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世界を驚愕させた国王
エドワード8世 【前編】
写真:ハリー王子(© E. J. Hersom)、メガン妃(© Northern Ireland Office)。

■エリザベス女王の孫で、チャールズ皇太子とダイアナ元妃の次男(王位継承順位・第6位)にあたるハリー王子とメガン妃夫妻が、ウィンザー城で挙式してから約2年半。今年1月8日、夫妻は英王室から離れ、経済的にも独立することを突如発表し、英国内は当然ながら世界中に激震が走った。米国人で離婚歴のある女性との恋愛と結婚、英王室からの離脱――それはまるで、80年ほど前に世界を揺るがせた「王冠を賭けた(捨てた)恋」を彷彿とさせる出来事だ。今週号と来週号の2回に分けて、そのエドワード8世とウォリス・シンプソン夫人の恋と退位劇に迫ってみたい。

●サバイバー●取材・執筆/吉田純子・本誌編集部

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気さくな王子は勉強が苦手

1894年6月23日、ヴィクトリア女王の孫ジョージ5世とメアリー妃夫妻の長男として、リッチモンドパークに建つ王室所有の私邸「ホワイトロッジ」で産声を上げたエドワード。厳格な両親のもとで愛情に飢えた幼少期を送るも、明るく快活な性格、社交性や好奇心に溢れ、リーダーシップも持ち合わせた、まさに「王子様」のような少年に育った。とくに、同じ年頃の異性に対してはまったく物怖じせず、じゃれ合ったり、いちゃついたりするような、ませたところがあり、子供の頃からプレイボーイの片鱗を見せていたとされる。

海軍兵学校時代のエドワード。祖父が亡くなり、皇太子教育が始まったため、卒業はできなかった。

13歳で海軍兵学校に進学し、厳しい規律や過酷なトレーニング、初めての寮生活、いじめなども経験したが、決して身分を鼻にかけず、やや「能天気」ともいえる大らかさが功を奏し、次第に周りに人が集まるようになっていった。しかしながら、幾何学、三角法など、海軍兵には必須の数学が大の苦手で、成績は常に悪く、彼自身も「海軍軍人には向いていない」ことを自覚していた。

20歳となった頃、第一次世界大戦が勃発。後に自責の念を込めて回想しているが、エドワードは当時、戦争を「冒険心を掻き立てる刺激的な出来事」としか考えておらず、戦争に参加すること、今まで飾り物でしかなかった武器を使えることに心を躍らせた。実際は、皇太子という立場から戦場に出ることはかなわなかったため、最前線を可能な限り訪問し、負傷軍人らを見舞うことで戦争に関わっているという充足感を味わうしかなかった。

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欧州屈指のプレイボーイ

当時18歳だった皇太子時代のエドワード。社交的で容姿端麗な王子として、多くの女性たちの人気を集めた(1912年)。

戦後も英国領や植民地を訪問し、父ジョージ5世の代役として世界中を訪問したエドワードは、持ち前の人懐こい性格と端麗な容姿、しかも「未婚の皇太子」という身分が一般大衆に受け、いつの間にか最もメディアを賑わす「国際的スター」となっていた。彼を追い回すメディアの数は、膨れ上がる一方だった。

王族として初めて煙草を吸っている姿を写真に撮られたり、ラジオ放送に出演したりしたのもこの頃だ。エドワードは身分という垣根を自ら取り払い、一般市民と気軽に言葉を交わしたり、王族が通常しないようなこともあえてしてみたりし、そんな型破りな態度が人気に拍車をかけたのである。

一方、当然ながらエドワードは多くの女性、しかも既婚女性と浮名を流すようにもなっていった。議員夫人、貴族女性、女優、歌手と交際範囲は広く、その派手な女性遍歴から「ヨーロッパで屈指のプレイボーイ」「世界で最も魅力的な独身男性」というレッテルまで貼られるようになる。

愛人の座を奪われる

こうして自由な独身生活を送りながら、30代も後半に差し掛かった1931年、エドワードはついに「ファム・ファタール(運命の女性)」となるウォリス・シンプソンに出会う。紹介したのは他でもない、当時愛人だった子爵夫人。ウォリスの米国人らしい快活さ、知的でウィットに富む話しぶり、将来の国王であることを度外視したあしらい方は、彼の目にきわめて新鮮に映った。

いつも3人で会っていたが、愛人の子爵夫人が「私のいない間、彼をよろしく頼むわね」と、ウォリスに託して小旅行へ出かけたことが転機に。彼女が旅先から戻ってきた時には、2人はすでに懇ろな関係となっていた。

恋に堕ちた次期国王

1896年6月19日、米国で生まれたウォリスは、生後まもなく父親が他界したことで、母親が女手ひとつで育てた娘であった。上流階級社会で育ったものの、周りは常に自分より良い服を着て、良い家に住んでいる子供ばかりで、「経済力のある男性と結婚すること」が幼少時代からの夢だった。

しかし、19歳で結婚した海軍中尉はアルコール中毒で女癖が悪く、10年後に離婚。その後まもなく、船舶会社を経営するアーネスト・シンプソンと再婚した。アーネストの父親は英国人の企業家で、英国の社交界とつながりのある華やかな結婚生活に、ウォリスも満足していた。そして友人となった子爵夫人を介してエドワードと知り合い、見事に「愛人」の座を射止めたのである。ウォリスの夫も、自分の妻が皇太子のお気に入りであることに鼻を高くし、円満な「三角関係」を楽しんでいたはずだった。

ところが、エドワードは違った。ウォリスとの出会いを境に、まるで媚薬を盛られたかのように、これまでの女性遍歴にピリオドが打たれたのだ。

ウォリスは決して絶世の美人ではない。しかし、条件の良い男性を射止めるために会話術やダンススキル、ファッションセンスなどを磨いていたこともあり、知的で魅力的な女性であったという。新聞や経済誌をくまなく読み、政治、経済はもちろんのこと、あらゆる話題にも精通していた。そして、至近距離でじっと相手の目を見つめて話すため、彼女と会話をしていると、多くの男性がまるで自分が崇高な人間にでもなったかのように自尊心が満たされた。

同時にウォリスはまた、自分のやりたいことをする、手に入れたいものを意のままに欲する女性でもあった。エドワードの機嫌を伺うこともない、慇懃無礼で支配的ともいえる態度は、彼にとって他の女性にはない強烈な魅力に感じた。なじられたり叱られたりするほど、彼女に依存していき、15分でもウォリスが席を外せば、彼女の姿を探しはじめるほどだったという。

エドワードはウォリスと連れ立ってどこへでも出かけるようになり、次第に彼女を生涯のパートナーとして考えるようになっていった。

王冠か愛する女性か

ウォリスとの「不倫」スキャンダルは、英王室や英政府にとって深刻な問題となった。1日も早くエドワードの熱が冷めることを祈ったが、王室関係者がウォリスを「ただの友人」として扱えば扱うほど、エドワードの愛は燃え上がっていく。

そんな中、1936年1月20日、父ジョージ5世が崩御。エドワードは、41歳で独身のまま王位を継承した。

ユーゴスラビアでウォリスとともに休暇を過ごすエドワード8世。国王に即位した後も、堂々とデートしていた(1936年)。

国王となっても2人の交際は続けられ、堂々と王室関連行事にカップルとして現れたり、王室の夏の休暇先として知られるスコットランドのバルモラル宮殿を避けて、地中海へとアバンチュールに出かけたりするなど、2人の行動は世界中から注目された。この「禁じられた恋」の行方を騒ぎ立てたのである。

英国国教会の長でもある国王にとって、離婚歴のある女性との結婚はご法度。英国国教会では離婚は認めているものの、元配偶者の存命中に教会で再婚することは認められていない(チャールズ皇太子とカミラ夫人もウィンザー市庁舎で挙式している)。

米国人女性で離婚歴があり、しかも2度目の結婚生活が続行中のウォリスと結婚を果たすことは、普通に考えれば難しい。エドワードの前に提示された選択肢は3つだった。

  1. ①ウォリスとの結婚を諦める
  2. ②王室や政府の意見を無視し、国家に大混乱を招くことを覚悟で強引に結婚する
  3. ③退位して王室を出てから結婚する――。

そしてクリスマスが目前に迫った12月10日、「1人の女性ごときのために王冠を捨てるはずがない」と悠長に構えていた英国民のもとに、驚愕のニュースが飛び込むことになる。

週刊ジャーニー No.1125(2020年2月20日)掲載