2010年12月2日 No.654

●サバイバー●取材・執筆/根岸理子・本誌編集部

 

国際結婚の楔となった
ガントレット恒子の生涯

 



国と国との距離が縮まっている現在、国際結婚は決して珍しいものではない。
しかし、今から100年ほど前の日本では、外国人と夫婦となり、
その姓を名乗ることには、とてつもない勇気を要した。
今週は、そうした時代に、周囲の反対や自身の不安を乗り越え
英国人と結婚し女性の解放や平和運動に力を尽くした、
ガントレット恒子(作曲家、山田耕筰の姉)についてご紹介したい。

ガントレット一家写真。帽子を被ったエドワード、眼鏡をかけた恒子とその子供たち。1910年ごろ撮影山陽女子中学校・高等学校

 

母の泣く姿を見て

 

 「たとえ恋愛による結婚であっても、相手を包み込む努力というのが、双方でいります」―。
 第二次世界大戦後、急に増えた国際結婚について意見を求められた時、ガントレット恒子はよくそのように答えたという。ガントレット恒子こと山田恒(やまだ・つね=以下、恒子とする)は、1873(明治6)年10月26日、愛知県碧海郡箕輪村(現・安城市)で山田謙三・久夫妻の長女として誕生した。弟に、のちに日本を代表する作曲家となる山田耕筰がいる。
 父は板倉藩の御殿医の息子、母は同藩の馬術指南役の娘であったが、明治維新後、禄を失って生活に困った元武士の多くがそうしたように、父の謙三は商売で身を立てることにし、東京で反物などの販売を始めた。これはなかなか順調にいったようで、恒子は広い屋敷で使用人に囲まれて過ごした幼少時代を記憶している。しかし、経済的に恵まれてはいても、その家庭は決して明るいものではなかったようだ。金銭に困らなくなった謙三は、たちまち放蕩生活を始め、派手に遊び、何人もの女性を囲った。涙を流しながらじっと耐えている母の姿もまた、幼い恒子の記憶に残り、これはのちに、彼女が「女性の解放」に力を注ぐ原点となったようである。



山田家写真。中央の洋装で眼鏡をかけているのが恒子。
右から2人目の老齢の女性が母、久。
後列中央でジャケットを着て髪を分けているのが耕筰。
© 日本楽劇協会

 

「ニコリとも笑わない」矢嶋楫子との出会い

 恒子の人生に多大な影響を及ぼした人物が2人いる。医師であり牧師でもある叔父の大塚正心(おおつか・せいしん)、そして生涯に渡って恒子にとって尊敬する師であり続けた教育者・社会運動家、矢嶋楫子(やじま・かじこ)である。
 大塚正心は、恒子の母方の叔父で、当時、理不尽な差別を受けていたライ病患者の救済に生涯をささげた人物であった。子供のいない大塚夫妻のため、恒子はごく幼い一時期を彼らの養女として過ごした。のち男児が誕生したので、実家に戻ることになったものの、生涯を通して大塚夫妻は恒子にとって第2の両親のような存在であり続けた。恒子の信仰心と社会事業に対する強い関心は、大塚夫妻から受け継いだものと思われる。
 夫婦間で口論の絶えない山田家の家庭環境を憂えた大塚夫妻の勧めにより、やがて恒子は桜井女学校という学校で寮生活を送ることになる。1878(明治11)年、わずか5歳の時のことである。しかし、そのような歳で家族から離れてどんなに寂しい生活を送ったかと思えば、意外にも、仲良しの男子生徒2人(女学校にも関わらずなぜか入学していた)と「つるんで」元気にいたずらばかりする毎日であったという。銭湯で、石鹸のアワまみれの体で湯船にザブンと飛び込んでしかられたり、自分の締めている帯をハサミでちょん切っては、「お人形の着物用に」と友達に配ってしまったりする、活発で明るくやんちゃな女の子であった。幼くして家庭を離れることになった、この恒子を厳しくも温かく指導したのが、矢嶋楫子である。
 「桜井女学校」の名前が示す通り、女学校の校長は当初「桜井」という、若く優しい先生で、恒子もよくなついていた。しかし、桜井はやがて、北海道で新たに別の学校を作ることになり去ってしまう。そして代わりに赴任してきたのが、ニコリとも笑わない矢嶋楫子であった(桜井女学校はのち他の女学校と合併し「女子学院」と改称。以下、女子学院)。初対面で「仲良くしましょう」と言った矢嶋に「いやです。先生は桜井先生のようにきれいでいらっしゃいませんから」と、恒子は生意気にズケズケと答えたという。この時の恒子には、矢嶋との師弟関係が以後半世紀近くにおよんで続くことになるとは思いも寄らなかったのである。
 矢嶋は、生徒がケンカをした時など、暗い押入れや使われていない風呂場に罰として閉じ込めたりする厳しい部分もあったが、それまで男の子のようにボサボサだった恒子の髪を毎日結い上げてくれるなど、面倒見のいい一面もあった。のち、恒子が結婚のことで迷った時、決め手になる言葉をくれたのも、また、この女性であったのである。十数年を経た1893(明治26)年、矢嶋が中心となり結成された矯風会(正式名称は日本基督教婦人矯風会。米国が発祥の世界的組織)の禁酒・廃娼・平和をめざす社会運動に、教え子である恒子は強く賛同し、やがてその主要メンバーとなっていく。