試練の時

秋芳洞開発の祖、功労者として山口県美祢市立秋吉台科学博物館の入口にはエドワードの胸像が設置されている。エドワードは秋芳洞のみならず多くの鍾乳洞を探検、調査した。© 美祢市立秋吉台科学博物館  しかしながら、1907(明治40)年の春に金沢の第四高等学校に転任したエドワードは、土地の気候に馴染まなかったのか、そこで健康を害してしまう。医師の勧めによりロシアのウラジオストックで療養することにし、恒子はその間、エドワードの転任先を決めるために奔走した。山口高等商業学校に何とか勤務が決まり、療養から戻ってそこにしばらく勤めたエドワードは「秋芳洞」(現在、山口県の観光名所として名高い鍾乳洞)の学術的な調査を初めて行い、海外に紹介するという大きな功績を残した。そこに入れば生きては帰れない「地獄の穴」と恐れられた秋芳洞の難所を探検して、何事もなく戻ってくるやいなや「ジゴクカラブジモドツタ」という電報を、家で心配している恒子にあてて郵便局で打って、局員を大笑いさせたという。
 しかし、エドワードは山口でひどい頭痛に襲われるようになってしまう。医師の勧めにより、今度は米国で静養することになったが、医師の「とにかく日本を離れれば治る」という言葉に複雑な思いを隠せない恒子であった。
 エドワードが日本での生活をどのように感じていたのかを語る資料はないが、訪日後、エドワードが帰省したのはたったの2回という。母国にほとんど戻ることなく異国で暮らすことは、たとえ愛妻、愛児に囲まれていたとはいえ、時に寂しく、またストレスの多いものであったに違いない。ユーモアがあり、よくジョークを言い、明るかったというエドワードだが、体調を崩しがちだったのは身体の弱い恒子ではなく、彼だった、というところに異国で暮らし続けることの難しさが表れているようである。
 そして、5人の子供を抱え、夫の回復を待たなければならなかった恒子もさぞかし大変な思いをしたことだろう。やっと健康を取り戻したエドワードが、東京商業高等学校(のちの一橋大学)に招かれ、家族揃って15年ぶりに帰京することになった時には、心からホッとしたに違いない。
 帰京後まもなく末っ子のトレバーが誕生。2男4女の子育てに追われながらも、恒子は幼いころ世話になった桜井先生が校長をしている桜井英語専門学校や東京女子大学、自由学園などで英語を教え、また、矯風会の本部でも働くようになった。どこから時間を作り出しているのかと周りから感心されるほど精力的に活動したという。
 

ロンドンに向かう

 恒子はやがて矯風会の青年部長になり、会の中心的存在になっていく。明るく快活な恒子は「ガンさん」と周りから呼ばれて親しまれ、頼りにされたという。1920(大正9)年にロンドンで矯風会の万国大会が開かれることが決まった時には、日本からも代表を送ろうということになり、恒子が出席することになった。
 困ったのは、87歳の矯風会会頭・矢嶋楫子がどうしても自分も一緒に行くと言い出したことであった。会からは1名分の旅費しか捻出できないと説明してあきらめてもらおうとすると、自分の葬式代としてためた1万円を使うからと言ってきかない。幼いころ、やんちゃな自分のボサボサ髪を毎日結ってくれた愛情を思い、恒子は自分が世話を引き受けるということで矢嶋の希望をかなえることにした。
 そして、1920(大正9)年3月13日、恒子と矢嶋はシアトル航路の「鹿島丸」に乗船して大会に向かった。長旅の間、2段ベッドの上段に恒子、下段に矢嶋が横になり、大会で行う英語での挨拶の練習を毎晩繰り返したという。しかしながら、なんといっても矢嶋は高齢である。少しぐらい言葉に詰まったり忘れたりしても、それはそれで許してもらえるだろう。いざという時は自分が後を引き取って話そうと、恒子は考えていた。だが当日、矢嶋は世界30数ヵ国から集まってきた多くの聴衆の前で、恒子が教えたとおり、英語でよどむことなく堂々と挨拶をした。日本代表として、矢嶋はおそらく命に代えてもこのスピーチをやり遂げたかったのであろう。恒子は老齢になっても強い精神力をもつ矢嶋に改めて深い尊敬の念を抱かずにはいられなかったという。




後楽園にて恒子(左)と上代淑。上代は当時、岡山の山陽高等女学校の校長を務めていた。
1910年代の撮影。© 山陽女子中学校・高等学校

 

国際結婚の先駆者たち
ラグーザお玉(1861-1939)
幼い頃から絵を描くことが好きだった清原玉(きよはら・たま)が、美術学校の教師として滞日していたイタリア人彫刻家、ヴィンセンゾ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa, 1841-1927)と絵を通して知り合った時、玉はまだ15歳の可憐な少女であった。玉は自分の作品に対するラグーザの適切なアドバイスに驚き、彼に惹かれ、やがてそのモデルも務めるようになる。当時としてはかなり思い切った決断をして、明治15(1882)年、パレルモの工芸学校長に就任することになったラグーザと共にイタリアに渡り、教師として自ら水絵、蒔絵を教授。やがて、日本の両親の反対を押し切って20歳年上のラグーザと結婚し、イタリアに住み続け、新たに洋画を学び、ベネチアのビエンナーレほか数々のコンクールで入賞するなど画家として名をなした。ラグーザの死後、親戚の誘いで51年ぶりに日本に帰国した時、日本語はほとんど忘れてしまっていたという。日本を心から愛したラグーザの最後の言葉は「(もう一度)日本に行きたかったなあ!」であったとお玉は語っている。

  クーデンホーフ光子(1874-1941)
東京牛込の骨董商・青山喜八の娘であった光子(戸籍名みつ)と、オーストリア・ハンガリー代理公使として滞日していたハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の出会いはなかば伝説と化しているが、喜八の骨董店の前で落馬したハインリッヒを光子が介抱したのがきっかけといわれている。ハプスブルグ王家に代々仕えてきた名門の後継者と東洋の商人の娘との結婚は、特にクーデンホーフ家にとっては受け入れがたいものであった。承認を得ぬまま結婚生活に踏み切り、長男が生まれた年に、父親の死去によってハインリッヒが当主になるに至り、やっと正式に結婚することができた。
光子をモデルに命名されたともいわれるゲラン社の香水「Mitsuko」。ゲラン公式ホームページより。 明治29(1896)年、ハインリッヒに帰国命令が下され、光子は夫と子供2人とともに、はるか海を渡り、ボヘミアのロンスペルグ城でそれまでとは全く異なった生活を送ることになった。当初はクーデンホーフ一族になかなか認められず、望郷の思いに駆られる日々を送った光子だったが、7番目の子供が生まれる頃には、異国での暮らしに慣れて幸せを味わうようになっていた。ところが、そんな矢先、ハインリッヒがわずか46歳で逝去。その遺言により、すべての財産と子供たちの後見を託されることになった光子は孤軍奮闘を迫られる。7人の子供を育てあげ(次男のリヒャルトは、EU発想のもととなった「汎ヨーロッパ」思想を提唱したことで知られる)財産も守り抜いたが、その厳しすぎる教育方針から子供たちとの間に次第に溝ができ、晩年はたった一人手元に残った次女オルガの介護のもとにさびしく過ごしたといわれる。一時期ウィーン社交界の華と謳われ、サロンの中心的存在であった美貌の伯爵夫人ミツコは、心から望みながらも二度と日本の地を踏むことなく、太平洋戦争が起こる直前、その波乱に満ちた生涯を終えた。