揺らぐ独身主義

 1895(明治28)年の夏、共愛女学校の同僚であるミス・パーミリー(以下パーミリー)に誘われて、恒子は軽井沢を訪れた。宣教師であるパーミリーはコーツ夫妻と親しくしており、夫妻が軽井沢に建てた独身者のための寮が、恒子とパーミリーの滞在先であった。上野駅で電車を待っている時に、恒子たちはやはり軽井沢に向かう電車を待っているコーツ夫妻を見かけた。夫妻は小柄な西洋人と一緒で、パーミリーが「あの人はミスター・ガントレットだ」と教えてくれた。恒子は「なんて小さい人でしょう。あたしはあんな小さい人は嫌いです」とふざけてパーミリーに言ったという。
 これが恒子が将来の夫に抱いた第一印象であった。にもかかわらず、軽井沢で正式にエドワードに紹介された恒子は、ハイキングや山登り、天気の悪い日にはトランプと、エドワードやコーツ夫妻、パーミリーと共に楽しい夏を過ごした。声の美しい恒子がエドワードの伴奏に合わせて歌うこともしばしばで、音楽好きの2人は話もよく合った。
 そんな夏を2、3度過ごした後の冬のある日、エドワードが、恒子とパーミリーが一緒に住んでいる前橋の洋館を訪れた。連れ立って散歩に出かけたパーミリーとエドワードの後姿を見送りながら、恒子は、パーミリーは彼と結婚するつもりなのだろうかとふと思ったという。それゆえ、エドワードが帰って行った後、パーミリーが恒子に「あなたはミスター・ガントレットをどう思いますか」と尋ねると、のんきに「そうですね、ミス・パーミリーには少し若すぎませんか(パーミリーは当時40過ぎぐらいだったという)。ミスター・ガントレットは結婚を申し込みに来たのでしょう?」と答えた。 ところが、パーミリーに「あなたに申し込みに来たのですよ」と告げられ、「とんでもない、わたしは西洋人なんかとは結婚しませんよ」と恒子は即座に拒否したという。
 1ヵ月後、今度は直接恒子にプロポーズしたエドワードに対する返事も全く同じものであった。悩んだエドワードはコーツ夫妻に相談し、夫妻から考え直すよう頼まれ困り切った恒子は、信頼している大塚の叔父に意見を求めた。すると叔父は、意外なことに2人の結婚に賛成の意を示したのである。身体の弱い恒子には、普通の日本人家庭を切り盛りするよりも、むしろ外国人との家庭の方が向いているのではないか、というのがその考えであり、恒子の気持ちは少しずつ揺らぎ始めた。
 そんな折、恒子はたまたまパーミリーと一緒にコーツ宅に1泊することになった。すると翌朝、隣室から美しい歌声が聞こえてきた。それはエドワードが歌うウェールズ地方に伝わる恋歌であった。ついホロリときてしまった恒子にエドワードは、「たとえ、僕のところへ来て、1週間で死んでも構わないから」と、無邪気な顔をして迫ったという。この時、恒子はすでにプロポーズを受けることを決心していたが、最後に恩師である矢嶋楫子の意見を聞いてみることにし、手紙を書いた。
 



当時、岡山の山陽高等女学校の教頭を務めていた上代淑(かじろ・よし)と
エドワード、恒子、耕筰らが結成した音楽隊「ゾボー・バンド」の集合写真。
後列右端が耕筰、その隣がエドワード、前列左端が恒子。
1902年頃、山陽高等女学校の向かいに位置する三友寺境内にて撮影されたもの。
© 山陽女子中学校・高等学校

 

日英間の強い楔となりなさい

 まだ、「らしゃめん(洋妾)」という言葉が使われていたような時代のことである。外国人との結婚は「罪悪」とさえみなされており、実際、外国人と正式に入籍という形をとって結婚している日本女性は少なかった。一緒に生活してはいても、あくまでも「一時的な妻」である場合が多く、そういった女性は周囲から白眼視された。「日本の女に生まれておきながら、恥を知れ!」などという心ない言葉を投げつけられることも多々あったという。母親は泣きながら、もしエドワードと結婚するなら親子の縁を切ると言い、日ごろは恒子のことを応援してくれていた母校の人々や宣教師までこぞって反対の意を示した。「絶対にうまくいくはずがない」というのである。パーミリー、コーツ夫妻、大塚の叔父夫妻以外に賛成する人のなかったこの結婚について、矢嶋が恒子に与えたのは次のような言葉であったという―。
 「私は大賛成です。あなたのような身体の弱い人に、やさしく保護してくれる人の与えられたことは幸せです。日英間の強い正しい一つの楔とおなりなさい。祈っています」。
 コーツ夫妻の軽井沢の寮で知り合って4年、パーミリーを通じてのプロポーズからは1年半の月日が経っていた。ついに恒子はエドワードと結婚することになったのである。
*らしゃめん―綿羊のことで、日本においてもっぱら外国人を相手に取っていた遊女あるいは外国人の妾となった女性のことを指す蔑称。