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教師になる

 師にも恵まれ、充実した生活を送っていた恒子に実家から驚くべき連絡が入った。自由奔放に生きていた父が、事業の失敗から急に弱り出し、ついには寝込んでしまったというのである。恒子には弟妹5人がおり、耕筰などはまだ幼かった。その頃、自身も病気がちになっていたものの、恒子は何とか家計を助けることにし、女子学院(桜井女学校)で親しくしていた友人の誘いに応じて、前橋の共愛女学校に教師として赴任した。そして、生活費をできるだけ切り詰め、着物はたった3着でやりくりし、給料のほとんどを実家に仕送りする生活が始まった。しかし、当時の恒子を記憶している生徒によると、そうした苦労をみじんにも感じさせない、明るく凛とした立派な先生ぶりで、よく冗談などを言って、生徒を笑わせていたという。
 その時自分がやれることを精一杯やり、後は天に任せてくよくよしない、というのは彼女が生涯つらぬいた姿勢であった。気負いのない、肩の力の抜けた強さ、とでも言えようか。しかしながら、恒子の援助もむなしく、父親は44歳の短い生涯を終える。それまで父にさんざん泣かされて来た母が、寝たきりでも良いからずっと生きていて欲しかったと嘆く姿を見て、恒子は夫婦というものは不思議なものだとつくづく感じたと後に語っている。
 

英国青年エドワード・ガントレット

 そんな恒子に運命の出会いが待ち受けていた。東洋英和学校(のちの麻布高等学校)の英語教師に、ジョージ・エドワード・ガントレット(以下、エドワード)という青年がいた。英国ウェールズのスウォンジー地方で1868年、ガントレット(英語での発音は「ゴーントレット」に近い)家の次男として生まれたエドワードは、世界中を旅することを夢見る、冒険心旺盛な青年に成長。そして、成年に達すると父から財産の一部をもらい、まずは従兄弟がいる米国に向かった。従兄弟は、米国にあまり満足しなかったエドワードに次なる目的地として日本を勧め、エドワードが活気あふれる横浜の地に降り立ったのは1890(明治23)年のことであった。
 落ち着き先は東京・本郷の宣教師コーツ夫妻宅で、エドワードは日本での生活に思いのほか早く溶け込み、中央会堂で弾き手のなかったパイプオルガンを演奏するようになったことで、様々な人と親しくなった。やがて米国大使館で書記の仕事を得、東洋英和学校の教師ともなったエドワードの旅はついに日本から先に進むことはなかった。演奏会を開いたり、幻灯と音楽を組み合わせた映画のような催しを企画したりと、楽しいイベントをいろいろ思いつくエドワードは学生の間で人気者であったという。こうしてはからずも長く腰をすえることになった異国で、彼は生涯を共にする女性、つまり恒子と出会うのである。

エドワード・ガントレット
© 日本楽劇協会(George Edward Luckman Gauntlett 1868ー1956)
1890 年に来日、東京高等商業学校、第六高等学校、山口高等商業学校などで英語・ラテン語を教える他、世界共通語である「エスペラント語」の紹介に努めた。
また、オルガンの名手であり、恒子の弟である山田耕筰に音楽を教えるとともにパイプオルガンの普及にも貢献した。
山口県秋芳洞を学術調査し、英国王立地理学協会員Royal Geographical Societyの会員として海外に初めて紹介、また、山口県の長門峡の自然美を世に広めるなど、その功績は多岐にわたる。1940年に日本に帰化し、名前を「岸登烈」と書いていたといわれる。生前、日本政府より勲五等瑞宝章が贈られている。
ちなみに長男のオーエンも、青山学院大学で英語を教えるかたわらフルート奏者として活躍するなど、父親ゆずりの才能を見せた。