祖国を追われて
 


元米大統領リチャード・ニクソン=中央=を囲むウィンザー公夫妻。1970年撮影
 祖国を去り、ウォリスと結婚に至るまでの6ヵ月間は、エドワードにとって生き地獄のようであった。物心ついた頃から、英国王となるべく道を与えられ、それ以外の選択肢を持たなかったエドワードにとって、自らの意志とはいえ退位は、これまでの人生を全否定し、未知の世界に飛び込むという恐怖でもあった。
 唯一、心の拠り所であるウォリスもここにはいない。離婚訴訟が滞りなく完了するまで、2人は引き離されていた。彼女の離婚が成立しなければ、一緒になることもできない。すべてを捨てたことが報われなかったとしたら…。そんな思いに締めつけられた。
 離婚の訴訟手続きが完全に終わり、2人が再会したのは1937年5月、フランス中部のトゥール近郊であった。約1ヵ月後の6月3日に親しい友人のみを招いての挙式が行われ、2人は晴れて夫婦となった。
 この挙式にエドワードは家族を招待し、彼らも参列してくれるものと思っていた。しかし、王太后、そして弟のジョージ6世とエリザベス王妃はもちろんのこと、弟のケント公やグロスター公、いとこなど、王室からの出席は1人も許されなかった。王室メンバーの称号である「HRH」(ハー・ロイヤル・ハイネス=妃殿下)をウォリスに与えることも当然ながらあり得なかった。
 ジョージ6世が挙式の2ヵ月前にエドワードに宛てた手紙には、「これはもう家族の問題ではないんだ。申し訳ないけど、家族は誰も出席できない。これは王室や英国民に関わる問題で、僕はもう、家族の一員としてだけ振舞うわけにはいかないんだ」といった内容が書かれていた。
 これに対し、エドワードは「政府や英国教会の言いなりになってるなんて信じられない。僕は君をいつも支えてきたのに、君は僕の新しい人生のために立ち上がってはくれないのか」と非難を浴びせている。
 ジョージ6世にとって、エドワードはいつまでも兄であった。不本意な形で王位を押し付けられたわけだが、それでも兄を助けたいという気持ちに変わりはなかった。彼が即位して初めに執り行ったのが、兄に「ウィンザー公」という称号を与えることであった。しかし、エドワードは彼の国王としての立場や葛藤を理解せず彼をなじり、毎日電話をしてきては金をせびり、ウォリスに「妃殿下」としての称号を与えることを許可するよう、執拗に要求するようになる。こうなると、少年時代から支え合い築き上げてきた絆にもひびが入らぬわけがなかった。
 こうして、エドワードに泥を塗られ世間に顔が立たない王室と家族に見捨てられたと拗ねるエドワードとの確執は修復不可能となった。
 ジョージ6世はもともと、ウォリスとの結婚を認めていなかったし、何より王太后はウォリスを「あの女」と呼んで嫌い、「私が生きているうちはエドワードに英国の地を踏ませない。私の葬式の時までは」と勘当したも同然の姿勢を見せていた。
 エドワードとしては2年もフランスで隠遁すれば、英国に戻れるだろうと踏んでいたが、ジョージ6世は王室の許可なしに英国に戻れば一切の資金援助を断つと脅してこれを制している。


1937年、訪独の際にヒトラー=右=と握手するウォリスとエドワード=中央
 結婚から数ヵ月後、ウィンザー公夫妻は英政府の警告に従わず、ヒトラーの招待を受けドイツを訪問。その後もたびたび訪独し、滞在中にナチス式敬礼をするなどして、さらに英国政府のひんしゅくを買った。王太子時代に初めてドイツを訪れて以来、親独派として知られるエドワードだが、時は第二次世界大戦直前、その行為がどれだけ英国にとって無責任で挑戦的にさえ見えたかは想像に難くない。
 しかし、後にエドワードは「親独派ではあったが決してナチズムを支持していたわけではない」とし、王族として扱われることを熱望していたウォリスのために訪独を決めたと言われている。
 その後、第二次世界大戦が勃発し、ドイツがフランスに侵攻すると、ウィンザー公夫妻はスペイン、ポルトガルへと身を移した。ドイツ側はウィンザー公を利用価値の高い人質とみなしており、彼を手なづけ、勝利の暁には和平交渉を有利に進めようと考えていた。これに対し英国政府は、エドワードをカリブ海の植民地であるバハマ総督および駐在英軍総司令官に任命することで、阻止しようとした。名ばかりとはいえ、王室関係者が植民地の総督になるのは前代未聞のことであった。