「私たちと少しも違わない」義母との対面

 大会での仕事を無事終えた恒子は、義母の住む小さな町を訪れた。古びた駅には迎えの御者が待っていて、花々が美しく咲き誇る館へと連れて行ってくれた。
 期待に胸おどらせながら義母の部屋をノックすると、答えがあった。中に入ると、老婦人がこちらに背を向けて座っている。振り返る気配もないので「お会いできて光栄です。エドワードも子供たちもくれぐれもよろしくと申しておりました」と思い切って英語で話しかけると、老婦人はゆっくり、こわごわという感じで振り返り、恒子の顔を見て、ほっとしたように「あなたは少しも私たちと違わない」とつぶやいた。なんと義母は、広重の浮世絵に描かれた女性のように、日本人である恒子の目は「たて」についているかと思って、内心おびえていたのだという。とんだ初対面になったが、恒子は義母とすぐにうちとけ、1ヵ月半もの時をこの小さな町で過ごした。その間、矯風会の関係で講演に呼ばれて様々な場所に行ったが、義母にはいつもどこに何をしに行くのか説明し、戻ってからはその仔細を報告した。
 その間、スイスのジュネーブに遠征し、婦人参政権に関する講演を聞いた恒子は、女性が政治に参加して世界平和のために力をつくそう、という呼びかけに強い感銘を受けた。帰国後、彼女はさっそく婦人参政権獲得のための組織作りをしている。日本女性が参政権を獲得するまでにはかなりの時を要したが、市川房枝などを中心とした組織の他に、恒子たちの矯風会の流れを汲むグループもあり、それぞれ女性の国政参加のために力を尽くしたことは記憶に留めておきたい。
 初渡欧はこうして様々な意味において実りの大きいものとなり、恒子は以後、1928年にホノルル、1930年にワシントン、同年さらにオランダのハーグ、1934年ふたたびホノルルと、国際的な矯風会大会や婦人会議に出席するためにたびたび渡航することになった。日本の妻たちが、ちょっとの外出でも夫に気兼ねしなければならなかったこの時代、常に恒子を快く送り出してやり、その間留守を預かったエドワードの『内助の功』も、認めてしかるべきだろう。
 どの大会でも議題に出されたのは、世界中の女性たちがいかに協力し合って世界平和を保っていくかということであったのだが、そうした思いに反して大戦へと向かっていく流れはどうにも止めることができず、国々はそれぞれの思惑により対立関係を深めていく。「国際結婚」をしていたエドワードと恒子にとっては、新たな試練の時代の幕開けであった。
 

スパイ容疑

 ドイツ軍のポーランド侵攻、英・仏の対独宣戦から始まった第2次世界大戦により、日本と英国ははからずも敵対関係になってしまう。1940(昭和15)年、恒子と共に日本に帰化していたエドワードは、母国と戦うことになったのであり、その心痛は察するに余りある。
 恒子と子供たちは戦況に関するニュースをできるだけ彼の耳に入れないように心を配った。不愉快な投書が相次ぎ、さらには特別高等警察がガントレット家を見張るようになる。エドワードが何らかの手段を使って、日本の内情を英国に知らせるのではないかと疑っているのだ。どのようなたわいもない小さいことからスパイ嫌疑がかかり、連行されてしまうことになるか分からない。もしそうなれば、無事に戻って来ることはできないかもしれない。また、一家と親しくしていた知人にまで、危害が及んでしまうかもしれない。神経をすり減らすような日々が続いた。
 ガントレット家には、遠く離れた英国の家族と連絡がとれるように「電話室」という部屋が作られていた。その部屋は家の奥にあったので、滅多に人に覗かれることはなかった。考えあぐねた恒子は、見張りが一番激しい時期、かわいそうだとは思いながらも、その部屋にエドワードをこもらせることにした。しかし、エドワードだけではなく、平和運動に長らく携わっていた恒子自身もやはりマークされていたので、戦争中、一家は完全に自由を奪われ、ただひたすら息を潜めて引きこもっていたという。
 辛く苦しい時であったが、救いは「ユーモアを大事に」というガントレット家の家風と恒子の明るさであった。苦労を苦労と見せない、感じさせない強さが彼女には備わっていた。そうして一家はこの戦争をも乗り越えることができたのである。1945(昭和20)年8月15日、終戦を迎えると、久しぶりに揃って戸外に出ることができたガントレット一家は、厳しい時代を何とか生き抜いたことを互いに喜び合ったのである。