋学の草分け的存在であった。小さい頃から洋書や翻訳書に囲まれ、洋学に親しんできた彦輔が、渡航辞令を受けて飛び上がるほど喜んだのも無理はないというものだろう。しかもわずか13歳にして、一族の誰もが夢見た渡航が、現実として目の前に迫ってきたのである。
 表向き「半年間の大島出張」を命じられた、磯永彦輔をはじめとする15名の薩摩藩留学生たちは、英国への密航にあたり、それぞれ変名を用いることになる。数年後に帰国するまで、その変名でお互いを呼び合い、藩との書簡もすべて変名を使うというのがルールだ。そこで磯永彦輔が君主から授かった名前が、「長澤鼎」であった。まだあどけなさが残る少年に、これから思いもよらぬ人生が拓け、結果的にこの変名を生涯用いることになるとは、この時、知る由もない。

 

一人、スコットランドへ

 英国に上陸後、留学生たちはロンドン大学に聴講生として入学するが、年少すぎる長澤は一行を離れ、スコットランドのアバディーンにあるグラマースクールに入学することになる。ロンドンを発つ日、同志たちは駅まで長澤を見送りに行ったが、1人列車に乗り込む長澤に不安そうな様子は全く見られず、森有礼をして「剛気の人」と言わしめている。
 藩校から選抜され開成所へと入所し、母国において俊才ぶりを認められ、英学修業に勤しんでいた長澤だけに、アバディーンでもその実力を示し、優秀な成績を修めた。周囲に日本人がいない環境で、英国生活にどっぷり浸っていた長澤は、1年も経つとすっかり現地に溶け込み、母国の父に英文で手紙を送るまでになっていた。13歳という年齢も、環境に素直に順応できる要素だったのだろう。封建社会に生きる武士としての生き方が身に付いている年長の留学生たちに比べ、長澤は精神的にも肉体的にも未熟であり、言い換えればどちらにでも転べる柔軟さがあった。まさにスポンジのごとく、西洋文化を丸ごと吸収していったのである。