○●○ タイムズ紙による『メッタ切り』 ○●○ 

 

  徐々に資金集めも軌道に乗ってはきたが、メアリーはもっと多くの人々にホームのことを認識してもらう必要があると考えた。ホーム存続に必要なのは、資金はもちろんのことだが、多くの人々にその存在を認めてもらうことだった。犬たちが施設に持ち込まれ、その犬たちが新たな飼い主に引き取られていく、そうした流れが必須だったためである。そこで1860年の10月、ホームの設立趣意書を発行する。そこに記されたのは、「いかなる状態の犬も保護する」「彼らを必要とし、世話ができる人々がいれば受け渡しを行う」など現在に続くホームの基本姿勢。そして「このホームを知ってもらうための広報に協力してほしい」という懇願を揚げた。
 この趣意書は、メアリーの地元イズリントンはもちろん、ロンドン、スコットランドなどの地方紙でも取り上げられる。好意的に取り上げる媒体もあれば、「イズリントンではなく、Kenilworth(Kennel=犬小屋の発音にかけた)に設立されるべきだ」などと、皮肉交じりにさげすむ媒体もあった。
 しかし、最もホームにとって大打撃となったのはタイムズ紙の誹謗記事だった。「馬鹿げた感傷趣味」「野良犬たちを救う価値がどこにあるのか」―。辛辣な言葉のオンパレードであったのみならず、寄付者名簿に掲載された人々までも非難された。同紙は英国で、いや当時は世界で最も影響力を持った新聞だった。言うまでもなく、まだ弱小でしかなかったホームへの世間からの風当たりは一層強くなっていく。ホームはその記事への抗議文をタイムズ紙に送ったが、掲載は拒否されてしまった。
 

○●○ 絶体絶命の立ち退き通知 ○●○ 

 

 もちろんこの記事によるダメージは甚大だったが、それでもメアリーはひるまなかった。1860年の11月末には「Home for Lost and Dogs Starving Dogs」という名称で保護施設をビジネスとしてスタートさせる。
 しかし、翌年の春までにホームは様々な決断を下さねばならなかった。新しい施設でも再び犬たちの収容スペースが足りなくなってしまったのだ。これに対し、メアリーたちは新たなルールを作らざるを得なかった。「14日以内に引き取り手の現れない犬は、委員会によって売りに出すか、処分を行う(※後に40匹以上に達した場合という条件が加わる)」―。それまでも、世話をできなくなった犬をやむを得ず処分したり売りに出したりすることはあったにしろ、14日という期間は短か過ぎる。これはメアリーたちにとってあまりに無念な決断であった。だが、現状が改善されない限り、理想を追い求めることが どれほど困難かを思い知らされる出来事でもあった。さらには、犬の数が増えるにつれ改装にも着手せねばならず、資金繰りがますます苦しくなっていった。
 それに追い討ちをかけるように、1861年夏、大家からホーム立ち退きの通知が飛び込んできた。家賃が割に合わなかったためか、犬たちの騒音に近隣住民からの不満の声が絶えなかったためか、なぜ大家がそのような通達を出したのかははっきりしていない。しかし、どれほど説得を試みようと大家の意思は変わらなかった。今の施設で存続させるには「買い取り」しか方法がなかったのである。
 メアリーらは早急に資金を集めるために、寄付者に手紙で協力をあおいだ。しかし、トラブルは続くもので、寄付金を管理していた担当者がホームに集まった資金を横領していたことが発覚。すぐに当人に横領した金の返還と解雇を命じた。
 ほかにも、メアリーたちはありとあらゆる手段で資金集めに奔走する。飼い主が家を開ける間にその犬の世話をする、ペットホテルのような有料サービスを始めたこともその1つだった。そのような地道で懸命な努力の甲斐あって、寄付金やホームへの評判は上向きつつあった。しかし、それは本当に終わりのない、自転車操業。1862年、ホームは何とか存続を続けてはいたが、月日を重ねるにつれ、借入金も増え、スタッフの給料もまかなうことさえ危ういほど、厳しい経営状態に追い込まれていた。 生半可な気持ちで始めたのであれば、さじを投げてしまいたくなるような状況だが、メアリーは屈することがなかった。しかし、「このままではまた何かあったときにこれ以上存続させることができない。どこかでこの流れを変えなくては…」。メアリーの心は休まるひまがなかったことだろう。