番外編 ロンドンゆえの海外マジック
 ロンドンという、日本とは異なる環境ゆえに、いつもとは異なる判断を下してしまうことがある。次の2つのケースに共通していえるのは、「なんだか、面白くない」「なんだか、つまらない」という漫然とした不満を感じていた点といえるかもしれない。

 

 

アーチウェイ在住 F代さん(32歳)のケース
 F代さんは、ロンドンで働き始めて4年、仕事に追われる日々を送っている。仕事が安定しているのは良いのだが、異国での暮らしにもほぼ慣れ、日々の生活に変化がないことに対して物足りなさを感じるようになっていた、とF代さんはその時のことをふり返る。
 「なんだか、面白くない」
 女性の友人といっしょにいったあるバーで、英国人男性G氏に会ったのはちょうどそんな時だった。翌朝、仕事が早いからと友人は先に帰ったが、F代さんとG氏はその後もしばらくふたりでドリンクを楽しんだ。60歳前後と思われるG氏は、一方的に自分のことをしゃべるだけでなくF代さんの話にもじっくりと耳を傾けてくれ、気の利いたコメントをさしはさむ、いわゆる紳士タイプ。やがて、彼が「私のフラットがここから歩いて10分ぐらいの所にあるんだが、コーヒーでも飲んでいかないか」と提案した。時刻は午後10時半ごろだったとF代さんは記憶する。
 コーヒーだけ飲んで、11時過ぎには帰途につこう、そう計算してその申し出を受けることにした。
 G氏のフラットは、住宅街の一角にあった。かなりのきれい好きらしい。適度にモダンなインテリアが揃えられ、こざっぱりとした雰囲気にまとめられていた。
 「ちょっとトイレを借りますね」
 F代さんはそういって、バスルームに入った。バスルームもこまめに掃除されているようで好感がもてた。
 ところが、手を洗ってバスルームから出てきたF代さんの目に驚愕の光景が飛び込んできたのだった。ズボンをおろしたG氏が、立ったまま自慰行為を始めていた。
 「キミは見ててくれるだけでいいから」
 F代さんは、「No way!」と叫ぶやいなや、バッグとコートをひっつかみ、G氏の横をすりぬけて玄関から走り出た。そのまま駅まで早足で向かったが、後ろからついてくる足音がないか、何度もふり返った。地下鉄に乗り込み、あいている座席に座ったものの、まだ心臓がバクバクと音を立てていた。

 

アクトン在住 H子さん(29歳)のケース
 学生としてロンドンに暮らすようになって3年目。難しいかも、と心配していた学生ビザの更新も無事に終わり、ひと安心。午前中はトテナムコート・ロードにある英語学校でアドバンスのコースをとり、その後は英語学校でインターネットをしたり、友人とカフェでおしゃべりを楽しんだり、気が向けばナショナル・ギャラリーや大英博物館(ともに無料なのでありがたかった)に行ったりして時間をつぶし、午後5時からはウェストエンドにある日本食レストランでウェイトレスとして働く。そんな、やや単調な毎日が続いていた。ロンドンに来て1年目は、すべてが新鮮で、新しい発見の連続。学校とアルバイトで毎日とぶように過ぎていったが、ワクワクした気持ちを感じることができていた。だが、学生として3年目。労働許可証をとってもらえる、という夢のような話もなく、友人との話にもグチが多くなるようになっていた。
 「なんだか、つまらない」
 学校もアルバイトも休みの土曜日の昼下がり。ある日系店で買い物をしていたH子さんは、オーストラリアから来たというJ氏に声をかけられた。「ミソ・スープを作りたいんですが、何を買えばいいかアドバイスしてもらえませんか」。ロンドンに来て、すっかり日本食のファンになったというJ氏は40歳前後に見えた。英語もわかりやすく、「いい英語の練習になる」と思ったH子さんは、いっしょに映画を見にいくことに同意した。
 ちょうど、見たいと思っていた『シャーロック・ホームズ』をウェストエンドの映画館で鑑賞。映画代はJ氏が出してくれるというので、最初は迷ったが、好意に甘えることにした。
 映画を見終わって外に出てみるとまだ午後5時過ぎ。中途半端な時間だ。
 「僕のフラットは、ここからバスで10分ほどなんだけど、お茶でも飲みにきませんか」
 まだ時間も早いし、お茶くらいいいかな、と思ったH子さんはJ氏といっしょにバスに乗り、フラットに向かった。
 便利なところだが、静かな住宅街とはいえないエリアにJ氏のフラットはあった。背の高い、カウンシル・フラットだ。J氏もそれを気にしているらしく、彼の大家がカウンシルからこのフラットを購入し、彼はそれを借りているとわざわざ説明してくれた。
 中に入ってH子さんは言葉を失った。あまりに乱雑、雑誌や空のパッケージなどが床に散乱し、いつ掃除したのかわからない有様で、キッチンには使ったまま洗われていない食器が無造作に置かれていた。
 「こんなところでお茶を飲むなんて、ありえない」
 清潔好きのH子さんは、「ごめんなさい、気が変わったので帰ります」とJ氏に、できるだけ丁寧にそう告げた。しかし、今まで温和に見えたJ氏の態度が豹変した。
 「ここまで来ておいて。やるべきことがあるだろう」
 と強い口調で言われたが、H子さんは、「No!」というなり、玄関まで思いっきり走った。運良く、ドアはすぐにあき、H子さんはそのまま目に入った非常階段をかけおりた。J氏のフラットが高層階ではなく、3階にあったのも幸いだった。H子さんは、バスの走っている大通りまで息を切らしながら走った。J氏の姿が見えないのを確認してからバスに乗り込み、ウェストエンドに向かったが、友人に携帯で連絡しようとキーパッドを押す指のふるえは止まらなかった。