英雄から首相へ



1839年のウェリントン公
 ワーテルローの戦いの後、ウェリントン公はまぎれもなく英国の英雄となった。その後、彼は政治家として活躍し、英国首相を務めるという大出世を果たすが、これは彼の政治的野心からというより、国王への忠誠心が強い彼が、トーリー党(現保守党の前身)の大幹部に推されたためである。しかし、西郷隆盛など多くの歴史上の人物がそうであったように、「優れた軍人が優れた政治家である」という相関関係はやはり成り立ち難いものだった。
 ウェリントン公は政治家としての経験も豊富で、諸外国の君主や指導者たちとも親交があり、外交にも精通していた。ウェリントン公持ち前の実直さや度量の深さも政府に生かされるだろうと、新首相に人々は大きく期待した。
 しかし、当時の彼には首相として、政治家として、致命的な欠点があった。ウェリントン公は戦況と違って、英国の現状を直視しようとしなかったのだ。彼は成長期にフランス革命の恐怖を目の当たりにしたことなどから、今ある秩序を壊すことを恐れた。しかし、当時は産業革命の進展により、工場労働者が激増し、選挙権の拡大など、新たな時代の到来を国民が訴えた時代。それでもウェリントン公は世論に耳を貸さなかった。
 この彼らしくない一面には、その健康状態の悪さも影響していたのかもしれない。1822年に難聴(常に大砲や銃音にさらされる軍人の宿命といえる)の治療を受けたものの、その後の回復が思わしくなく、頭痛、胃痛、肩の痛みに苦しめられていたという。


ウェリントン公の寝室に敷かれたカーペットは、ロンドンにある彼の邸宅、アプスリー・ハウスと同じ柄のものに張り替えられている。
 
 ウェリントン公は1828年から首相を務めたが、30年の11月末に下院で内閣の不信任案が可決され、辞職。後任の首相、グレイ卿が提起した選挙法改正案にも異論を唱え続け、さらに国民の非難にさらされてしまう。その結果、1831年、妻、キティが亡くなったわずか3日後であるにもかかわらず、ロンドンのハイド・パーク・コーナーに建つウェリントン公の邸宅、アプスリー・ハウスに、暴徒が石を投げ込むという事件まで起こった。
 ワーテルローの戦いでの輝かしき栄光は、残念なことに国民の失望と、非難にすり替わってしまった。しかし、英国国教会成立後、不当な扱いを受けていたカトリック教徒の解放令、今のロンドンの都市警察(世界で初めてパトロール警察が考案された)制度の創設などは、彼の残した大きな功績と言えよう。
 その後も、1834―35年、外務大臣、1841年、無任所大臣、そして1842年―52年には陸軍総司令官の職に着き、その生涯を終えるまで黙々と任務を遂行し続けたことには、彼の真面目な人柄があらわれている。

 

お気に入りの居城での死



ウォルマー・キャッスルの森。ウェリントン公は晩年にも、この森を散歩しながら、「私は1人の人間でしかありません」と友人に語ったという。
 ウェリントン公は、首相を務めていた1829年、五港長官(右コラム参照)に任命され、約23年務め続ける。
 彼は、その居城であるウォルマー・キャッスルをたいそう気に入っていた。毎年秋にこの地を訪れては、城を「最も愛すべき海辺の住居」、城を取り囲む広大な庭園や森を「世界一素晴らしい」と賞賛した。彼は貴族階級でありながらも、質素、倹約を好んだ。この城の質実剛健な雰囲気は彼の好みにしっくりとはまり、居心地がよかったのだろう。
 時は流れ、1852年9月14日、ウェリントン公はウォルマー・キャッスル内の寝室にいた。起き上がることも困難な病状だったというが、彼はその日、シングル・ベッドをゆっくりと離れ、隣の肘掛け椅子に腰を下ろした。彼はそこで何を思ったのだろう。午後3時半前、老衰により永眠、享年83。その後2ヵ月間、遺体は同城に安置された。


ウェリントン公のデスマスク(死面)。口、顎部分が陥没している。当時の軍人は歯痛を防ぐために歯を全て抜いたためであるという。
 11月18日にはロンドンの聖ポール大聖堂で、彼の功績に敬意を表し大々的に国葬が執り行われる。しかし、同大聖堂の地下にしつらえられた墓は、同所の身廊にあるウェリントン記念碑とは対照的に、彼の謙虚さを反映し飾り気がない。
 『習慣は第2の天性となり、天性の10倍もの力を持つ』というウェリントン公の言葉が物語るように、彼は華やかでカリスマ的な指導者というより、『努力の人』だった。彼自身がそれを分かっていたからこそ、「普通(ただ)の人」という姿勢を忘れぬよう、自らに言い聞かせ続けていたかもしれない。
 「鉄の公爵」というレッテルに隠されたウェリントン公の人間的な側面を知るにつれ、彼が愛した一見朴訥なウォルマー・キャッスルにも温もりが感じられる気がした。



 

ウェリントン公だけではない
ウォルマー・キャッスルゆかりの著名人
 1708年から、ウォルマー・キャッスルは五港長官Lord Warden of the Cinque Portsの居城となった。 Cinque Ports(フランス語の5、サンクcinqが語源だが、シンク・ポーツと発音)とは、軍船の提供を条件にイングランド南東部の海防の責任を追った特権五港(ロムニー、サンドウィッチ、ハイズ、ヘイスティングズ、ドーヴァー)を指す。これら五港をまとめる五港長官は、16世紀ごろからその要職としての役割を失い、あくまで儀礼的な役職となった。しかし、君主から授けられる中でも大変名誉ある位とされている。 五港長官は、首相や英国の王室関係者から選ばれることが多いため、ウォルマー・キャッスルにゆかりのある著名人は多い。その中から3人を紹介しよう。

ウィリアム・ピット William Pitt the Younger
  24歳という史上最年少で英首相に就任したことで知られる政治家(1759年~ 1806年)、通称小ピット。チャタム伯ウィリアム・ピット(元首相、通称大ピット)の次男でもある。1792年から約14年に渡り五港長官を務めた。 城内には「ピット博物館The Pitt Museum」と呼ばれる部屋があり、小ピットにまつわる展示品が並べられている。
<右の椅子の写真>賭け事の際に、前後反対を向いて座ったというユニークな椅子


W. H.スミス William Henry Smith
大手ニュース・エージェントとしておなじみのW. H. Smithの創業者(1825年~1891年) 。父親(同名)と協力しながら、鉄道を利用した新聞、本、雑誌の流通を発展させ、世界で初めてニュース・エージェントを誕生させた。その事業の成功を踏み台として、政治の世界にも進出。下院議長を務めていた1891年から五港長官を務めるも、その頃からすでに体調は芳しくなく、同年夏にウォルマー・キャッスルを訪れ、10月7日に同城で息を引き取る。 1年足らずという短い期間の在任ではあったが、彼はウォルマー・キャッスルにあるウェリントン公爵らにまつわる貴重な家財を城内にとどめておくために、それらを正式な法廷相続財産として保護する制度を作ることに尽力した。

クイーン・マザー Queen Elizabeth The Queen Mother
  現女王、エリザベス2世の母(1900年~2002年)。クイーン・マザーは女性初の五港長官として1978年から約10年任務に就いた。 102歳の長寿をまっとうし、大らかで多くの人に愛されたクイーン・マザーは、毎年この城を訪れ、地元の人々とも交流を深めていた。101歳を迎えた年でさえも、7月にヘリコプターで同城に訪れ、週末休暇を楽しんだという。 また、クイーン・マザーは、庭の手入れにも大変力を入れていたことから、95歳の誕生日にイングリッシュ・ヘリテージからウォルマー・キャッスル内の庭園のひとつが贈られた。繊細なピンク色のバラ「クイーン・マザーズ・ローズ」などが見られるその庭園は、「クイーン・マザーズ・ガーデン the Queen Mother's Garden」=写真左=として現在も訪れることができる。