■イングランド南岸から120キロ。取材班は英国とフランスの間に位置するチャンネル諸島のガーンジー島(Guernsey)へと降り立った。今回は、文人や画家らにも強い影響を与えたこの島を征くことにしたい。
●征くシリーズ●取材・執筆・写真/本誌編集部
英国のようでいて、英国のようでない――。
ガーンジー島、ジャージー島、オルダニー島、サーク島などで構成されるチャンネル諸島は、英国の中でも少し違った立ち位置にある。
もともとノルマンディ地方に属していたこの地は、1066年にノルマンディ公ウィリアムがイングランド王として即位して以来、英国の一部として歴史を歩んできた。
英君主に忠誠を誓い、英政府が軍事と外交を司るものの、議会は独自に組織されている。税制は英国本土と異なり、中でもガーンジー島、ジャージー島はタックス・ヘイブン(租税回避地)として企業を誘致し、島の財政を支えている。EUには加盟していないが、特殊な関係が構築され、EU単一市場へのアクセスが認められている(この辺りの事情は、ブレグジットの行方によっては変わる可能性もあるだろう)。
主な産業には金融業の他に、観光業があげられる。年間の日照時間は英国一の長さを誇る2000時間で、ロンドンの1500時間と比べてもその差は歴然。この温暖な気候ゆえ本土では自生しないようなトロピカルな植物が育ち、同じ国でありながら気軽にプチ・リゾート気分を味わえるというわけだ。英国本土よりもはるかにフランスに近く(わずか50キロ)、亡命者や移民らを数多く受け入れてきた歴史を持つことからフランスの言語や文化が色濃く残り、それも旅行者を惹きつける要素となっている。
チャンネル諸島の行政は、ジャージー区とガーンジー区に二分され、ガーンジー区には、観光地として人気の高いオルダニー島、サーク島、ハーム島が含まれる。こうした事情からガーンジー島は他島へのアクセスが良く、「せっかくなら近隣の島にも足を延ばしたい」という人にも、島巡りの拠点とするにはピッタリの場所と言える。
さて、島の概要はこのくらいにして、島内のおすすめポイントをご紹介しよう。イースターやバンクホリデーに訪れてみてはいかがだろうか。
『レ・ミゼラブル』が生まれた Hauteville House
島の中心は、空港から車で約15分ほどの東海岸にあるセント・ピーター・ポート。一般車両やバス、タクシーが忙しく行きかう海岸沿いの通りを1本入ったハイストリートには、石畳の小さな路地に飲食店やショップが立ち並んでいる。白やパステル・カラーで街並みに軽やかさを与える建物、店先に飾られた花々など明るい印象だ。取材班は街を観察するように眺めながら、地図を片手に、まずは島で一番の見どころといえる「ヴィクトル・ユゴーの家」へと向かった。港から南西の方へ、緩やかな上り坂を歩くこと約10分。静かな住宅街の一角にフランス国旗を玄関口に掲げた白亜の邸宅が見えてきた。フランスの詩人で小説家のヴィクトル・ユゴー(1802~85年)が暮らした家「オートヴィル・ハウス」だ。
若い頃から著作家になることを決意していたユゴーは、作家として生計を立てる一方、40歳を過ぎると貴族の地位を与えられ政治活動も展開。ところが、1851年にルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)のクーデターに抗議したことにより、国を追われてしまう。
50歳を目前にして亡命生活を送ることとなったユゴーは、ベルギーを経たのち、ガーンジー島に移住。亡命中の1856年に出版した『静観詩集』がフランスで人気を博したおかげでまとまった金を手にすると、同年、この家を購入した(現在は、パリ市による管理のもと、一般公開されている)。
家を購入するやいなやユゴーはすぐに改装することを決め、自ら建築家として、インテリア・デザイナーとして、さらには大工としての働きで、自分の創造性を存分に発揮していった。中世のゴシック様式に関心を抱いていたユゴーが生み出した空間は、過剰ともいえるほどの装飾が施され、まるで劇場の舞台セットを思わせる。ユゴーは自由を求め続けた作家といわれ、その哲学はインテリアにも反映されている。アンティーク家具を買ってきてはそれを分解したり、もともとは扉だった素材でテーブルを作ったり、自由な発想はとどまることを知らない。図書室を持つことがステータス・シンボルだった時代に、あえて3階の通路に本棚を設置。ユゴーの型にとらわれない人物だったことを物語るエピソードの数々が館内にあふれている。
ユゴーは1870年にナポレオン3世が失脚するまでの19年という長きにわたる亡命生活のうち、15年をガーンジー島で過ごしている。この間に生み出された作品はミュージカルの傑作としてもおなじみの『レ・ミゼラブル』、英国社会を風刺した『笑う男』、ガーンジー島を舞台にした『海の労働者』など。それらの執筆に使った部屋が最上階に設けられている。
人によっては「行き過ぎ」と感じるほどに飾られた1~3階とは対照的に、最上階はまるで屋根裏部屋のように小さく簡素なつくりであることに驚く。質素な寝室の隣に設けられたガラス張りの部屋「クリスタル・ルーム/ルックアウト」からは、海が一望でき、晴れた日には海の向こうにフランスが見えたという。クリスタル・ルーム内の左右には折りたたみ式の机が備え付けられ、ユゴーはここで海と空との間に身をおくようにして立ったまま執筆に没頭した。のちに孫のジョージ・ユゴーが「オートヴィル・ハウスはまさに『魂の家』と言えるだろう。そこにあるすべてが祖父のことを語っているのだから」と記している。クリスタル・ルームを前にすると、その言葉通り、ユゴーの魂が宿り、今もここで執筆を続けているような気がした。
開館:4~9月(20分おきに開催されるガイド・ツアーでのみ見学可能。2018年は修復のため閉館する予定)
入場料:大人8ポンド
http://maisonsvictorhugo.paris.fr/en
ルノワールが描いた Moulin Huet Bay
四方を海に囲まれたガーンジー島には30弱の入り江があり、白い砂浜が長く伸びるビーチ、島民だけが知るような洞窟、険しい断崖など、それぞれが独特の地形を有している。海岸線を望むフットパスが各所にあり、それらをたどりながらの散策は、都会の生活では得ることができない贅沢な時間を約束してくれるだろう。その幸福なひとときを今から130年前にキャンバスに写しとった人物がいた。
フランスを代表する印象派の画家ルノワール(1841~1919年)だ。ルノワールは、1883年の夏が終わろうとしていたころ、この島におよそ1ヵ月ほど滞在した。フランス人にとって当時のチャンネル諸島は、リゾート地というよりも冒険心を掻き立てるようなゴツゴツとした岩だらけの島というイメージで、一般的ではなかったとされる。
しかしルノアールはむしろその荒々しい自然に魅了された。南西部の「ムーラン・フエ」と呼ばれる、岩に囲まれた隠れ基地のような入り江を気に入り、頻繁に足を運んだ。彼は地元民が岩と岩の間に洞窟を見つけ、そこで天真爛漫に海水浴に興じる姿に心を奪われ、この入り江を15作品に収めている(『Moulin Huet Bay』ほか)。
岸まで歩いて下りてその光景を堪能するのもいいが、近くにある「Moulin Huet Bay Tearoom」に立ち寄るだけでも十分にその風景を楽しめる。波の音、潮の香り、海からの風を感じながらの深呼吸は最高に気持ちがいい。自然のエネルギーを全身に取り込んでほしい。
戦いの歴史を現在に残す Castle Cornet
失地王ジョンがノルマンディを失った1204年。イングランドはノルマンディからのガーンジー島侵略に備え、港から1マイル(1・6キロ)離れた小さな島に要塞を設けた。この要塞が、セント・ピーター・ポートの目と鼻の先で威容を放つ「コーネット城」だ。
英国―フランス間の戦いの舞台となったほか、清教徒革命による内戦時には監獄として利用された。伝統的に英国王の代理である副総督の居城ともされたが、1672年に火薬庫として使われていたラウンド・タワーに雷が落ち大爆発。周りの建物も吹き飛ばされ、副総督の妻などが亡くなる大惨事が起こって以来、副総督一家が住むことはなくなった。設計当初は、干潮時のみ陸続きとなったが、時代が下るごとに要塞としての機能が強化されたことや、港が拡大されたことにより、現在ではいつでも歩いて訪れることができる。
城内では、ガーンジー島の歴史や海洋資料を紹介するほか、時代ごとに様式の異なる4つのガーデンが展示されている。毎日正午には、18世紀に設けられた大砲(レプリカ)が鳴らされるので、その時間に合わせて訪れてみるのがオススメ。またコーネット城からはセント・ピーター・ポートの街並みを一望できる。
開館:冬季は閉館期間があるので、事前にご確認の上、お出かけを。
入場料:10.50ポンド
www.museums.gov.gg/article/101089/Castle-Cornet
戦時下の生活を精密に再現 German Occupation Museum
太陽が島中を明るく照らし、ゆったりとした時間が流れるこの島の生活と、およそ80年前に起きた第二次世界大戦を結びつけるのは難しい。しかし隣国フランスがドイツ軍にあっけなく白旗をあげると、1940年6月30日、チャンネル諸島にもドイツ軍の手がおよぶ。
戦況を有利に進めるドイツ軍の勢いに対し、時の首相ウィンストン・チャーチル率いる英国軍は事前にチャンネル諸島の非軍事化を決定。ガーンジー島の住人の半数は島外に避難していたが、残された島民は、占領下での生活を強いられることとなる。占領は緩やかなものだったとされるが、島民の情報源だったラジオが没収され、午後9時以降に外を出歩いた者は射殺されてもおかしくない状況に置かれるなどした。
こうした負の歴史を後世に伝えるため、空港から徒歩10分ほどの場所に「ドイツ軍占領史料博物館」が設けられている。戦時下のガーンジー島に生まれたリチャード・イヨームさんが個人で1966年に設立したものだ。曰く、「子供の頃、この島にはドイツ軍が残していった装備があちこちに残っていた」。多くの人はそれから目を背けていたが、廃棄されたものを集めて展示するようになったと話す。
館内には、戦時中に使われた暗号解読機「エニグマ」やドイツ軍の軍需品が紹介されるほか、当時の一般家庭やハイストリートの様子が再現されている。展示される戦時中の暮らしの記録からは、最前線で繰り広げられた血なまぐさい惨劇とは異なる、戦争の一面が浮かび上がってくる。
伝統のニット ガーンジー・ジャンパー
海での労働に適した着心地、保温性、丈夫さで知らる「ガーンジー・ジャンパー(セーター)」。伝統的に漁師の妻が夫のために編み、その編み方は世代を超えて受け継がれた。家庭ごとに特徴があり、漁師が遭難してしまった際に、それが誰なのかを見分ける手段だったとされる。
19世紀に海軍水兵のユニフォームとして使われたことでガーンジー生まれのこのジャンパーは一躍その名を広める。エリザベス1世、スコットランド・メアリー女王も愛用し、メアリー女王にいたっては、処刑される際にガーンジー・ニットの靴下を履くことを希望したという話も残っている。
現在市販されているものは機械を使って編まれているが、仕上げだけはハンドメイド。数社から販売され、日本にも輸出されている、1964年創業の「Le Tricoteur」のファクトリー・ショップ(地図⑦)を訪てみると、スタッフが「ちょうど日本に送る商品を仕上げているの」と機械に向かっていた。
またガーンジー島の生活を紹介する博物館「National Trust of Guernsey Folk and Costume Museum」(地図⑧)では、ガーンジー・ジャンパーをはじめ、過去250年以上の島民の生活が紹介されているのでこちらもオススメの観光スポット。
貝殻でできた教会 Little Chapel
幅およそ2・7メートル、奥行きおよそ4・8メートル。大人が5、6人ほど入っただけで圧迫感が感じられるこのチャペルは、そのサイズだけでなく装飾もユニーク! チャペル内外にはなんと無数の貝殻、小石、陶器の破片が埋め込まれ、カラフルなモザイクは時に輝いているようにも見える。
始まりはフランスで反教権主義が高まった19世紀末期。およそ200人の修道士らがガーンジー島に亡命すると、ひとりの修道士がフランス・ルルドのロザリオ大聖堂のミニチュアを完成させた。それがこのリトル・チャペル。「個人で建てた」と聞くと、信仰心の深さが感じられるが、実は趣味だったとされる。後に2度の建て直しを行っており、1939年に完成したものが現在に残る。
ちなみに、取材中に出会った地元のタクシー運転手によると「初めて訪れたのは50年も前になるけど、今でも来るたびに面白い柄や形のパーツを見つけることができるんだよ」とのこと。島民から愛されていることを感じた。
リトル・チャペルは現在修復工事が行われているためチャペルの周辺に足場が組まれているが、中に入って見学することは可能。
http://thelittlechapel.gg
Travel Information ※2017年2月13日現在
アクセス
ロンドンからは、航空会社「Aurigny Air Services」の飛行機が運行。英国本土から訪れる場合、パスポートは不要だが、写真付きの身分証が必要。
通貨
単位はポンドとペンスで、紙幣、硬貨ともにガーンジー島独自のものが発行されている。英国本土のポンド(GBP)とレートは1対1。英国本土の紙幣は島内で利用可能だが、おつりがガーンジー・ポンドで渡されることもある。ガーンジー紙幣は英国本土の銀行で交換してもらえる(硬貨については、使うことも交換してもらうこともできない)。またガーンジー島と同じように独自の通貨を持つジャージー島では、お互いの通貨を使うことができる。
島内での移動
レンタカー、タクシーなどの車移動が便利。
周辺の島へのアクセス
ガーンジー島から、本誌2016年9月15日号で特集したサーク島、ジャージー島、オルダニー島、ハーム島へのフェリーが運航されているので、他の島へと出かけてみるのも一案。
週刊ジャーニー No.971(2017年2月16日)掲載