■大英博物館の数ある展示室の中で、最多の閲覧者数を誇るのが、ギリシャのパルテノン神殿を飾っていた大理石彫刻、通称「エルギン・マーブル」が並ぶ「パルテノン・ギャラリー」だ。19世紀に英国大使エルギン伯爵が持ち帰って以降、いまだに英国とギリシャの間で返還をめぐる議論が交わされている『いわくつき』の逸品でもある。将来を約束された若きエリート外交官が、なぜ「略奪者」に変貌したのか? 前後編に分けて、伯爵の生涯とエルギン・マーブルの数奇な運命をたどる。
●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部
幼き伯爵の誕生
エルギン伯爵家は11世紀までさかのぼるスコットランドの名家で、後に「略奪者」となるトーマス・ブルースは代々の邸宅「ブルームホール」で1766年、第5代当主の次男として産声をあげた。ところが、間もなく父親が急逝。長男が爵位を継ぐものの、その2ヵ月後に彼も死去してしまう。こうしてトーマスは第7代エルギン伯爵(以降、エルギンと記す)を突如踏襲することになり、わずか5歳で幼い両肩に重責を背負うことになった。
夫と長男をたて続けに亡くした母親は、思い出の詰まったブルームホールでの生活に耐えられず、息子を連れてロンドンの実家に身を寄せた。銀行家の一人娘であった母親は、夫を亡くしても経済面で苦労することはなかったようで、エルギンは溺愛されて育っている。彼の人生の歯車が狂っていく要因のひとつとなる「経済観念の欠如」は、この頃に培われていった。
語学面で才能を発揮したエルギンは、外交官を目指した。フランス語やドイツ語のほか、ラテン語、ギリシャ語に至るまで優秀な成績を修め、大学卒業後は英陸軍に籍を置きながらヨーロッパを転々とし、語学力に磨きをかけていった。そして1790年にはスコットランド上院議員に選出され、その翌年、いよいよ念願の外交官デビューを飾るチャンスがめぐってくる。
語学力を武器に出世
1791年、20年にわたってオーストリアに駐在していた英国公使が病に倒れたとの連絡が、英政府のもとに飛び込んでくる。高齢の公使の代理として、早急にウィーンへ行ける人物を探した政府が白羽の矢を立てたのは、語学が堪能と評判のエルギン。実力を認められたエルギンはその後、特命公使としてブリュッセルやベルリンへも赴き、着々とキャリアを築いていった。
当時のヨーロッパでは、英仏両国の対立が年々激化していた。そうした中の1798年、英国とその植民地インドとの交易を絶ち、経済的打撃を英国に与えようと目論んだナポレオンが、フランス軍を率いて交易の中継地点であったエジプトに侵攻。エジプトはオスマン帝国の支配下に置かれていたため、オスマン帝国はフランスに宣戦布告する事態となった。一方、ネルソン提督率いる英海軍もエジプトへ向かい、フランス軍を見事撃破した。
これを機に、オスマン帝国と手を結んでフランスを弱体化させようと考えた英国は、オスマン帝国の首都コンスタンティノープル(現トルコ、イスタンブール)へ大使を派遣し、友好関係を築こうとする。その初となる特命全権大使に、エルギンが抜擢されたのだ。己の前に開けている華々しい未来を、彼は疑いもしなかったに違いない。
一大プロジェクトの始動
実はこの時、エルギンには仕上げ段階に入っている計画があった。それは、父と兄が亡くなって以降放置されていたエルギン家の邸宅、ブルームホールの再建である。
改築を任された建築家トーマス・ハリソンはローマで古典建築を学んでおり、特にギリシャ建築や芸術への造詣が深いことで知られていた。ラテン語やギリシャ語を解し、古典文化に憧憬を抱いていたエルギンとハリソンはすぐに意気投合。そしてハリソンが呟いたある一言が、エルギンの進む道を大きく変えることになる。
「真の古典建築はアテネにあり、ローマの建築物はその複製でしかない。だが、芸術家やそれを学びたい学生が満足するような知識は、英国には伝わってこないんだ」
この言葉は、エルギンの心に火をつけた。本物のギリシャ建築や彫刻を、誰もが簡単に見られるようにしたい。その素晴らしさを知ってほしい。そのためにはどうすればいいのか…? エルギンのトルコ赴任が決まったのは、そんな時であった。
「腕のいい画家をアテネに連れて行って写生させ、建築装飾の型をとってレプリカをつくり、それを組み合わせて英国で再現してみてはどうだい? トルコとギリシャは近いし、君なら出来るかもしれない」
ハリソンからの提案を受け、エルギンはすぐさま行動に移す。彼が向かったのは、英政府の上層部。英国の文化水準向上のためにこの計画がいかに重要であるかを説き、国家的なプロジェクトとして政府が着手するべきだと熱心に進言した。だが、政府の反応は冷たかった。
「そのような不明確な性格を持つ事柄に対する出費を、我々は認めることはできない」
しかし、エルギンの決意は揺らがなかった。政府が同意しないのなら、私財を投げ打ってでも自分がやるしかない。幸運なことに、ちょうどスコットランドの資産家の娘と結婚したばかりだった。費用は多額になるだろうが、なんとか工面できそうだ――。強い使命感とギリシャへの情熱に燃えたエルギンを止められる者はいなかった。
悲嘆にくれる調査団
1800年、エルギンが集めた選り抜きの調査団がアテネに意気揚々と到達した。ところが、そこで彼らが目にしたのは、想像を遥かに上回る荒廃したパルテノン神殿の姿であった。
紀元前432年に完成したアテネの守護神「知恵と戦の女神アテナ」を祭ったパルテノン神殿は、アクロポリスの丘にたたずむ神殿群の頂点にたち、古代ギリシャ建築を今に伝える最も重要な建築物である。しかし長い刻を生き抜く中で、数え切れないほどの損傷を負ってきていた。
6世紀にキリスト教(ギリシャ正教)が伝播した際には、神殿はビザンチン様式の教会に改装された。祭壇に据えられた12メートルにもおよぶアテナ像は解体され、祭壇後方部の天井も壊されてしまった。その後、カトリック系の聖母マリア教会となった時代を経て、15世紀のオスマン帝国の侵略時には、モスクに変身。この時点ですでに内装は原形を留めていなかった。
そして17世紀に最大の悲劇が訪れる。オスマン帝国軍の火薬庫として使われていた同所は、ヴェネツィア共和国軍からの攻撃により爆発炎上。屋根が吹き飛び、壁は一部を残してすべて倒壊、装飾彫刻の約6割が失われてしまった。ヴェネツィア兵らは神殿彫刻を持ち帰ろうとしたが、取り外し作業を行っている間にそれらが崩れ落ちて諦めたという。18世紀に入って、上流階級の子息による見聞を広めるためのグランド・ツアー(長期旅行)が盛んになると、旅行者が大理石のかけらを記念品としたり、影で売買されたりして国外へ持ち出されていった。
調査団が見たのは、こうしてすっかり荒れ果てたパルテノン神殿だったのである。
「蛮行」の決断
調査団は気を取り直し、神殿で写生や石膏の型取りにとりかかった。イスラム教徒であるトルコ人にとって、異教徒の文明の遺産である神殿や彫刻は重要なものではなかった。そのため、トルコ政府の許可さえ得られれば、いくらでも大規模な調査や収集作業を行えたのである。
エルギンはオスマン帝国の皇帝に直訴して、調査許可書を発行してもらっていたが、その文面では神殿の写生・型取りや発掘の許可のほか、なんと石板や彫刻、碑文などを持ち去ることまで認められていた。エルギンは当初、そこまでする予定はなかった。しかし、戦火や旅行者によって神殿が消滅の危機に陥っているという報告をトルコで受けたエルギンは、考えが一変。彫刻を取り外し、英国へ持ち帰る指示を調査団に出した。
「貴重な文化を守るためには、出来る限りこれらを持ち出すしかない」
使命感にかられたエルギンにとっては、これが自分にできる「最善」だった。こうして神殿の彫刻は英国へ渡ることになるが、その途中で大きな事件が待ち受けていた。
週刊ジャーニー No.1132(2020年4月9日)掲載