![ガラクタ屋の情熱の結晶[大英博物館]誕生物語](/images/stories/survivor/100401_british_museum/ttl2.jpg)
写真中央から時計回り:ホルネジュイトエフ(プトレマイオス朝時代初期の神官)の棺とミイラ(Coffin and Mummy of Hornedjitef)/クロイソスの金貨 the Gold Coin of Croesus/ラムセス2世の胸像the bust of Ramesses II/縄文土器Jomon Pot/パルテノン神殿彫刻群(別名「エルギン・マーブル」)Elgin Marbles(写真すべて © the Trustees of the British Museum)
世界各地から年間500万人以上が訪れる大英博物館。
約700万点の資料を所蔵、すべては無料公開されている。
仰々しい日本語名から、英政府が創設した博物館だと思う人もいるかもしれない。
しかし、基になっているのは、ある名士が趣味で集めたコレクション。
この人物の遺書がきっかけで、複数の紳士たちが奔走。
数々の課題をどうにか乗り越えて、やっとオープンさせたのが大英博物館なのである。
今回は、その誕生までの物語をお届けしたい。
約700万点の資料を所蔵、すべては無料公開されている。
仰々しい日本語名から、英政府が創設した博物館だと思う人もいるかもしれない。
しかし、基になっているのは、ある名士が趣味で集めたコレクション。
この人物の遺書がきっかけで、複数の紳士たちが奔走。
数々の課題をどうにか乗り越えて、やっとオープンさせたのが大英博物館なのである。
今回は、その誕生までの物語をお届けしたい。
●サバイバー●取材・執筆/木下 真寿美・本誌編集部
英政府を困惑させた遺書
1753年1月11日、一人の男性が、静かに息をひきとった。ハンス・スローン卿(Sir Hans Sloane)。享年92。友人の博物学者ジョージ・エドワーズと家族が看取ったその顔には、満ち足りた表情が浮かんでいたという。「思う存分生きた」。まるで、そう言っているかのような、穏やかな静けさに包まれた彼の最期。しかし、その死の16日後、遺書が公開されると一転、国王や政府を巻き込んだ騒動が引き起こされたのだった。「生涯かけて集めた約8万点に及ぶコレクションをまとめて、国に譲渡したい。ただし、国は2人の娘に1万ポンドずつ、計2万ポンド支払うべし」
コレクションの一般公開も念頭に置かれており、「好奇心旺盛な人々の知的欲求、すべての人々の学習、研究、情報収集に役立てばよい」との希望も添えられていた。
さて、このコレクションに含まれていたものとは―。3500冊もの貴重な写本を含む4万冊余りの図書。コインや工芸品、中国絵画、ワニの剥製、植物の標本や鉱物類…。
まさに古今東西のあらゆるもの。外国へ行くのが容易でなかった当時、これだけのものを集めるにはかなりの熱意と資金が必要だっただろう。しかし、一方、そのコレクションの雑多さ故に、スローンは一部で、「ロンドンの大ガラクタ屋の親父」と評されていたという。数の点では圧倒的であったスローンのコレクションだが、こうした博物標本類の民間コレクションは、当時の英国では珍しくなかった。ニュートンが万有引力の法則を解明したことに象徴されるように、17世紀の欧州では近代科学が大きく発展。これを受けて18世紀には、博物標本類の資料をコレクションすることが流行したためである。
世界の成り立ちを理解する貴重な資料か、はたまたガラクタか。どう評価すべきかわからない膨大なコレクションを突然目の前に置かれ、「2万ポンド支払え」と迫られた英政府。当然のごとく、困惑したようだ。
スローンの死から16日後、遺書で指名された管財人たちが開いた最初の会合で、まず、国王に話をもちかけることが決まった。しかし、運悪く、時の権力の座についていたのはジョージ2世(在位1727年―60年)。愛人を次々とつくったことでも有名なこの国王、こと金銭に関しては欲が強かった。スローンの遺書にもまったく関心を示さず、「そんなものに使うお金があると思うのか」と発言したと伝えられる。
意気消沈して戻ってきた管財人たちは、気を取り直して今度は議会へと話をもっていく。しかし、オーストリア継承戦争などを含む第二次百年戦争のさ中にあって、苦しい台所事情だったこともあり、議会も、国王同様、消極的。提案は据え置きされ、「このまま葬りさられるのだろうか」というあきらめにも似た危機感も、管財人の間に漂い始めたのだった。
非凡なる好奇心の持ち主
さて、この一大コレクションを築き上げたハンス・スローン卿というのはどんな人物だったのか。生まれは北アイルランドのキリレイ。1660年4月16日、7人兄弟の末っ子として生を受ける。スコットランド人の父は、貴族であるクラニボイ卿の管財人を務めており、母はウィンチェスター大聖堂の名誉参事会員の娘だった。子どもの頃から好奇心旺盛。豊かな自然に囲まれて育ち、植物を始めとするさまざまな生き物に興味をもった。のびのびと育ったが、16歳のときに病に倒れる。肺を患い、3年間、自室にこもっての療養生活を余儀なくされた。一時は回復が危ぶまれながらも、病から復帰。このときに、将来、医学の道に進むことを決意したのだった。
るスローンも、若き頃は、金銭の工面に苦労していたのである。
フランスのオランジュ大学で医学の学位を得て、モンペリエ大学で植物学や解剖学を学んだスローンは、ロンドンに戻り、24歳で開業医となった。
カレッジ・オブ・フィジシャンズ(医学校)の特別研究員、王立学士院のメンバーとしても認められ、そのまま名声と富の階段を一気に駆け上がるかと思われたスローン。しかし、そうはしないのは、非凡なる好奇心の持ち主所以である。
当時ジャマイカを統治していたアルバマール公が侍医を探していると聞きつけ、収入の大幅減を顧みることなく、喜び勇んで随行することにしたのだ。後に、スローンは、こう書いている。「当時、私は若く、耳にしたことを実際に自分の目で見ないと、気がすまなかった」。
しかし、不運にも赴任から数ヵ月後、アルバマール公が急逝。予定より短い約20ヵ月の滞在を経て、スローンはロンドンに戻る。その手に、西インド諸島のさまざまな植物標本を携えて。
持ち帰った植物は、ロンドンの人々の想像力を掻き立てた。自分の家にもスローン邸のような植物園をつくろうと、庭師を西インド諸島に行かせた貴族もいたほどだという。
運命を決めた皇太子のつぶやき
その頃、スローンが居を構えていたのは、ブルームスベリー・スクエア近くのグレート・ラッセル・ストリート。現在、大英博物館が建つ界隈だ。このスローン邸で、開かれていた夕食会はある種、名物とでもいうべきものだった。概ね、午後5時に始まり、参加者は男性ばかり。というのも、スローンの妻は夫をおいて他界、娘たちもそれぞれ嫁ぎ、スローン邸には女性がいなかったからだ。スローンは、英国流の乾いたユーモアを交えながら、闊達に喋った。一方で、決して食べ過ぎることはなく、酒はワイングラス一杯だけ。食事が終わると、参加者一同は決まって、彼の膨大なコレクションを鑑賞し、話に花を咲かせた。
スローンの交際範囲は広く、ヴォルテール、ヘンデル、アン王女とも親交があった。ヘンデルが、うかつにも、熱いバターつきマフィンをある貴重な写本の上に置いてしまい、スローンを怒らせたという逸話も残る。
王室の侍医にも就任し、56歳のときに准男爵位の称号を得る。67歳で、ニュートンの死去を受けて、王立学士院の院長職に就いた。多忙な日々を送っていたが、暇を見つけては自分のコレクションの手入れをし、新たに買い足すものがないかと情報収集にも余念がなかった。
スローンが88歳のとき、チェルシーのスローン邸をフレデリック皇太子夫妻が訪れた。
緑色に光るエメラルド、パープルのアメジスト、黄金のトパーズ…。部屋の中央に据えられたテーブルの上で、まるで自然界に存在するかのように、輝く色とりどりの自然石。別のガラスケースに飾られた、翡翠や瑪瑙でつくられた器。本や植物の標本、いくつもの写本で埋め尽くされた部屋。エジプト、ギリシャ、ローマ、英国、インドの様々な古美術品や動物の剥製。
ゆっくりと眺めたのち、皇太子は、これらのコレクションは大変貴重だと評価し、「一般公開されると、どんなに役立つだろうか」と感想をもらした。
この皇太子の発言に、スローンはピンとくるものを感じた。そして、訪問から一年後、スローンは遺書をしたためたのだった。
大英博物館をめぐる主要な出来事
1753 | ハンス・スローン卿死去 大英博物館法成立 |
---|---|
1754 | モンタギュー・ハウス買収 |
1759 | 大英博物館オープン |
1775 | クック船長、太平洋地域の民族資料を寄贈 |
1802 | ロゼッタ・ストーンを収蔵 |
1816 | パルテノン神殿彫刻群を収蔵 |
1826 | 新館の着工 |
1842 | モンタギュー・ハウスの取り壊し始まる |
1848 | 現博物館のほぼ全容が完成 |
1883 | 自然史部門の資料をサウス・ケンジントンに新設した大英博物館自然史部門分館に移動 |
1963 | サウス・ケンジントン分館が、自然史博物館として分離独立 |
1998 | 大英図書館がセント・パンクラスに移転 |
宝くじ頼みの資金集め
「スローンの遺産は単なるガラクタではない」と議会を説得するため、様々な人物が手を変え品を変え、働きかけた。スローンのコレクションを管理していたジェームズ・エンプソンは、「コレクションの時価は8万ポンド。2万ポンドというのは、破格のバーゲン」と主張。加えて、「年間の維持費はたった500ポンドしかかからない」とさらにプッシュしたが、これはいわゆるセールストークで、実際の維持費はもっとかかったようである。管財人の一人だった美術史家で自ら美術品や考古学資料の収集家だったホレス・ウォルポールも、議会宛に手紙を書いた。「スローン卿は、コレクションを八万ポンドと見積もっています。カバやひとつ耳のサメ、ガチョウほどの大きさもある蜘蛛などに興味を覚える人なら誰だって、それぐらいの価値を認めるでしょう」。この手紙が、どれほど効果があったのかは、分かっていない。ちなみにコレクションの時価には諸説ある。スローン自身は5万ポンドと見積もったこともあるようだ。

なぜ、オンズロウは、この計画に興味を寄せたのか。背景にあるのは、彼の「知」に対する愛である。
こんな逸話がある。1731年10月23日の午前2時頃、ウエストミンスター・パレスの西側にあるアシュバーナム・ハウスに収蔵されていたコットン家の蔵書が、火事に見舞われた。この蔵書とは、コットン家が3代にわたって集めた書籍や写本のコレクションで、中には『大憲章(マグナ・カルタ)』の原典や、古詩『ベオウルフ』の写本など、貴重なものが含まれており、国の管理下にあった。
火事の現場に到着した消防士たちは最初、灰になっていく貴重な写本には注意を払わず、とにかく火を消そうと、水を放つことに懸命だった。しかし、その努力もむなしいとわかり、やっと管理人の「写本を一冊でも多く救うべきだ」という言葉に従う。ただ、写本の詳しい知識をもつものは少なく、次から次へとやみくもに、写本を窓から放り出した。そこに到着したのが、オンズロウ。火事の知らせを受けるなり現場へ掛けつけ、火の粉が舞う中、貴重な本を選り分け、自ら写本を安全な場所へと避難させたのだった。
スローンの遺志を実現するに当たり、一番大きな問題は国の財政難。「何か方法はないだろうか」。オンズロウは、知恵を絞った。そして、宝くじで財源を確保する、という妙案を思いついたのだった。
競馬、闘鶏、サッカーくじなど、賭け事の多くは英国で発展したといわれるが、当時の英国は空前の宝くじブーム。国民がこぞって、宝くじを買っていたという。
スローンのコレクションを収蔵する博物館が設置されることになり、ここにはオンズロウらが火事から救い出したコットン家の蔵書のほか、散逸を防ぐための手だてが必要だったハーリー家の蔵書も併せて収蔵されることになった。ハーリー家の蔵書とは、オクスフォード伯ロバート(1661―1724)とその息子エドワード(1689―1741)によるコレクションで、約6000冊の書籍・写本類、1万4500点の公文書類、4万点の政治パンフレット類が含まれていた。最初の本格的な『英語辞典』を一人で編纂した文学者サミュエル・ジョンソン博士(1709―1784)は毒舌家として知られるが、彼も「いかなる図書館にも勝る」と絶賛したほどの内容だった。
1753年6月7日、「ハンス・スローン卿、ハーリー家蔵書の購買およびコットン家蔵書の所蔵改善に関わる法」いわゆる「大英博物館法」が成立。スローンの死から5ヵ月余りが経っていた。
オープン当初は、入場まで4ヵ月待ち
「子供はお断り」だった!
「好奇心旺盛な人々の知的欲求、すべての人々の学習、研究、情報収集に役立てたい」というスローン卿の意に沿って、「一般無料公開」を大原則として掲げる大英博物館。しかし、開館当初は、入場するのに煩雑な手続きが必要で、子どもの入場も認められていなかった。さらに、実は一時期、入館料をとった時期もあるのだ。開館当初の手続きとは、こんな具合だ。正面玄関の脇に、ロッジがあり、そこでポーターに氏名、入館を希望する理由、住所を伝える。それをもとに、司書が、この入場申請者が、「大英博物館を利用するのに適切な人物かかどうか」を判断する。10歳以下の子どもの入場は不可。規則で、こざっぱりした服装をすることが求められていたというのだから、なんとも堅苦しい。司書に認められれば、入場券が発行される。入場券を手に入れるために、2度、3度、足を運ばねばならないこともざら。3度目に、「やっと中に入れる」と思ってやってきても、数時間、待たされる場合もある。というのも、入場券は、開館中毎時間10枚しか発行できないと決められていたから。1776年当時には、4月に申請をした人たちが、8月になってもまだ待たされているという混雑ぶりだったという。一旦、入館が許されても、自由に歩き回ることは許されず、グループに分けられ、係員の案内に従わねばならなかった。
入館料を導入したのは、1974年。1972年に、政府が法改正をして、公的博物館やギャラリーが入館料を徴収することを許可。「入館料を徴収するべき」というのが国の意向だと解釈した大英博物館の理事たちは、1974年1月2日から、一般10ペンス、高齢者、子ども、障害者5ペンスの入館料を徴収し始めた。しかし、その後、3月に政権が交代。新政権が最初に行った政策のひとつは、入館料徴収を許可する法案の廃止であり、それに伴い大英博物館の入館料もまた無料に戻った。
その後、数々の改革を経て、今では開館時間中ならば、誰でも出入り自由。入館料の導入も議論はされるが、以降、導入には至っていない。スローンの遺志は、いまもしっかりと受け継がれているのだ。
パルテノン神殿の彫刻群は誰のもの?
正面玄関から大英博物館に入り、ロゼッタ・ストーンの周りにできた人ごみをかわして、奥へと進む。ガラス扉を開く。真っ白い大理石の壁に囲まれたまるでコンサート会場のように大きな部屋。天窓からは、柔らかな自然光が差し込んでくる。四方の壁に沿って、展示されているのは、ギリシャの首都アテネにあるパルテノン神殿を飾っていた大理石の彫刻群だ=写真下はその一部。「パルテノン・ギャラリー」。大英博物館の数あるギャラリーの中でも、最多の閲覧者数を誇るといわれる。
この勅令を受け、エルギン卿はパルテノン神殿から彫刻を剥がした。彫刻群は約10年にわたって、船でアテネから英国に送られ、大英博物館に収められたのだった。
近年では、エルギン卿がトルコ政府から受け取ったのは正式な皇帝の勅令ではなかったという学説が発表されるなどし、まだまだ議論は混迷を深める気配だ。
近年ではエジプトも、大英博物館にロゼッタ・ストーンの返還を強く求めている。ルーブルなど他の美術館、博物館にも同様の要求が寄せられている。博物館側が、いかに対応すべきかについては、意見が分かれるところだろう。しかし、これら一連の返還要求は、世界のあちこちに、西欧的価値観が浸透しつつあることの表れだと言えるのではないだろうか。
候補地が決まらず再び紛糾
法案が通り、資金が集まったからといって、万々歳、というわけにはいかない。次なる課題は、コレクションを収蔵する建物、つまり博物館をどこに置くか―。法律に基づいて、カンタベリー大主教、大法官、首相、下院議長など国の有力人物からなる理事会が設置され、博物館設置に向けて計画を推進していくこととなったが、交通の便が良く、予算内に収まる場所と建物を探し出すのは頭の痛い問題だった。当初、候補の一つとして挙ったのが、バッキンガム邸。バッキンガム公が所有する広々とした大邸宅である。1753年当時の所有者であったバッキンガム公の子息は、売る気満々であったというが、提示額は3万ポンド。理事会の予算を大幅に上回っており、購入は断念された。結果、彼の地には現在、バッキンガム宮殿が建つ。
予算内に収まる建物はないのか―。ようやく探し出したのが、ブルームスベリーに建つモンタギュー・ハウス。偶然にも、スローンが生前、住んでいたグレート・ラッセル・ストリートに面していた。
所有者のモンタギュー公は、「ヤクザのように金を儲けた」と皮肉られるほど評判の悪い人物だったという。しかし、理事会にしてみればそんなことに構っていられない。約1万ポンドと価格も予算内、ロケーションもまずまず、ということで、モンタギュー・ハウスの購入を決定したのだった。
やれやれ、と理事会のメンバーが胸をなで下ろしたのは束の間。17世紀に建てられたこのモンタギュー・ハウス。あちこち、ガタがきており、修繕が必要だった。この作業に、実に、建物の購入額をはるかに凌ぐ5万ポンド以上がかかり、そして6年近くの歳月が費やされたのだった。大英博物館の最後の産みの苦しみ、である。
市民の遺産【大英博物館】
VS
特権階級の遺産【仏ルーブル美術館】
一方、ルーブル美術館の展示品は、元々、王家や貴族、教会など特権階級がもっていた財宝が、フランス革命を経て国有化され、一般市民に公開されたもの。よって、建物も、大英博物館のようなシンプルなデザインでなく、きらびやかな宮殿だ。
現在、ルーブル美術館として利用されているルーブル宮殿は、もともと、12世紀に要塞として建設された。その後、フィリップ4世が財宝をルーブルに収蔵し始める。続いて、イタリアのルネッサンス運動に影響を受け、「パリを芸術の都にしよう」と思い立ったフランソワ1世が城を王宮へと改築。17世紀になるとアンリ4世が多くの芸術家を住まわせ創作活動を後押しし、ルイ14世やルイ13世の枢機卿であるリシュリューは芸術品を積極的に収集。こうして、時代とともに、宮殿には歴代王らによるコレクションが着実に増えていき、それがそのまま建物ごと一般公開されたのが、ルーブル美術館、なのである。
サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館やフィレンツェのウフィツィ美術館、ローマのヴァティカン美術館なども、同じように特権階級が宮殿や庁舎などに集めた財宝が、そのまま公開されるかたちで生まれている。ルーブル美術館やエルミタージュ美術館がオープンする際には、世話人たちが、建物探しに奔走する必要なんて、まったくなかったわけである。
実を結んだスローンの情熱
1759年1月15日、大英博物館がその扉を開いた。事前に予約登録をしていた人々が、次々と中へ吸い込まれていく。英国から遠く離れた西インド諸島で根を下ろしていた色彩あふれる植物の標本、35万年前につくられた旧石器、精巧な犬の彫刻が入ったアッシリアの石板、挿絵や装飾がふんだんに施されたリンディスファーンの福音書の写本。マホガニーの展示ケースの中に、ところ狭しと並べられた物を眺め、見学者たちは、英国のはるか彼方に広がる世界、太古の昔に生きた人間の暮らしに思いを馳せた。その後、ジェイムス・クック船長が太平洋探査から持ち帰った民族資料のほか、19世紀に入るとパルテノン神殿を飾っていた大理石の彫刻群や古代エジプト文字、エジプト民衆文字、ギリシャ文字が刻まれたロゼッタ・ストーンなど貴重な資料が続々と大英博物館に収蔵され、今もコレクションは増え続けている。
手狭になったモンタギュー邸は1842年から取り壊しが始まり、その6年後には現在の博物館が完成。しかし、その後もスペース不足は続き、自然史部門はサウス・ケンジントン地区にある現・自然史博物館に、図書はセント・パンクラスの現・大英図書館に移された。
今や、大英博物館を訪れる人の中で、創始者ともいえるスローンに思いを馳せる人は限られるだろう。しかし、この人物がその長い生涯かけて集めたコレクション、そして博物館を開館したいという率直な願いがなければ、大英博物館は、この世に生まれなかったのである。
トラベル・インフォメーション
※2010年3月24日現在
©the Trustees of the British Museum
British Museum
Great Russell Street, London WC1B 3DGwww.britishmuseum.org
Tel: 020 7323 8000
大英博物館断面図
■図内の番号は展示ルームの番号。
■リーディング・ルームReading Roomを中央に配したグレート・コートGreat Courtの屋根は総ガラス張り。自然光のあふれるぜいたくな空間だ。ここにあるカフェでひと休みするも良し、ひとつ上のレベルにある「コート・レストランCourt Restaurant」(料理はモダン・ヨーロピアン。しゃれた雰囲気が漂う)で、ゆったりと食事をとるのもいいだろう。このほか、博物館内の南西の角にギャラリー・カフェもある。
オープン時間
毎日: 10:00 - 17:30※金曜日は20:30まで
※1月1日、グッド・フライデー、12月24~26日は休館
レストラン/カフェ営業時間
Court Restaurant毎日: 10:00 - 17:30/金曜日: 20:30まで
Court Cafes
毎日: 9:00 - 17:30/金曜日: 20:30まで
Gallery Cafe
毎日: 10:00 - 17:00
週刊ジャーニー No.619(2010年4月1日)掲載