欧州の帝王との対峙

 1804年に「フランス人民の皇帝」となったナポレオンは、やがて英国・スウェーデンを除く欧州全土を制圧し、その栄光の絶頂を極めていく。その頃、南東イングランドのヘイスティングズで、少将として衛兵の修練を指揮する現役の軍人兼国会議員を務めるという比較的平穏な日々を送っていたアーサー。
 しかし、1807年からその人生は激動の時代へと突入する。アイルランド担当大臣に就任する一方、コペンハーゲンに遠征して宿敵ナポレオンと提携するデンマーク軍を撃破。さらに翌年からは、中将としてイベリア半島での半島戦争でナポレオンに抵抗するスペイン・ポルトガルの民衆を支援。ナポレオンの皇帝即位以来、初めて陸上でフランス軍に勝利を収めるなど、アーサーの指揮官としての手腕が大いに発揮される。
 これらの功績が認められ、1809年、アーサーは、「ウェリントン子爵」に任ぜられ、12年には伯爵、侯爵へと、とんとん拍子に昇進。 
 1813年には元帥となり、ますます勢いづくアーサーと反比例するように、フランス軍はモスクワ遠征失敗などを経てみるみるうちに衰退の途を辿る。そして1814年、とうとうナポレオンは退位に追いまれた。「やったぞ!」これには、さすがのアーサーも指をパチンと鳴らして喜んだと伝えられる。歓喜に沸く英国でも、アーサーの凱旋帰国を国民総出で歓迎。同年、彼は「ウェリントン公爵」(以後、本稿ではウェリントン公と呼ぶ)に叙された。

 


 

天下分け目のワーテルロー



ウォルマー・キャッスルの入口
 その喜びもつかの間、ナポレオンの失脚後における欧州の行く末が討論された「ウィーン会議」が行われる。ここでウェリントン公は、英政府の全権代理を務めるが、まさにフランス代表のタレーランが風刺した通り「会議は踊る、されど会議は進まず」。各国の主張は食い違うばかりで、舞踏会に明け暮れる日々だった。
 ところが翌1815年、イタリア半島中西部のエルバ島に追放されていたナポレオンが脱出した、という衝撃のニュースが飛び込んでくる。
 当時、ルイ18世の即位により始まった王政復古の政治にフランス国民は不満を爆発させていた。そのような状況の中、ナポレオンはパリに戻り、国民らの多大な支持を受け、皇帝として復活。
 これに対抗し、「同盟国共同宣言」では、ナポレオンを打倒すべく英国はじめ諸国連合軍とプロイセン軍の派遣が決定される。ウェリントン公は連合軍の司令官として、戦場となるベルギーに急行した。
 いよいよ8月18日、「ワーテルローの戦い(左コラム参照)」が勃発。四面楚歌のナポレオン軍、長期にわたったナポレオン戦争を今度こそ打ち止めたいウェリントン軍、両者必死の接戦が繰り広げられた。 2人の指揮官は対照的だった。ナポレオンは、栄光を極めたころの天才的な勘に冴えはなく、戦いの最前線に自らは立たず他人任せにするなど、戦闘へのストイックさを喪失。的確な状況判断や戦略もないまま、がむしゃらに突き進み続けたため、想定以上に戦力(兵士数)を消耗したことが痛手となった。
 一方でウェリントン公は、寝食の時間も惜しみ現状を確実に把握することに努める。防御戦をベースにしながらも、相手のすきをついては攻撃をしかけ、確実に打撃を与えた。戦場を隈なく駆け回り、常に戦闘の渦中で指揮をとり続けた。また、いかに犠牲者を少なくするかを最優先し、兵士たち一人ひとりに食糧、軍服、軍靴、装備などが十分に確保されるよう父親のごとく細やかな気配りを行ったことも彼らしい一面だ。
 結果はウェリントン軍、プロイセン軍の勝利。これにより、復位から始まった百日天下は幕を閉じ、ナポレオンは南大西洋の孤島セント・ヘレナ島に終生幽閉されることとなる。
 ウェリントン公がワーテルローの戦いで見せた卓越した指揮を誰もが絶賛した。運はもちろんだが、彼の戦略、タフさ、勇気、努力あっての勝利であったことは間違いない。
 しかし、ウェリントン公の中には勝利の喜びに勝る感情があった。
 「これほど多くの犠牲を払って戦いに勝った時ほど悲しいことはない」
 彼はワーテルローでの死傷者の一覧に並ぶ友人や部下たちの名前を見て、涙を止めることができなかった。その栄光をひけらかすでもなく、淡々と記された戦いの報告書には、彼の涙の跡が残っているという。


 

ナポレオン戦争への終止符
ワーテルローの戦い



「ワーテルローの戦い」でのウェリントン公と彼の愛馬、コペンハーゲン(中央)。主人と同じく根性と忍耐力を持ち合わせた同馬は、1812年~15年にウェリントン公の右腕として活躍。ワーテルローの戦いでも2日間休みなく主人と共に駆け回った。晩年は妻、キティが手元に置き、1836年に28歳で死去。その葬儀でウェリントン公は「最高のパートナーだった」と労った。
 「ワーテルローの戦い」は、1815年6月18日、ベルギーのブリュッセル南方にあるワーテルロー(Waterlooのベルギー語読み)で勃発。皇帝に返り咲いたナポレオンを撃つべく組織された、ウェリントン公を長とする英国はじめ諸国連合軍は6万8000、ナポレオン率いるフランス軍は7万2000の規模だったとされる。 両者とも一進一退の戦況の中、戦が中盤にさしかかった頃、同盟国の援軍、プロイセン軍4万8000が無事到着し、戦況は徐々にウェリントン公側に有利に傾く。ナポレオンは最後にかつて無敵と謳われた親衛隊を送り込むも、連合軍の近衛部隊の射撃攻撃の前に敗北、フランス軍は敗れ去る。 死傷者は、連合軍・プロイセン軍計2万2000、フランス軍計2万5000とも言われる死闘により、ナポレオンの時代は幕を閉じた。