○●○ ミステリアスな人生 ○●○ 

 

  バタシー・ドッグズ&キャッツ・ホームの創始者とあって、メアリーについては数多くの文献が残されているのだろうと思いきや、その人生は謎に包まれた部分が多い。オックスフォード辞典の『National Biography』にも「若き日の記録はなし」とつづられている。メアリーに関連して残されている写真もなく、あるのはホームの議事録に記されたサインのみ。その容姿は想像するしかない。
 それでも彼女について分かっていることを追っていこう。1801年12月30日、英国ののどかな田舎町、ケンブリッジシャーにあるハンティングドンHuntingdonにメアリー・ベイツMary Batesとして誕生。
 1829年、彼女の28歳の誕生日に、ヨークシャーのハルHullに住む木材取引会社の一人息子、ロバート・ティールビーと結婚する。聖職者となった弟、エドワードがその結婚式の牧師を務めた。使用人2人がついたロバートとの優雅な暮らしが始まり、幸せな家庭を築いていけるはずだった。
 しかし、ティールビー家には複雑な家庭事情が潜んでいた。1812年、当時60歳だったロバートの父親は、ロバートの実の母である女性との27年に渡る結婚生活の後、「結婚時に妻は21歳に達しておらず、父親の許可なしに結婚した」といういわば言いがかりをつけ、「結婚無効」としていたのだ。当時における離婚は、制度自体はあったものの、その行為は世間的に許されないものだった。そのわずか3週間後、父親は30歳も年下の女性、エリザベス・ドーソンと結婚する。その時、ロバートはまだ11歳。それはとても受け入れがたい事実だったに違いない。彼はその後も実母との深い絆を決して絶やすことはなかった。
 そのような家庭環境もあり、メアリーはティールビー家に温かく迎えられたわけではなかった。さらに、1838年、ロバートの父親の死後には、妻のエリザベスが会社の会計を握るようになる。会社は幾度となく訪れた経営危機を何とか乗り越えるも、1860年、エリザベスは経営権を一人息子のロバートから奪ってしまう。
 これらの家庭、経済事情が原因だったかは定かではないが、メアリーとロバートは1850年代から別居状態にあったようだ。メアリーの家族はハンティングドンから北ロンドンのホロウェイHollowayのヴィクトリア・ストリートVictoria Streetに数年前に引っ越しており、メアリ
1860年、北ロンドンのホロウェイから施設は第1歩を踏み出す。
ーもそこで暮らすようになる。それは1854年に胃潰瘍で亡くなった母の看病のためとも思われるが、それだけではなかったとされている。母の死後もメアリーはロバートの元に戻ることはなく、父や弟と共に暮らすようになる。
 ティールビー夫妻の愛が冷め切ってしまっていたことは間違いないだろう。それぞれの遺言状にお互いの名前がでてくることは一切なかったことからもそれは容易に想像できる。ロバートは会社から引退した後もメアリーと一緒に住むことはなく、1862年の彼の死後、遺産は彼のパートナーとなっていた家政婦の女性に相続されたという。
 しかし、前述したようにまだ離婚という決断は世間的に認められない時代。彼らも離婚をすることはなかった。その結婚生活が終わったことはもちろん周囲の目にも明らかだったが、彼女は自らその事実について語ることはなかった。
 だからといって、メアリーは世間に出ることに臆するような女性ではなかった。むしろその逆で、母親の死から数年たった後、彼女はRSPCAへの参加など社会的活動に大きな興味を示すようになる。その中で意識するようになった、街にあふれる野良犬たちや虐待を受ける犬たちの救済―。本来、夫へ向けられるはずだった愛情を別のもの、即ち犬たちへと注いでいくようになる。
 

残酷な過去の裏返し 19世紀までの英国の動物愛護の歴史
 16~19世紀の英国において「動物いじめ」は階級を問わず、一級の娯楽であった。同じ動物同士を戦わせるドッグ・ファイティング(闘犬)、闘鶏、闘馬…。このほか、杭に鎖でつながれた熊や牛を数匹の猛犬に噛みつかせる熊いじめ、牛いじめにおいては、宮廷で催された宴会でも余興の1つとして大いに楽しまれていたという。ロンドンには、テムズ河の南バンクサイドやシェークスピア・グローブ劇場のそばなどに、熊いじめの常設場(bear garden)が数ヵ所設置されていた。 これらの慣習に対し「残酷すぎる」「英国民が野蛮人になってしまう」との声が上がりだしたのは、18世紀頃。それまでは「動物は機械・道具」というデカルト(仏)やカント(独)といった哲学者の考えがまかり通っていたが、英哲学者、ベンサムにより「動物も痛みを感じる、苦痛を受けない権利がある」という認識が広がり始めた。 大きな転機となったのは1822年にリチャード・マーティン議員の尽力により、英国議会で制定された「マーティン法(家畜等の虐待防止法案)」。この法案を元に、1835年のドッグ・ファイティング、牛いじめ、熊いじめなどの禁止法などが生まれていった。ただ、これらの法案が適切に施行されなかったこともあり、マーティン議員や知識人たちにより、1824年、動物保護チャリティ団体SPCA(後のRSPCA=The Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals。1840年にヴィクトリア女王の支援を受け、Royalの冠を得た)が設立された。1876年には、動物実験への制限も盛り込んだ動物虐待防止法が、児童虐待防止法(1889年)よりも早く登場している。 ちなみに1822年のマーティン法や1876年の動物虐待防止法は、議会で制定されたという意味で動物愛護に関する法の先駆けと言われている。しかし、5代将軍、徳川綱吉の「生類憐みの令(1685年~1709年)」の方が断然早い! と主張したくなるのは、日本人なら筆者だけではないはず…?

 

○●○ 不可能を可能に ○●○ 

 

 キッチン横の食器部屋で犬たちの保護活動を始めたものの、数匹の犬ですぐに手狭になってしまう。また、近所の住民たちからも「犬の鳴き声がうるさい」と苦情が寄せられるようになった。
 そこでメアリーは、新たに保護施設の場所を探すことにする。そこで目に留まったのが彼女の家の近く、ホリングズワース・ストリート Hollingsworth Streetにあった小さなアパート(Mews)の中の一画。そこは健全な場所とは言い難かった。太陽が遮られ、湿気が多く、治安の悪さでよく知られた地域。しかし、そこの家主が犬たちのために家を貸すことに同意してくれたため、メアリーは、その地で新たな保護施設「Home for Dogs」をスタートすることを決意する。
 ただし、問題は山積みだった。何より大きかったのは資金の不足。どんなに犬たちへの愛情や情熱があったとしても、現実問題、犬たちの世話をするには施設の維持費、えさ代、薬代など、多くの資金が不可欠だ。見つけた犬たちを施設に連れてくるための運搬費もかさんだ。
 しかも、どんなに世話をしたからといって、収入が得られるものでもない。メアリーの家が資産家であればその資金をまかなえようが、父親と弟の年金で暮らし、夫とも決別したメアリーにどう考えてもそのような余裕はなかった。誰からかの援助がなければ、到底継続できない事業だったのだ。
 ただし、明らかに困難を極めるであろうその計画が、犬好きの女性による夢に過ぎなかったかというと、そうではなかった。彼女の思い切った試みは、時代の風に乗りつつあった。
 まずは前述したRSPCAの働きにより、動物愛護の動きが盛んにな
1860年代、創設当初のホームは、様々な困難が襲いかかる中、犬たちを守るべく大奮闘した。
り始めていたことも幸いした。また、1859年に初版が発行されたチャールズ・ダーウィンの『種の起源』の中で、ダーウィンの飼い犬が、彼が5年間帰らずとも彼のことを覚えていたエピソード、あるいは忠犬を題材にした小説や詩が話題となり、人間と動物とのつながり、家族の一員としての犬の存在を人々が認識し始めた時代だったこともプラスにはたらいた。さらに同年には、ニューカッスルで世界初のドッグ・ショーも開かれている。
 加えて、1853年に勃発したクリミア戦争で多くの兵士たちを看護し、救ったフローレンス・ナイチンゲールの存在も大きな意味をなした。彼女に代表される人道的チャリティ活動を行う女性たちが目立ってきたことも、メアリーの活動を後押しした。
 とはいえ、もちろんじっとしているだけで資金が入ってくるはずもない。彼女はどのように「資金調達」の難題を乗り越えたのか。まず、ロンドン社会に幅広い人脈を持つ、弟のエドワードやその友人、長年の友人、サラ・メージャーの助けを借りた。貴族、聖職者、退役軍人、女性資産家…、様々な有力者を紹介してもらい寄付を募った。彼女の大志や熱意に心動かされ、徐々に寄付金が集まるようになる。また、地道な街頭での寄付呼びかけも欠かさなかった。サラたちも一緒に募金の呼びかけを行ったが、いつもメアリーは彼女たちの倍以上の額を集めていたということからも、彼女がどれだけ情熱的に活動していたかが伺える。 そして、RSPCAが寄付受付の窓口となり、必要があれば、助言を与えてくれたことも大きな助けとなった。