入籍でたらいまわしに

 2人は、1898(明治31)年10月27日、芝栄町の聖アンデレ教会で結婚式を挙げた。新郎のエドワード側は、彼が親しくしている日本人や外国人が多く参列したが、新婦の恒子側は、実の母さえ当初は出席を拒み、何とか教会には来たものの、式の間中、親族席にうつむいて座ったまま、という状態であった。かりにも武士の血を引く娘が、異人の妻になることがどうしても許せなかったのだ。また、生徒の父兄への気兼ねからか、恒子の母校女子学院からの参列者もほとんどいなかった。
 そんな中で、矢嶋楫子の存在はありがたかった。矢嶋は当たり前のような顔をして出席し、美しい絹のハンカチを祝いとして恒子に手渡し、自分に与えられた大きな使命を果たすようにと励ましたのである。花嫁は、持ち合わせの着物で、高く結い上げた髪に白い花を挿したのみ、という質素ないでたちであった。披露宴はコーツ夫妻宅で行われ、この慎ましい式は終わったのだが、さあ入籍しようと向かった本郷区役所で、外国人との結婚は先例がないということで婚姻届けの受領は拒否されてしまう。続けて行った、聖アンデレ教会所在地の芝区役所でもだめ、恒子の籍のある下谷区役所も、もしやと思って訪れた外人居留地である築地区役所や京橋区役所でも受け付けてもらえなかった。
 困り果てた2人は、外国人専門の法律家のアドバイスに従い、エドワードの母国である英国に結婚の許可を求めることにし、挙式から4ヵ月たった翌1899(明治32)年2月、恒子は英国籍を得ることになったのである。日ごろは楽天的な自分も、さすがにこの時は何とも不安だったと恒子は後に語っている。



2人が挙式した聖アンデレ教会。
The Cathedral Church of St. Andrew's東京都港区芝公園3-16-18

 

弟・山田耕筰との楽しい岡山時代

 エドワードとの結婚を承諾する時、恒子はたった1つだけ条件を出した。それは、矯風会での活動を続けたい、そのための費用は自分で捻出するから、というものであった。エドワードは快諾し、恒子は生まれた子供の世話に追われながらも、社会運動と教育事業に関わり続けた。しかしながら、1901(明治34)年7月には、岡山に創立された第六高等学校(現在の岡山大学)にエドワードが赴任することが決まり、一家は以後15年間、東京を離れることになる。
 この岡山時代には、結婚生活に落ち着きが出てきたこともあって、恒子は山陽高等女学校で英語とオルガンを教え始めた。30年近く慣れ親しんできた着物を活動的でないからと、思い切って人にあげてしまい、洋服を着始めたのもこの時期からだという。当時は今のように子供の既製服を購入することなどほとんど不可能だったので、アメリカの通信教育で習って、子供たちの着る物はほとんど恒子が手ずから縫った。巻頭の家族写真で子供たちが着ているかわいらしい服も、恐らく恒子の手によるものなのではないだろうか。この頃、岡山で洋服を着ていた日本女性は珍しかったというが、このエピソードからも、恒子がいかに勇気とチャレンジ精神に満ちた女性であったか、うかがい知ることができる。
 当初は恒子とエドワードの結婚に猛反対した母も、この岡山時代には優しい婿にすっかり心を許し、耕筰をガントレット夫婦に託してきた。耕筰少年は音楽にひじょうな興味を持ち、エドワードが弾くオルガンの風入れ役なども、嬉々としてやったという。ただ、時々調子を外すので、望んでも教会の聖歌隊には入れてもらえなかったようだ。しかし、メンバーにはなれなくても、練習などを実に熱心に聴いていたそうである。耕筰はやがて、それまで通っていた学校をやめ、音楽を本格的に学びたいと言い出した。恒子は反対したが、やはり音楽を愛してやまない、名オルガニストであったエドワードは耕筰の才能を認めて彼を支持した。
 理解ある義兄の頼もしいサポートがあったからこそ、耕筰は東京音楽学校(のちの東京芸術大学)に進むことができたのである。『からたちの花』『赤とんぼ』『ペチカ』などの日本語の抑揚を活かした心に響く美しいメロディーを生み出し、また、西洋音楽の普及にもつとめた作曲家・指揮者山田耕筰は、義兄エドワードの存在なしには誕生しなかったといえよう。耕筰も含め、そろって音楽好きの明るい一家を慕って多くの人が集まり、わざわざアメリカから「ゾボー」という、自分の声で奏でる珍妙な楽器を取り寄せて、「ゾボー・バンド」(右頁の写真参照)なる楽団を作ってみんなで演奏したり、庭にテニス・コートを作ってスポーツに興じたりと、ガントレット一家の岡山生活は娯楽にあふれた楽しいものであったという。
 

山田耕筰
© 日本楽劇協会(1886年6月9日 - 1965年12月29日)
『野薔薇』、『からたちの花』、『赤とんぼ』、『待ちぼうけ』、『この道』など山田耕筰の残した名曲は枚挙にいとまがない。
1910年からドイツ・ベルリン音楽学校に留学し、帰国後は日本における西洋音楽の普及に貢献。日本初の管弦楽団をつくり、東京フィルハーモニー会や日本交響楽協会などを運営した。国民的歌謡曲、校歌などを数多く手がけ、欧米に名を馳せた最初の日本人音楽家として名高い。
義兄のエドワードから、少年時代に西洋音楽の手ほどきを受けており、このことがのちの山田の音楽人生に大きな影響を与えたと考えて間違いない。