なごやかな金婚式
エドワードと恒子。ハワイ記念館前にて1949年頃撮影。© 女子学院 1946(昭和21)年、恒子はついに矯風会の会頭となり、戦災のために滞っていたその活動を再び軌道に乗せた。戦後急に増えた国際結婚に関しても、その先駆者として意見を求められる機会が多くあり、そのたびに恒子が口にしたのが冒頭の「たとえ(それが)恋愛による結婚であっても、相手を包み込む努力というのが、双方でいります」という言葉であった。
恒子は自身の長い結婚生活を振り返って、エドワードと喧嘩したことは一度もないと語っている。たとえ意見が合わなかったり、気に入らないことがあったりしても、いつも「明日まで考えましょう」「もう少し考えてみましょう」と言って、高ぶる気持ちをそのままぶつけ合うようなことはしなかったという。
少々信じがたいが、恒子だけでなく、エドワードも穏やかな性格であり、また、2人ともいろいろなことを引きずらない、カラッとしたタイプであったのかもしれない。夫婦は歳をとるといろいろな意味で似通ってくるというが、晩年の2人の写真を見ると、確かに雰囲気が似ており、たとえ2人の関係を知らなくても「これは夫婦だ」と誰でも分かるように思える。いかにもしっくりした似合いのカップルなのである。
そうして幾多の困難をともに乗り越えた夫婦は、1948(昭和23)年、仲むつまじく金婚式を迎えた。
長男のオーエンは進駐軍の教育部に技術顧問として勤め、戦争中カナダにいた長女フランセスは、やっと日本に戻って来た。次女のキャスリンは英国の修道院附属学校の教師として、また次男のトレバーは記者として活躍。旧華族土井家に嫁いだ三女のウィニーは英語教師をしながら3人の子供を育て、四女エイミーは戦後、夫と共にアフリカに渡って、教会活動を行いながら2児を育てている。
6人の子供たちはそれぞれの道を見つけ、みな立派に巣立っていった。恒子は恩師・矢嶋楫子の言葉どおり、自分に与えられた大きな使命を果たしたのである。そうして、なごやかな金婚式から5年後の1953(昭和28)年11月29日、ガントレット恒子は、エドワードや長男オーエン、その他の家族に見守られながら80歳で安らかに天に召された。告別式の日、恒子の棺側に小さく寂しそうに立っていたとされるエドワードは、愛妻の死から2年余りのち、第2の祖国となった日本で87歳の生涯を終えた。
恒子の一生は、決して平坦なものではなかったが、彼女がつねに前に進み続けることができたのは、「何とかなる、なるようになる」と信じる心があったからと断言していいだろう。受け止めるべきことは、さわがず受け入れ、自分の行動によって変えられることには果敢に向かって行く。恒子のような女性が本当の意味で「強く、器の大きい女性」といえるのではないだろうか。それは、決して「かたくな」ではない「しなやか」な強さだ。国際結婚の先駆者・社会運動家としての肩書きを除いても、その時できることを精一杯やり、後はあまり思い悩まずくよくよせず、朗らかに過ごした恒子の生き方から学べることは、少なくないように思われる。
ガントレット家の墓碑。東京都府中市と小金井市にまたがる約128平方メートルを誇る多磨霊園にその墓碑はあり、
恒子とエドワードの他、その子孫も眠っている。墓所地番地は、26区画に分かれているうちの「10区1種8側47番」。
© 「歴史が眠る多磨霊園」
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/gauntlett_t.html
ガントレット恒子 年譜
1868年 | 12月4日 エドワード・ガントレット、英国ウェールズにて誕生(明治元年) | |
1873年 | 10月26日 山田恒、愛知県にて誕生。 | |
1878年(5歳) | 桜井女学校に入学。寄宿舎に入る。 | |
1880年(7歳) | 桜井女学校の経営が宣教師ミセス・ツルーと矢嶋楫子に引き継がれる。のち、新栄女学校と合併し、女子学院となる。 | |
1890年(17歳) | 1890年(17歳) 宇都宮の女子学院分校に英語教師として赴任。 その後、前橋の共愛女学校で教鞭をとる。 エドワード・ガントレット来日 | |
1893年頃(20歳) | 矯風会に入会する。(94年日清戦争勃発) | |
1895年(22歳) | エドワードと知り合う。 | |
1898年(26歳) | エドワードと結婚。翌年、英国籍を得る。 | |
1901年(29歳) | エドワードの赴任にともない、一家で岡山に住む。その後、金沢、山口と転任。(04年日露戦争勃発) | |
1916年(43歳) | エドワードの東京高等商業学校奉職にともない、帰京。社会運動と教育事業に本格的に取り組む。(14年第一次世界大戦勃発) | |
1920年(47歳) | ロンドンでおこなわれる矯風会万国大会に出席するため、矢嶋楫子とともに渡英。会の終了後、エドワードの実家を訪ねる。 | |
1922年(49歳) | 日本婦人参政権協会を立ち上げる。 | |
1925年(52歳) | 恩師の矢嶋楫子、92歳で永眠。 | |
1940年(67歳) | エドワードとともに日本に帰化する。(41年太平洋戦争勃発) | |
1946年(73歳) | 矯風会の会頭となる。(45年第二次世界大戦終結、婦人参政権が認められる) | |
1950年(77歳) | 金婚式を祝う。 | |
1953年(80歳) | 11月29日、エドワードや長男一家に見守られながら永眠。 56年7月29日、エドワード永眠。 |
Special thanks to:
山陽女子中学校・高等学校、女子学院、日本楽劇協会、美祢市立秋吉台科学博物館、『歴史が眠る多磨霊園』小村大樹氏
参考文献:ガントレット恒『七十七年の想ひ出』他